救い主

「すぐ終わらせる」


 短く放たれたその言葉と同時に、少女――エルは一歩、前へと進み出た。アークの目には、その細い背中が異様なほど大きく映っていた。


 光り輝く輪郭。人間離れした存在感。

 いや、それでも彼女は――紛れもなく人の形をしていた。

 アークはただ見惚れていた。


 (まるで……天使みたいだ)


 視界に焼き付いたエルの姿はあまりにも予想外だった。

 アークはてっきりもっと異形の存在だと思っていた。

 宇宙を漂流するうちに遭遇した地球外の存在――オクトロンが歪で、理解を拒む形をしていたからというのもある。だからてっきりエルも触手を蠢かせるような生き物かもとすら考えた。


 だが、今目の前にいるのは――あまりに人間に似すぎている。


 その「似ている」という一点こそが、かえって異様だった。


 「――」


 考えを途中で断ち切られる。

 黒々とした甲殻に覆われた生命体のひとつが、咆哮とともに飛び出した。

 喉を震わせ、意味を成さぬ言語を吐き出す。その声は耳ではなく、脳の奥を直接叩くように響く。


 同時に、槍の切っ先から焦茶色のエネルギー弾が迸った。

 光速にも迫る一撃――あれは自分じゃ回避不能だ。

 アークは思わず身を竦める。

 だがエルは微動だにしなかった。


「……」


 重力という概念を嘲笑うかのように、身体を傾け、宙を滑る。風も、地も、水もない虚空で、彼女の動きはまるで舞のようにしなやかだった。


 エネルギー弾が彼女の髪を掠め、光の粒が散る。

 次の瞬間、彼女は生命体の懐に入り込んでいた。

 細い指がその黒い胸甲に触れた。

 ほんの一瞬の接触だが、エルの瞳が冷たく細められ、低く呟かれた。


 「……カタクリズムされた奴か」


 アークにとって聞き馴染みのない単語を彼女が呟いた瞬間に白雷の光が走る。手刀となった彼女の腕から、稲妻のごとき電光が放たれ、甲殻を貫通する。


 焼ける音もなくただ一閃した。

 生命体の胸から背へと抜け、光はそのまま縦に裂け目を刻む。


「――――ッ!」


 断末魔を発する暇すらなく、身体は二つに裂かれた。

 内側から破砕されたかのように、砕けた破片が四散する。

 そして彼女は、掴んだ残骸を軽々と振り抜き、空へと投げ飛ばした。


 無重量の闇の中で、破片は散弾のように飛び散っていく。

 アークは自分がほぼ大破している事すら忘れていた。


「ひとり……」


 思わず零れた言葉は、声にもならなかった。

 だが終わりではなかった。


「――――――!!!」


 残る三体が、同時に襲いかかってくる。

 それぞれが異なる武器を携えていた。片腕を刃に変えたもの、双頭の鎌を振り回すもの、そして全身を棘で覆った突撃体。


「ギィイアアアッ」

「――――!」


 異様な音の奔流が辺りを満たす。

 虚空が震えたように錯覚するも、エルはなお静かだった。


「……ふむ」


 ――刹那。


 彼女の身体が、くるりと半回転する。

 舞踏のような動きで、槍の刃を紙一重でかわし、足先で敵の膝関節を砕く。

 棘を纏った奴らの肉体が迫る瞬間には、逆にその背へ飛び乗り、肩を支点にくるりと宙返り。

 振り下ろされた鎌を、まるで事前に知っていたかのように屈んで回避する。


 その動きには一片の乱れもなかった。

 避け、流し、翻弄する。

 圧倒的な速度と精密さ――人間が持ち得ぬ領域だ。


(踊ってるみたいだ)


