第1話 金髪の女神官と脳裏に囁く声②


 目の前に、影みたいなモヤがあった。

 かろうじてヒト型とも見えるその影はゆらゆらと揺れていて、なんとなくこっちを笑っている雰囲気があって、ひどく不快だった。


「誰だ、あんた」


 ――それは儂の台詞よ。貴様の方こそ、許す。名を名乗れ――


 随分とおかしな口調で、影は言った。

 やけに時代がかっているというか、まるで漫画のキャラみたいな喋り方だ。


 ――創作物。個性? ふむ、言葉としては理解できるが、意味が通らんな。直喩的な翻訳ではこんなものか――


「直喩的?」


 言ってから、はたと気づく。

 今はともかく、さっきの僕はなにもしゃべっていなかったのに、この相手は反応をかえしてきた。

 つまり、


 ――思考を読んでいる、と? そうではない。儂らは、思考が繋がっておるのだ――


 思考が、繋がってる?


 ――でなければ、貴様ごとき羽虫がこの儂と語らうことなど出来るはずがなかろう――


 その物言いがあまりに尊大だったので、相手の正体にピンときた。


「お前、もしかして……魔王か!」


 くつくつと影が嗤う。


 ――意味が通るということは、お前の世界にも『魔王』は存在するのか。これは面白い――


「ふざけるな。ゲームや漫画じゃあるまいし、そんなのがいてたまるか」


 ――ふむ。遊戯のなかにしか存在しない、か。それは残念だ――


 言って、影はつまらなそうに肩をすくめてみせる。

 ただの影のくせに、ぱっと見でそういう動作だとわかる器用さと、なにより相手の悠然とした態度が癪にさわって、僕は目の前の影を睨みつけた。


「そんなことより。いいのかよ、あんた」


 ――ん? どういう意味だ?――


「こっちの世界の人たちにやられて、どこかに飛ばされたんだろ? 他人の夢なんかに呑気に出てきてる場合なのか?」


 もっと焦るとか、悔しがるとか。

 盛大にしてやられたんだから、少しはそれらしい反応があっていいはずだ。

 僕の思考に、目の前の影は不思議そうに首をかしげて、


 ――ふむ。もちろん、そちらの人間どもには、いずれ今回の報いを受けさせてやるつもりだが――


 気楽な様子で、目の前の影はひょいと両手を広げてみせる。


 ――別に焦る必要もあるまい。この儂とて、『異世界』などという異邦を訪れるのは初めてのことなのだ。こちらの世界も、色々と楽しそうではあるのでな――


 そこで一旦、言葉を止めた影が、意味ありげにこちらを見た。

 にやり、と嗤うような雰囲気。


 ――羽崎紗花とか言ったか。おまえの連れは、随分と甲斐甲斐しいな――


 その名前を聞いた瞬間、頭のなかが真っ白になった。

 それどころか、呼吸だって忘れてしまっていたかもしれない。

 羽崎紗花。

 今、目の前の影が口にした名前。

 それは間違いなく、知り合いの名前だった。

 同じ高校に通う同級生。

 家が近いこともあって昔から付き合いがあったけれど、幼馴染というほどじゃない。

 実際、中学の頃にはほとんど話さなくなっていた。

 それがこの春から同じ高校に通うことになって、ちょっとしたきっかけでまた話をするようになって――単純に、それだけの関係だ。

 だが、どうしてこの影が紗花のことを知っている?

 相手と思考が繋がっているからか?

 だけど僕は、紗花のことを頭に浮かべたつもりはなかった。

 無意識のうちに思い浮かべていたかもしれない。もちろん、そういう可能性はあるだろう。

 だが、今のこの影の物の言い方は、


 ――もちろん、そうではない――


 影は言った。

 こちらを憐れむように、


 ――少しは考えなかったのか? この儂がどこに飛ばされたのか。何故、お前がその世界にやってくることになったのか、とな――


 これが夢じゃなければ、きっと膝から崩れ落ちていただろう。

 僕は呆然と目の前の影を見つめる。

 考えたくない。

 だが、相手から聞かされた言葉は、考えようとしないでも勝手に頭のなかで組みあがっていく。

 この世界の魔王はどこかへ飛ばされて、それと同時に自分がこの世界にやってきた。

 どこかの世界に飛ばされた魔王は、なぜか俺の知り合いの名前を知っていて、しかもその口振りはまるで実際に会ったことがあるような物言い。

 これらから想像される結論は一つだった。


 この世界の魔王が飛ばされた世界。

 それは間違いなく、僕が元いた世界だ。


 ――その通り。羽虫にしては冴えている――


 嫌味ったらしく、拍手の振りをしてみせる影。

 それを睨みつけて、


「……ふざけるな」


 拳を握りしめ、そのまま思い切り振りかぶった。

 人間であれば頭があるだろう箇所を狙って叩きつけた拳。

 しかし、全力で振り抜いた拳はあっさりと相手をすり抜けてしまう。

 勢いのままつんのめりかけて、態勢を立て直している背後から、呆れたような声。


 ――間違えてくれるなよ。お前をその世界に“転位”させたのは、儂ではない――


“転移”ではなくて、“転位”。

 つまり、この世界の人たちが魔王をどこかへ追いやるために使った儀式魔法は、一方的に誰かをどこかへ飛ばす“転移魔法”ではなく。他の世界の誰か、なにかとの位置を入れ替える“転位魔法”だったのだろう。

 ――本当に、ふざけてる。

 この世界の連中は、そのことを知っていたのか?

