第2話 アルクスの教えと深夜の襲撃者①
異世界に転移した僕は、「アルクスの教え」の人たちに保護されることになった。
保護。面と向かってそう言われたわけではないけれど、実際にはそういうことだろう。
その「アルクスの教え」とは、いったいなにか。
この世界における宗教的なものだというのは、昨日ミティスさんと話してわかった。でも、それ以上のことはわからない。
だから僕は、まずはそれを知りたいと思った。
なにしろ、これから当分のあいだ――もしかすると想像以上に長いあいだ、僕は彼らの世話になることになるかもしれないのだから。
その彼らについて知りたいと思うのは自然なことだし、必要なことでもある。
彼らが僕のことを保護しようとしてくれているのは、決して善意からだけではない。
魔王を復活させないために、僕を自分たちの手許において監視する。
そういう意味合いがあることは、昨日の“影”との会話で理解した。
つまり、決して彼らは味方なんかじゃない。
むしろ敵だ。
少なくとも、僕が元の世界に戻ろうとする限りは、決して彼らはそれを許してはくれないだろう。
僕が元の世界に戻るということは、魔王がこの世界に戻ってくるということなのだから。
――本当なら、彼らの世話にならず、今すぐにここから出ていくべきなのかもしれない。
だけど、そんなことをしても野垂れ死にするだけだ。
僕は元の世界ではただの高校生、なんの技術も知識も持ち合わせちゃいない。
よくある「チート」や「スキル」があればなんとかなるのかもしれないが、残念なことにそういったものを自分が扱える気配はまるでなかった。
……実をいうと、さっき少し試してみたのだ。
ご飯を食べた後、UIの類が視界に表れるんじゃないかと集中してみたり、「ステータスオープン」と口にしてみたり。
結果は、まるでナシ。
どうやら、僕が異世界に転移するにあたって、便利な能力が備わったりはしなかったらしい。
いや、厳密にいうとそれは違う。
たったひとつ、会話能力にだけはまったく不足がなかった。
ミティスさんの話している言葉は、口の動き方からして明らかに日本語ではなかったけれど、自然と翻訳されてこちらのわかる言葉に聞こえる。
その精度のほうはともかく、コミュニケーションがとれるということは本当に便利だった。
そうなると、気になってくることがひとつ。
会話は問題なくできる。
じゃあ、文字はどうなんだ?
書くことまではできないかもしれないが、読むことは?
もし文字を読めたら、それはとてもありがたい。
この世界にも、きっと本はあるはずだ。
仮に本がなかったとしても、それに近しい記憶媒体の類が必ずあるはず。
口伝だけで物事を語り継ぐとか、そういうケースも可能性としてはあるわけだけど……まあ、そのあたりはあえて考えないようにしよう。キリがない。
本があれば、そのなかにはこの世界のことや、儀式で使われた転移魔法のことが書かれているものがあるかもしれない。
それを読み解くことは、僕が元の世界に戻るために必要不可欠だろう。
ただし、気をつけないといけない。
それは、アルクスの教えの人たちから決して疑われないように気をつけるということだ。
彼らにとって、今の僕は魔王を転移させた代償にこちらの世界にやってきた、哀れな犠牲者にすぎない。
その僕が自分の世界に戻るという覚悟を秘めていることは、決して知られてはいけないのだ。
特に、僕が魔王の影と契約を交わしたということだけは。絶対に。
……もしも彼らがそのことを知ったら?