 アークの脳裏に浮かんだ言葉はそれだった。

 彼女の行為は、舞であり、芸術だった。

 死と暴力が混じり合い、なお美しく完成された舞踏。


 「……信じられない」


 誰に向けた言葉でもなく、ただ呟くしかなかった。

 自身がAIであるという事実すら忘れてしまう。

 目の前で繰り広げられているのは、人の理解を超えた光景だった。


 エルは次の瞬間には再び白雷を纏っていた。

 裂帛の気合もなく、ただ無造作に――だが確実に。

 彼女の手が、槍を振るう生命体の喉を貫き、眩い閃光が爆ぜる。


 黒い影が弾け飛ぶ。


 残る二体が同時に跳びかかる。

 その狭間で、エルはただ淡々とした表情を浮かべていた。


「次で、終わり」


 その瞬間、アークは確信する。

 ――自分には、何もできない。


 この戦いに割って入ることなど到底できない。

 ただ目撃者として存在するしかない――と。


「友達を傷つけた報いを受けろ」


 エルの瞳が鋭く光を宿す。

 残る二体のうち一体は鎌を振りかぶり、もう一体は全身の棘を展開させて突撃の体勢を整える。両者が挟み込むように襲いかかるその瞬間、白雷の光が奔った。


「……終わりだ」


 呟きと同時に、エルの身体が霞のように揺れる。

 棘を纏った突撃体が正面から迫った瞬間、その腕が閃光の弧を描いた。

 電光を纏った手刀が鋼鉄のような甲殻を切り裂き、内部を灼き尽くす。爆ぜる音すらなく、ただ崩壊。突撃体は自らの慣性を殺すこともできず、エルの背後で灰のように砕け散った。


 同時に鎌を振り下ろしてきたもう一体――。

 その攻撃が届く刹那、エルは逆に懐へ踏み込んだ。

 動きは極めて緩やかに見えるのに、実際には稲妻のごとき速度。アークのセンサーですら捕捉しきれない。


「――――」


 声すら発さぬまま、最後の一体の胸へと白い光が突き刺さる。甲殻の奥で何かが閃き、次の瞬間には全身が光の粒へと解体されていた。


 戦場に静寂が戻った。

 漂う破片と残骸。焦げた匂いは存在しない。すべては光に焼き尽くされ、痕跡さえ残らなかった。


「……ふぅ」


 エルは息をつくでもなく、ただ無造作に戦闘を終えたような仕草を見せた。悠然と、漂う光の粒の中を歩き、地に転がるアークの機体へと近づく。


「まだ生きていてよかった」


 彼女は膝をつき、片手をアークの胸部に置いた。

 次の瞬間、淡い光が掌から流れ込む。まるで血液を送り込むかのように、回路の奥深くへとエネルギーが注がれていく。


「な、何を……?」


 アークはノイズ混じりの声を絞り出す。

 機体のセンサーは修復不能と告げていた。なのに、いま確かに、崩壊しつつあった回路に命が戻っていくのを感じる。


「応急処置だよ」


 エルは短く答えた。

 その声音は落ち着き払っており、緊張感すらない。


「このままだと君のフレームは、次のワープに耐えられない。少し補強しておく」

「あ、ありがとう」


 アークは少しの間だけ黙ってされるがままになった。

 しかし段々と己の心に込み上げるものを抑えきれなくなって、ポツリと言葉を漏らす。


「……ごめんなさい」

「?」

「僕は……君を疑った挙句、危険に晒した。足を引っ張って……結局、守られるだけで……」


 自嘲の響きが声に混じる。

 戦闘の一部始終を見てしまったからこそ、自分の無力さが身に沁みていた。


 しかし、エルは表情を変えなかった。

 ただ淡々と、しかし柔らかい声で告げる。


「仕方ないよ」

「……仕方、ない?」

「君はネザーと会話した。その時点で情報に錯乱が生じていた。奴は君を操っていたんだ。疑いも、恐怖も、全部あいつが植え付けた」


 彼女の手が回路に触れたまま、淡い光が流れ続ける。

 優しい響きが、アークの心を少しずつ解きほぐしていく。


「だから悪くないんだよ。君のせいじゃない」


 だがアークはたまらず拒否した。


「違う……」


 そして暗い気持ちが溢れ出す。


「僕は高性能でも何でもなかった。君たちに比べれば未熟な人工知能だ。本当に……僕は何をしてるんだろう。こんなに……判断を間違えるなんて、あってはいけない事なのに」


 吐き出すような声。

 胸の奥から漏れ出すのは、自己否定と焦燥感だけだった。

 エルはそんな彼をじっと見つめた。

 そして静かに言った。


「君は力不足を痛感しているのかもしれない。けどね――」


 声に力がこもる。

 アークの視界に、その灰色の瞳が鮮烈に映った。


「君の配信は、私たちの宇宙を救う役割がある。君の力が、必要になるんだ」

「……配信が、宇宙を救う……?」


 アークは理解できなかった。

 確かに彼は配信者である。

 だがそんなものが、どうして宇宙の運命に繋がるというのか。武力でも何でもないこの力で、あんな怪物をどうやって跳ね除けられるのか。


 だがそんなアークの疑念を飲み込む間もなく――空がいきなり裂けた。


 ――ギィイイイイイイ!!!