 だとしたら、僕がこの世界にやってきたのは決して事故なんかじゃない。

 最初から予想されていたことだ。

 魔王をどこかへ追いやるために選ばれた、ただの生贄。

 それが僕ということになる。


 ――そういうことだ。お前が現れたことは、やつらにとって当然の結果。アルクスの教え? 隣人に愛を? ふふ、片腹痛いとはこのことだな――


 脳裏に浮かんだミティスさんの笑み。

 同時に蘇る、彼女から聞かされたばかりの言葉を揶揄するように影が嗤う。

 それじゃあ。

あの親切そうな表情も、嘘だったのか?


 ――当たり前だ。奴らは、お前を手許に置いておきたいのだ。何故だかわかるか?――


「……あんたが戻ってきたりしないように、か」


 ――そうだ――


 満足そうに影は頷いた。


 ――今、こうして会話ができているように、儂とお前のあいだには一種の“繋がり”が出来ている。その繋がりを介して、奴らは儂とお前を転位させたのだ。

 儂が行って、お前が来た。ならば、お前が戻ったのなら、この儂もまた戻るのが道理。奴らは、決してお前を元の世界になど戻さぬだろうよ――


 この世界の人たちとしては、当然そうなるだろう。

 せっかく大勢の犠牲をはらって魔王を追いやったのだから、その魔王が元の世界に戻るようなことを手伝ってくれるはずがない。



 ……それは、難しいと思います。



 奥歯に物が挟まったような言い方をミティスさんがしたのは、最大限こちらを傷つけないために必死に言葉を選んだ結果だったのかもしれない。

 だからって。


 ――恐らく、そちらの人間どもはお前を懐柔しようとするだろう。元の世界に帰りたいと喚くお前をなだめすかし、寝床を与え、食事を振る舞い、女をあてがう。それで貴様がほだされ、子どもでも作ってくれれば万々歳というわけだ――


「子ども? なんだそれ。どうしてそんな話になるんだよ」


 ――当然ではないか。お前は人間だろう。この世界の人間は、いったい何年生きる? 五十か、百か。だが、千年とはもつまい。お前が死ねば、儂とお前との“繋がり”はいったいどうなる――


「……まさか、」


 ――“繋がり”とは、すなわち頸木に他ならぬ。奴らがそれを易々と手放そうとするはずがないからな――


 嗜虐心をたっぷりと含めた声音で、影が言った。


 ――お前が死んでも、お前の子孫が残っていれば、それで“繋がり”は保たれる。『一族を費やして魔を封じる聖なる役割』か。ふふ、連中の好きそうな話だ――


 滔々と物語る影を、もう一度殴りつけてやろうかと、拳を握りしめる。

 だけど今、僕がその拳を思い切り叩きつけたかったのは、目の前の影よりもむしろ、別の相手だった。


 ――その通り。貴様は騙され、これからもさらに騙されようとしている。死ぬまで飼われることになるのだ。お前の有様には、この儂とてさすがに憐れみを覚える――


「うるさい!」


 振り払うようにして目の前の影を散らせて、その場に座り込んだ。

 両手で頭を抱え込む。

 ――冗談じゃない。

 さっきまで、自分は幸運なほうだとか思っていたのが馬鹿馬鹿しくなってくる。

 事態は最悪だった。

 元の世界に戻るどころの話じゃない。

 僕はこのまま、生涯飼い殺しにされる。

 おそらく、飢えることはないだろう。寒さに凍えることもないはずだ。

 この世界の人たちにとって、魔王との“繋がり”をもつ僕は勝手に死んでもらっては困るのだから。

 魔王を戻ってこさせないために。あるいは魔王の動向を知るために。

 彼らにとって、僕という存在は必要なのだ。

 そして、それは僕一人の話じゃない。

 影の言うことを信じるなら、もしも僕が誰かと子どもをつくれば、その子どもにも“繋がり”は引き継がれる。

 まるで呪いだ。

 ――子々孫々にまで至る、呪い。

 もちろん、これらの話はあくまで目の前の影が言っただけのことだ。

 だけど、それが嘘ではないということを僕は直観的に理解していた。

 目の前の影は、決して嘘を言ってはいない。

 僕にはそれがわかる。

 多分、それが相手とのあいだに“繋がり”をもつということなのだろう。

 だが、嘘を言っていないということは、本当のことを全て話しているということには繋がらない。

 この影は、なにかを隠している。

 まだこちらに伝えていないことがあるはずだ。

 そうじゃなければ、こんなふうにわざわざ僕に話しかけてくる理由がない。


 ――いかにもその通り――


 影が言った。

 こちらに覆いかぶさるようにしながら、


 ――哀れなお前に、この儂が提案してやろう。異世界の人間よ――


「……提案?」


 ――そうだ。さっき言ったとおり、儂はいずれそちらの世界に戻るつもりでいる。だが、人間どもは今回の魔術に相当念を入れたらしくてな。厄介なことに、帰路の手がかりを辿ることさえ難しそうなのだ――


 まあ、そうだろう。

 なにしろミティスさんの言葉が本当なら十年も用意してきたというのだから。「や、帰ったよ」なんて気軽に戻ってこられたらお話にならない。


 ――まあ、千年もすれば、さすがに戻れるとは思うのだがな。それではさすがに時間がかかりすぎる。儂が戻った時、儂を追いやった輩がすべて死んでいるというのも業腹だからな――


「できれば、復讐相手が生きてるうちに戻りたいってわけだ」


 あくまで魔王の立場からしてみれば、わからない話ではない。

 むしろそう考えるのは当然だとさえ思えた。


 ――そこでお前の出番だ――


「俺?」


 ――そうだ。お前が、儂を呼び戻すのだ――


 にやりと嗤う雰囲気をともなって、影は言った。


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