第1話 金髪の女神官と脳裏に囁く声①

 

 それからしばらくの記憶はあいまいだ。

 誰かに声をかけられた覚えはあるけど、あんまり覚えていない。

 気づいたときには僕はどこかの部屋のなかにいて、やたら固いソファに座らされていた。

 室内の調度品は、もちろん和風ではない。

 ただし、洋風というのとも少し違った。

 美術や歴史の造詣なんてなかったから、詳しくはわからないけれど。ただ、異文化、という言葉がぴったりな雰囲気の部屋だった。

 目の前には、柔らかい微笑を浮かべる若い女の人がいる。

 短めの金髪に白い服装に身を包んだ美女は、


「私はミティスと言います。【アルクスの教え】で【神官】をしています」


 綺麗に澄んだ声で、そう口をひらいた。

 口元の動きは明らかに日本語のそれではないのに、聞こえてくる言葉は日本語だ。

 ちょうど、吹き替え版の映画を見ている感じに近い。

 だから、まるで自分が映画のなかに入り込んでしまったような感覚に陥ってしまう。


「あなたのお名前も聞かせてもらえますか?」

「……人也。雲通人也、です」

「ウズイジンヤ。いい名前ですね」


 にこりと微笑む。

 こんな美人に笑いかけられて、いい気分がしない男なんていないだろうが、警戒しないわけにはいかなかった。

 なにしろここは異世界なのだ。

 目の前の相手はいかにも人間に見えるが、それが本当なのかなんてわからない。

 漫画に出てくる登場人物のように、「よかった、おなじ人間なんだ!」と割り切れればよかったが、どうやら自分の肝はそこまで太くないらしい。

 もっとも、それは向こうにとっても同じことだろう。

 転移の代償にやってきた異世界人。

 警戒して当然なのに、目の前の相手は少なくとも、そういった表情を見せてはいない。

 専門家、というわけではないだろうが。

 とにかく言葉が通じるだけでもありがたかった。

 これはもう、間違いなくそうだ。


「ジンヤ。あなたは今、突然のことでとても驚いていると思います。あなたの置かれた状況について、私から説明させてほしいと思うのですが、許してもらえますか?」


 ミティスさんの言葉に、僕は黙ってうなずいてみせる。

 ほっとしたように息を吐いて、ミティスさんは丁寧に説明してくれた。

 そこで聞いた話をまとめると、おおよそ次のようになる。



 ――この世界には人間と、それ以外のたくさんの種族が生きている。

 それ以外にも、この世界には僕がいた世界とは違う部分がたくさんあるらしい。

 たとえば、この世界には【魔法】があって、【竜】がいる。

 彼女から聞かされたそれらの言葉が、自分が想像するとおりの『魔法』や『竜』を意味しているのかはわからない。

 都合よく翻訳されているだけなのかもしれない。

 それでも、いわゆるファンタジー的な世界なんだろうとは想像できた。

 実際のところはわからないが、とりあえずそういうふうに考えておくことにする。

 ……魔法があるこの世界には、当然のように【魔王】が存在した。

 人間と敵対する、多くの魔物を従えた暴虐の王。

 人間やそれに近い種族は、長年、魔王との闘いを繰り広げてきたらしい。

 正確にはやられっぱなしだったというべきだろう。

 なにしろ、この大陸で人間が生息できるのはほんのわずかな場所に過ぎず、他はすべて魔物たちに滅ぼされてしまっているらしいのだから。

 このままでは、いずれ人類が滅びるのは確実。

 そこで人類は賭けにでた。

 残り僅かな人類国家。その一つを滅ぼそうとして自ら赴いてきた魔王に決戦を挑んだのだ。

 魔王本人をなんとか儀式の場に誘い込み、そこで【転移魔法】を発動させる。魔王を二度と戻ってくることのできない遠くどこかに転移させる、というのが彼らの狙いだった。

 まさに乾坤一擲、起死回生の大作戦。

 そして――人類は、その賭けに勝った。

 多くの犠牲をこうむりながら、彼らは魔王を【どこか遠くの世界】へと追いやることに成功したのだ。

 彼らにとって予想外だったのは、魔王を転移させた際、代わりにその場所に現れた何者か。