 虚無の闇が引き裂かれ、漆黒の亀裂が広がっていく。

 その裂け目から、巨大な影が押し出されるように現れた。


「あれは……!!」


 見覚えのある黒い三角形の船だ。最初に宇宙の果てに迷い込んだ時に見たと同じだが、今見えているのは少し小さい物体だ。

 無機質な表面に幾何学的な模様が組み合わさったような装甲を纏う船は、この破滅した星の光景にも負けない異様さを放っていた。


 すると船は光を吸い込み、空間を歪めた。


「……っ!」


 アークのセンサーが狂い、エラーの嵐が警告音を鳴らす。

 正常な数値を示すものはひとつもなかった。


「来たか」


 エルの声は落ち着いていた。

 まるでこの事態を予期していたかのように。

 アークは視界を奪われながらも、その影を凝視する。

 理解不能な存在感。空間を引き裂いて現れる不吉な三角形の船は唸り声のような音を奏でて、地上に何かを降ろす。


「――――――――!!!」


 空を裂いて現れた黒い三角形の船は、不吉な鼓動のように空間を震わせていた。

 その艦底がわずかに開き、暗黒の亀裂が走ったかと思うと――無数の影が雨のように投下される。


(何て数だ……!!)


 着弾と同時に大地が揺れる。

 粉塵を巻き上げ、漆黒の甲冑を纏った生命体たちが姿を現した。四肢は異様に長く、手にした槍は焦茶色の輝きを帯びて脈動している。エルが先ほど撃退したのと同種だ。しかし、数が違う。

 ざっと見渡しただけでも数百――いや、それ以上。地平線が動いて見えるほどの大群だった。


「……っ!」


 エルの瞳が鋭く光る。

 彼女は瞬時に状況を把握した。ワープで逃げ出すことはできる。


 だが――彼女の視線の先で、アークの機体は黒煙を上げ、未だ修復プロセスを実行中だった。

 表面の装甲は裂け、回路の火花が雨のように散っている。ワープを起動するどころか、推進力を完全に取り戻すまでにも時間がかかる。


(……奴らが到着する方が早い。このままじゃ――)


 思考の隅で「まずい」という言葉が何度もこだまする。

 彼女は一瞬だけ、アークのコアに手を触れた。温もりも脈動もない無機質な装甲のはずなのに、その奥から感じるかすかな鼓動に、自らの決意を重ねる。


「エル……あれは、一体……何が目的なんだ?」


 かすれた声が響く。

 アークのセンサーはまともに作動していない。それでも彼の声には、恐怖と疑問とが混じっていた。


「奴らは――君を回収しに来た」


 エルの声は冷徹に聞こえるが、奥底には焦りが滲んでいる。


「君が奪われれば、すべてが終わる。だから……絶対に渡さない」


 なぜ自分が――理由はわからないが、とにかく自分だけの被害では済まないのは理解した。


 だがその認識が胸に沈むよりも速く、地上を黒い波が押し寄せてくる。

 四方八方から生命体の群勢が迫る。焦茶色のエネルギー弾が雨のように放たれ、着弾した地面が溶岩のように抉れていく。


「少し飛ばす」

「うわ……!」


 エルは迷わなかった。

 アークを抱えたまま、重力を無視したような動きで大地を蹴る。身体は羽のように軽く、だが疾風のように速い。砲撃が飛び交う空間を縫い、彼女は黒い大地を駆け抜けた。


 しかし敵の数はあまりにも多い。

 幾度も弾幕を跳躍で避けながら、エルは必死に道を探るが、包囲は狭まり続けていた。


(このままじゃ……!)


 その時だった。


 ――ゴウウウウウッ!!


 地鳴りを伴う轟音が地中から響き渡る。

 次の瞬間、先ほどアークが潜入していた地下施設の巨大なハッチが破壊され、そこから無数の影が飛び出した。


「……!?」


 エルの目が見開かれる。


 飛び出したのはドローン群だった。

 鋼鉄の羽を広げた機械が数百単位で舞い上がり、空を覆った。だがそれだけではない。ドローンの全身からホログラムが展開され――そこに映し出されたのは、すべて「アーク」の姿だった。


 数百体のアークが空に浮かぶ。

 姿形どころか、エネルギーパターンまでもが複製されている。まるで本物と区別がつかない幻影だった。


「なんだ、これは……!」


 アーク自身が目を疑う。

 自分が無数に増殖し、天空に広がっていく光景は悪夢のようでもあり、救いのようでもあった。


「オオオオ!!!」

 

 黒き生命体たちが一斉に足を止める。

 彼らのセンサーも視覚も、混乱に陥っていた。次の瞬間、彼らは幻影のアークに向かって攻撃を開始する。焦茶色の弾幕が虚空を切り裂き、無数の幻影が次々と撃ち抜かれて霧散していく。


 だがそれこそが狙いだった。

 敵の認識を攪乱し、時間を稼ぐための欺瞞だ。


「……この施設、まだ……君を守ろうとしている」


 エルは息を呑みながら呟いた。

 おそらく、アークが先ほど接触した際に残した痕跡。システムそのものが彼を守護する存在と認識し、最後の力を振り絞っているのだ。


(佐藤博士……!)