十中八九、僕の自由は失われることになるだろう。
軟禁か、監禁か。少なくとも、今の状態よりもっと監視の目は厳しくなるはずだ。
ミティスさんには今朝、僕の口から異世界に戻りたいという希望を伝えてしまっているから、その周囲にも僕の意思は伝わっている可能性が高い。
でも、そのくらいは大丈夫だと思う。
むしろ、まったく帰郷への思いを見せないことのほうが、かえって怪しい気がする。
あんまり強く帰郷の意思を訴えたら警戒されてしまうだろうが、あまりに突然、故郷のことを忘れたような振る舞いをとれば、それも逆効果になりかねない。
僕が自由に行動できる立場を確保するためには、彼らからの信用は必要だ。
そのためには、帰郷への意思をほのめかしつつ、少しずつこちらの世界にも慣れていく恭順さを示していく必要があるだろう。
そうやって、徐々に彼らから信用を得れば、自然と行動の自由も大きくなる。
できることだって増えていくだろう。
実際、今の僕が身動きできる範囲は広くない。
別に部屋のなかに軟禁されているわけではないけれど、「なにか用事があったら呼んでくださいね」とミティスさんからは言われていた。
勝手に外に出ても怒られたりはしないかもしれないが、それでここの人たちに目をつけられるようなことになったら大問題だ。
しばらくは大人しくしておいたほうがいいだろう。
だから、僕は部屋から顔だけを出して、近くを歩く人に頼んでミティスさんを呼んでもらうことにした。
そして、こう告げたのだ。
「アルクスの教えの、教典みたいなものはありませんか?」
◇◆◇
「アルクスの教え」の教典を読んでみたい。
僕の部屋にやってきたミティスさんにそう言うと、美人の神官さんは驚いたように目を見開いた。睫毛を何度か瞬きさせてから、
「もちろん、それはかまいませんけれど。いったいどうしました?」
訊ねてくる表情には、不審とまではいかないけれど、こちらの真意を確かめるような感情が浮かんでいる。
「えっと。こっちの世界の文字が読めるのかなって、疑問に思って。それに、お世話になる人たちのことはなるべく知りたいと思ったので……」
という返答の内容は、まるっきりの嘘ではなかったから、決して不自然ではなかったはず。
それを聞いたミティスさんは頬をゆるめて、得心したようにうなずいた。
「そうですか。わかりました。すぐに持ってきますから、待っていてくださいね」
くるりと身をひるがえして去っていく。
その後ろ姿が気のせいか、どこか軽い足取りに思えたのは果たして気のせいだろうか。
それからほとんど待つことなく、ミティスさんは戻ってきた。
その両手に抱えるようにして持ってきてくれたのは、分厚い、ひどく古びた大きな辞書みたいな一冊。
その表紙を見た瞬間、ため息をついた。
――読めない。
そこに書かれた文字は、今まで生きてきて見たことのない文字だった。
象形文字なのか、表音文字なのかさえわからない。
子どもの落書きにしかみえない羅列に軽く絶望していると、こちらの表情をうかがったミティスさんがくすりと笑った。
「読めませんか?」
「……はい」
そうそう都合よくはいかない、か。
まあ、会話ができるだけでも十分すぎるくらいなんだから、あまり欲張るべきではないかもしれない。
となると、僕がこの世界のことや、アルクスの教えの人たちのことを知るためには、誰かの口から直接話してもらうしかない。もちろん、転移魔法のこともだ。
これからどうやって、そういう機会をつくっていくべきだろう。
そんなことを考えている僕を、じっと見つめていたミティスさんが、
「よければ、私からお話ししましょうか?」
なんて言ってくるものだから、僕は心の底から驚いてしまった。
まさか、心を読まれたりしてるのか?
この世界には魔法があるのだから、そういうことだって不可能じゃないかもしれない。
実際、魔王は昨日、僕の周りの人たちにそれに近いことをしたということを暗に伝えてきている。
思わず警戒する僕に、ミティスさんはくすくすと微笑んで、
「なんとなく、そうしてほしいんじゃないかと思いましたから。違いましたか?」
こちらを安心させるように、優しくそう言った。
「それは――ありがたいですけど。でも、ミティスさんだって忙しいでしょうし」
「もちろん、一日中というわけにはいきませんけれど。時間がある時であれば大丈夫ですよ」
それに、と続ける。
「私の務めは、あなたのお世話をすることです。あなたのやりたいことであれば、出来る限りそれに応えるように言い付かっています。ですから、遠慮しないでください」
にっこりと微笑んでくる、その表情はまるで絵に描いた善性の塊のよう。
実際、とてもいい人だと思う。
間違いなく、これまでの人生のなかでも出会ったことがないくらい、ミティスさんはいい人だ。
――ただ、僕の敵だというだけで。
「……わかりました。それじゃあ、お願いします。この本に書かれてあることについて、僕に教えてください」
「はい、喜んで」
ミティスさんは嬉しそうに微笑んだ。
……本当に、心の底から嬉しそうな笑顔だった。
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