 言うまでもなく、この僕のことだった。



「――それじゃあ。俺がこの世界に来たのは、事故みたいなものなんですね」


 だいたいの話を聞き終えての開口一番。

 僕の言葉に、ミティスさんは困ったように眉をひそめた。


「【事故】ですか。……そうですね。その表現が近いかもしれません」


 深々とこちらに頭をさげて、


「ごめんなさい。あなたがこちらの世界にやってきたのは、私たちにとっても意図しないことでした。謝ってすむことではありませんが……」

「――戻れるんですか。元の場所に」


 相手の言葉をさえぎるように訊ねる。

 こっちの世界の事情とか、経緯なんてどうでもいい。

 大切なのはそれだけだ。

 自分が元の世界に戻れるのか、否か。


「それは、」


 ミティスさんは、なにかを迷うようにしてから、


「……それは、難しいと思います」

「どうしてですか」

「大転移の儀式魔法は、とても難しいのです。【時期】を選び、【用意】を整えて、大勢の【参加者】が必要になります。今回の儀式を成立させるために、私たちは十年の歳月をかけてきたのです」


 十年。

 そんなの、これまで生きてきた年月とほとんど変わらない。

 途方もない年数を聞かされて、一瞬、目の前が真っ白になりかける。それでも、僕は相手の言葉の細かな部分を聞き逃さなかった。


「不可能じゃ、ないんですね?」


 たとえ何年かかっても、帰ることはできる。

 儀式の詳細なんてまるでわからないし、準備も、それにかかる費用だって見当もつかない。

 だけど。

 それでも、可能性としてそれが出来るのなら。

 そう思えるだけでも、十分な希望だった。

 念を押すように訊ねる僕の表情は、よほど必死だったのだろう。

 こちらを見るミティスさんは辛そうに眉をひそめて、そっと目を伏せる。


「難しいとしか、私からは言えません。……ごめんなさい」

「――ッ」


 思わず大声をだしそうになるのを自制して、拳を握りしめる。

 いつのまにか浮きかけていた腰をおろし、深呼吸した。

 一度、二度と呼吸を整えてから、意識を切り替える。


「……わかりました。それで、俺はこれからどうなるんでしょう」


 向こうからすれば、僕がこの世界に現れたのは完全に予定外だったはずだ。

 身寄りのない子ども一人、とっとと放りだしてしまえばそれで事足りるだろうが、こっちとしては文字通りの死活問題だ。

 今後の身の振り方を考えるためにも、さっさと解放してもらいたい。

 できれば、しばらくの間だけでも寝泊まりする場所だけでも紹介してもらいたいところだったが、


「いいえ、その必要はありません」


 僕の言葉を聞いて、ミティスさんはゆっくりと頭を振った。


「はい。あなたの住む場所は、我々が用意します。どこにも行く必要はありません。食事も、今後のことも含めて、全てあなたのことは我々【アルクスの使徒】が責任をもってお世話します」


 アルクス?

 そういえば、名乗ってきたときにもそんな言葉を言っていた気がする。

 翻訳されないということは、おそらく固有名詞かなにかなんだろうが――不可解そうな表情を読み取ったのか、ミティスさんはにこりと微笑んで、


「【教え】、と言って伝わりますか? この地では、【アルクスの教え】が広く【信仰】されているのです」

「それって、宗教みたいなものですか?」

「【宗教】……。はい、そうですね。私はその【アルクスの教え】に仕える【神官】なんですよ」


 ということは、ミティスさんはシスターなのか。

 シスターと神官。

 その二つにどのくらいの違いがあるのかはさっぱりだったけれど、その申し出は素直にありがたくはあった。

 同時に、怪しくもある。


「そのアルクスの人が、どうしてそんなに良くしてくれるんですか?」


 ミティスさんは不思議そうにまばたきして、


「おかしいですか?」

「だって、そうでしょう。あなたたちは魔王を遠くにやるために転移魔法を使って、それを成功させた。僕がこの世界にやってきたのはただの事故で、それをお世話する義理なんてないじゃないですか」