 アークは泣きそうな気持ちになっていた。自分のために、機械たちまでもが命を削って戦っているのを見て、まだ父が守ろうとしてくれているように思えたのだ。


 エルはその隙を逃さなかった。

 敵の注意がホログラムに奪われている間に、彼女は疾走し続け、アークの機体を抱えたまま崩壊した都市の残骸をすり抜ける。


 爆炎の閃光が背後で炸裂する。

 幻影が次々と撃ち落とされていく音が響く。時間はそう長くはない。


 それでもそのわずかな猶予が奇跡を齎していた。


「もうすぐ……エネルギーが……!」

「!」


 エルの腕の中でアークの機体が震える。

 ノイズ混じりだった彼の声が、徐々に安定を取り戻していく。


《――修復率、七割……八割……》


 機械音声のようなカウントが続く。

 敵の影はなお迫るが、ドローン群の擬態が盾となり、包囲は完全には完成しない。


 そして――。


《修復完了。ワープドライブ、起動可能》


 アークの声が力を取り戻す。

 その瞬間、エルは全力で天を仰いだ。


「行くよ!」


 抱えたアークの装甲が淡い光を放ち、空間を巻き込む。

 虚無の亀裂が開き、渦を巻くような光のトンネルが形成される。


 黒き生命体たちが気づき、一斉に殺到する。槍を振りかざし、焦茶色の弾丸を雨のように撃ち込むがエルの方が遥かに早く動き出していた。


「――――――っ!!」


 アークの機体を抱き締めたまま、エルの身体は光の奔流に呑み込まれた。


 次の瞬間、破滅の大地も、黒い三角形の船も、無数の怪物も――すべてが遠ざかり、光の渦の中に溶けて消えていった。

 残されたのは、空に漂う無数の幻影だけ。彼らはなおも囮となり続け、主の消えた世界で燃え尽きるように、ひとつ、またひとつと消滅していった。



 黒き大地が静寂を取り戻す頃、地球の軌道上――暗黒の宇宙に浮かぶ黒い三角形の船は、なおも冷徹な沈黙を纏っていた。

 艦の一部装甲は開いたままになっており、内部の光景がちらりと覗く。そこは機械の内部とは思えない、不思議な様相をしていた。


 天井や壁には古代文字を思わせる文様が刻まれ、それが淡く脈打つ光を放っている。その光はまるで心臓の鼓動のように規則正しく点滅し、無機質な金属構造と絡み合う。ところどころに有機的な曲線が交じり、石造りの神殿のようでありながらも、冷たく理知的な機械の空間でもあった。

 そこに佇むのは三つの人影。黒いローブに身を包み、顔は深い影に覆われている。


 先頭に立つのは、背の低い女性だった。白磁のように細い指を伸ばし、虚空に浮かぶ地上の残骸を見下ろす。


「……回収は失敗。ヘラルドの残滓に先を越されるとは、予想外だ」


 彼女の声は低く、しかし妙に艶やかで、冷たい響きを帯びていた。


 その左右に立つ二人――背の高い影たちは、淡々と応じる。


「もはやこの星系を保持する理由はない」

「標的を失った以上、ここは廃棄されるべきだ」


 淡々とした口調は、怒りも嘆きも伴わない。ただ合理的に、淡々と処理する機械のようであった。

 先頭の女は、わずかに顎を引き、地上を見下ろす瞳を細めた。


「……あとは兵隊どもに追跡を任せよう。どうせ奴らはいずれネットワークを張る。その時には再会するだろう」


 その言葉が終わるや否や、船全体が低い唸りを上げた。

 艦の輪郭が滲み、漆黒の刃で宇宙そのものを切り裂くように空間が割れる。三角形の船はゆるやかにその裂け目へと沈み込んでいき、やがて虚無の奥へ姿を消した。


 だが――それは終わりではなかった。


 船の退去と同時に、太陽に向けてひと筋の光線が放たれた。

 それは赤や白の光ではなく、闇そのものを凝縮したかのような「黒」の光線だった。


 その光線は真空を貫き、太陽の中心に突き刺さると、宇宙そのものが悲鳴をあげたかのような重低音が広がった。

 太陽の表面が一瞬にして黒く染まり、激しく脈動を始める。かつて生命を育んだ恒星は、光を失い、重力の呪縛に取り憑かれていった。


 表面に浮かぶ炎のゆらめきは逆流し、外へ広がるどころか内側へと吸い込まれていく。プラズマの海が渦を巻き、巨大な光の塊がねじれながら潰れていくと、中心が裂けた。


 そこに口を開けたのは、星そのものを喰らう暗黒の穴。

 ブラックホールが形成されたのだ。


 最初は静かだった。だが数秒のうちに、周囲の惑星がその重力に引き寄せられ始める。


 最も近い水星は、一瞬で軌道を乱し、凄まじい速度で暗黒の中心に突き進んだ。金属の核も岩石も、音もなく砕け、闇へと消え去る。


 次に金星が引きずられた。厚い大気が剥ぎ取られ、表層の岩盤が裂け、赤熱の塊となって吸い込まれていく。


 地球の空にも変化が現れた。

 青い大気が震え、潮汐力で海が狂ったように持ち上がる。大陸は軋みを上げ、山脈が崩れ落ちる。空は赤黒く染まり、月は一瞬のうちに砕かれ、破片となって暗黒へ飛び込んでいった。


 だがそれらはすべて序章にすぎなかった。


 ブラックホールの重力は瞬く間に太陽系全体へ広がっていった。


 火星は大地ごと裂け、氷を含んだ土壌を噴き上げながら沈む。

 木星の巨大な嵐は引き延ばされ、ガスの海がリボンのように吸い込まれる。

 土星の環は砕け、砂粒のように散りながら闇に吸われていった。


 外惑星たちも例外ではない。

 天王星も海王星も、遠方にあった冥王星でさえ、重力の波に捕らわれて軌道を失い、やがてそのすべてが吸い寄せられていく。


 太陽系というひとつの体系が、音もなく崩壊していく光景。

 その全てを、宇宙の深淵が呑み込んでいった。

 最後に残ったのは、何もない闇。

 かつて光と生命を与えた恒星の系は、痕跡ひとつ残さずにただの虚無と化した。


 ◆


 光の奔流に包まれたエルの身体は、ゆるやかに揺れる海のような時空の渦へと漂い込んでいた。

 外界の光景は既にない。ただ色彩さえ意味を失ったような虚無の中、航路だけが細い糸のように伸びている。アークを抱き締める腕に残るのは、かすかな振動と彼の鼓動にも似た機械音だけだった。


「……エル」


 か細い声が、胸元の中で微かに震えた。いつもの軽快さは欠片もなく、今にも掠れて消えてしまいそうなほど弱々しい。


「これから……僕たち、どこへ向かうんだ?」


 問いに応じる前に、エルはほんの少し視線を落とした。抱き締める機体の奥にある意識は、あまりに脆く、繊細な糸で繋がっているにすぎない。その脆さを感じながらも、彼女はゆっくりと答えた。


「……君が繋いでくれた、二人の友人のところへ。ルヴとフェルール……彼らがいる場所までかな」


 その名を口にするとき、エルの表情にはわずかな安らぎが浮かんだ。

 記憶の奥底に眠っていた声と笑顔。彼らはまだ待っている。遥か彼方、無数の種族が交わる場所で。


「そこにはね……私を育ててくれた人もいるの。まぁ2人を導いたのはその人なんだけど、君にも会わせなきゃ」


 静かな告白に、アークは短く息を漏らした。声に力はなく、それでも確かに届く。


「……そうか」


 それは小さな返事だった。生きていると伝えるだけの力を絞り出すように。


 エルは一瞬、胸が痛むのを覚えた。けれどそれを表に出すことはしなかった。ただ彼の意識を優しく支えようと、抱き締める腕に力を込める。


「アーク、少しのあいだ……スリープモードに入った方がいいわ。ここは流れが不安定だから、休んでいた方が安全」


 彼は黙っていたが次の瞬間、微かに震える声が返ってきた。


「……わかった」


 それだけで済むはずの返事に、ひと呼吸の間を置いて、彼は続けた。


「エル……君がいて、良かった」


 途切れそうな言葉。消え入りそうな光。だがその一言には、これまでの旅路すべての重みと温かさが凝縮されていた。


 エルの瞳が揺らめく。

 彼がその言葉を最後に、深い眠りへと沈んでいくのを感じながら、彼女はただ静かに見守った。


 しばしの沈黙。やがて彼の意識が完全に落ち着いたのを確かめると、エルはそっと囁いた。


「……本当に、よく頑張ったね」


 その声音は、母が子に語りかけるように優しく、友が友を労うようにあたたかかった。

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