「そんなことはありません」


 ミティスさんは苦笑するようにして笑った。


「【アルクスの教え】では、隣人には愛を以って施せとあります。それに、私たちのせいで迷惑をかけたのですから、お世話をするのはむしろ当然だと思います」

「……そう、なんですか?」

「はい、そうです」


 きっぱりと断言してから、それに、と彼女は続ける。


「今度の件は、あなたにとっては不本意極まりないことだったと思いますが……私は、なにか意味があるのではないか、と思っているのです」

「意味、ですか?」

「そうです。あなたがこの世界に現れたことも、あなたが選ばれたことも。私は今回のことを、アルクスの【導き】によるものだと感じています。私とあなたの出会いには、きっと【意味】があるのだと」


 真摯な表情で告げるその表情に、嘘はなかった。

 少なくとも、そういうふうに見える。

 善人を絵に描いたような相手の表情に、それまで身体のなかに蔓延していた不安がじんわりと溶けだしていく。

 ――この人は信用できる。

 そう思った。

 元の世界に戻るためにも誰かの協力は必要だし、なによりまずはこの世界で生きていかないといけないのだ。

 いきなり異世界に放り出されて、一人で生きていけるはずがない。

 どうせ誰かを頼らなくちゃいけないのだから、せめて善人を頼りたかった。

 もちろん、目の前のミティスさんがそうであるという確証はないけれど。

 だからといって、他に選択肢があるわけでもない。

 僕は相手の言葉を信じることにした。


「……わかりました。あなた方のところでお世話になります。よろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げると、ミティスさんは嬉しそうに両手をあわせて、


「ああ、よかったっ。こちらこそ、よろしくお願いしますね、ジンヤ」


 人の良さそうな笑みを浮かべて、そう言った。



 話し合いが終わり、それから僕はミティスさんに連れられて外へ出た。

 用意されていた馬車に乗り、揺られることしばらく。

 馬車なんて乗るのは生まれてはじめてで、あまりの乗り心地の悪さに気分が悪くなりかけたところで、ようやく馬車の脚は止まった。

 着いた先にあったのは石造りの立派な建物で、どうやらここでアルクスの教えの人たちが共同生活しているらしい。

 多分、向こうの世界でいう『教会』とか『修道院』のような、そういう場所なんだろう。

 建物に入り、何人かに紹介されて面通しを終えると、「疲れているだろうから今日は休んでください」と言われて、部屋に案内された。

 実際、とても疲れていた。

 さっき会話した人たちの名前もあんまり憶えていない。ただ、全員がとても親切だったことは覚えていた。

 ――案外、上手くいくかもしれないな。

 部屋の様子をたしかめる余裕もなく、倒れ込むようにベッドにダイブして、ドロドロに溶けかけた脳内でぼんやりと考える。

 突然のことで意味不明だけど、とりあえず安心して眠れる場所は見つかった。

 しかも、今日一日じゃなく、自分のことを世話してくれるらしい人たちと出会うこともできた。

 数ある『異世界転移』のなかでも、これは随分と幸運なほうなんじゃないだろうか。

 このまま、「アルクスの教え」の人たちの世話になりながら、この世界のことを知り、転移魔法のことや、そのために必要な儀式のことを教えてもらって。

 それでいつか、元の世界に戻ろう。

 家族やあいつがいる、世界に……

 夢半ばに、そんなことを考えていたその時だった。



 ――阿呆が。そんなに都合よく行くわけがあるまい――



 聞いたことのない。

 けれど、なぜか懐かしさを感じる声が、僕の頭のなかに響いてきたのは。


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