第2話

 ​あの日以来、私の完璧だった城の壁には、消えない亀裂が残ってしまった。


 ​葉隠晶という存在は、私の世界にとって予測不能なバグのようなものだった。彼女が視界に入るだけで、ふとした瞬間に世界の色彩が僅かに褪せ、BGMのように流れていたはずの穏やかな調べに、不協和音が混じる。私は綻びを必死に繕うように、以前にも増して物語の世界に没入し、彼女という現実から目を逸らし続けた。


 ​そんなある日、夏の特別イベントの企画会議が開かれた。子供たちに向けた「おはなし会」の担当に、私と葉隠さんが指名されたのだ。女王様である司書長が、何を考えているのかはわからない。ただ、私と彼女の間に流れる凍てついた空気を、楽しんでいるようにも見えた。


​「テーマは星でどうかしら。夏休みだし、夜空を見上げる機会も多いと思うの」


 私は、胸を高鳴らせながら企画を切り出した。私の頭の中では、すでに図書館のホールが満天の星空に変わっている。天井から銀紙の星を吊るし、床には天の川に見立てた青い布を敷く。照明を落とし、プラネタリウムのようにして、『星の王子さま』を読むのだ。


 子供たちが、本当に小さな星を旅しているような気持ちになれる、魔法の時間。私の説明は、きっとキラキラと輝く音色を伴って、皆の心に届くはずだった。


​「なるほど。テーマ自体は良いと思いますが、アプローチが少し気になります」


 ​静かだが、有無を言わせぬ響きを持つ声が、私の演奏を遮った。葉隠さんだった。彼女は手元の資料に視線を落としたまま、淡々と続ける。


​「『星の王子さま』は素晴らしい作品ですが、天文学的な事実誤認も含まれています。子供たちに夢を与えるのも図書館の役割ですが、同時に正確な知識を提供する場でもあります。私の提案は『宇宙と星のひみつ』です。最新の探査機が撮影した映像をスクリーンに映し、なぜ星は光るのか、星座はどのようにして生まれたのかを、クイズを交えながら解説します」


 ​彼女の言葉は、無機質な黒い活字の羅列となって、私の描いた星空を無慈悲に塗り潰していく。会議室の空気はみるみるうちに凍てつき、私の足元から、鋭い氷の結晶が床を覆い始めた。


 夢も、魔法も、物語もない。なんて無味乾燥なのだろう。


「それでは、ただの授業です。図書館でやる意味がありません」


 私の声は震えていた。それは怒りではなく、悲しみだった。私の大切な世界が、土足で踏み荒らされるような感覚。


「意味はあります。知的好奇心を満たす、という意味が」


 葉隠さんは、初めて私をまっすぐに見て言った。その焦げ茶色の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、硬質な、揺るぎない光だけが宿っていた。


 ​結局、司書長は「二人の案を上手く組み合わせなさい」という、いかにも女王様らしい命令を下して会議を終えた。私は凍てついた心のまま、葉隠さんから企画書と書かれた薄いファイルの束を押し付けられた。


 ​自席に戻り、しばらくそれを放置していたが、溜め息と共についに開いた。どうせ数字とデータばかりの、退屈な紙の束だろう。そう思いながら目を通し始めた私は、しかし、すぐにその考えが間違いだったことに気づかされた。


 たしかに、そこには専門的なデータが並んでいた。けれど、その横には子供向けの平易な言葉で書かれた解説案が、手書きでびっしりと書き込まれている。


「『オリオンのベルト』は、実は三つ子の星じゃないんだ。本当は、生まれた場所も年も全然違う星が、たまたま地球から見て一列に並んでるだけ。不思議だよね?」


 難しい科学の知識を、どうすれば子供たちが面白いと感じるか。そのための工夫と、子供たちのなぜに答えようとする真摯な熱意が、行間から溢れていた。


 彼女は、私の世界を壊したいわけじゃない。ただ、彼女自身のやり方で、私とは違う「物語」を伝えようとしているだけなのかもしれない。


 そう思った瞬間、私の足元を覆っていた氷が、少しだけ溶けた気がした。


 ​その翌日、私は大きなミスをした。イベントで使うプロジェクターの予約を、別の部署とダブルブッキングしてしまったのだ。それに気づいたのは、イベントのポスターを貼り出した後だった。


 血の気が引いた。女王様の甲高いアリアが、今度は灼熱の炎を伴って私に降り注ぐ。「どうしてくれるの!」と叫ぶその唇から、燃え盛る火の玉が飛んでくるのが見えた。


 体が竦み、自己嫌悪で全身が冷たいガラスの鎧に覆われていくようだった。動けない。声も出ない。


 ​その時だった。私の前に葉隠さんが立った。


「私の確認不足でもあります。司書長、代替案はすぐに用意しますので」


 彼女は冷静にそう言うと、女王様が次の呪文を唱える前に、受話器を取ってどこかへ電話をかけ始めた。大学の視聴覚室、公民館、近隣の学校。考えられる限りの場所に、落ち着き払った声で問い合わせていく。


 パニックになっている私を、彼女は一度も責めなかった。


 数十分後、彼女は電話を切ると、私に向かって短く言った。


「公民館の機材が借りられます。今から二人で取りに行きましょう」


 そして、続けた。


「ミスは誰にでもある。問題は、次どうするかです」


 ​その言葉には、何の装飾もなかった。ただの事実。けれど、私の世界を飾るどんな美しい慰めの言葉よりも、それはずっと、ずっと温かかった。


 私の体を覆っていたガラスの鎧に、ピシリ、と小さなひびが入るのがわかった。


 公民館へ向かう道すがら、私は俯いたまま、かろうじて声を絞り出した。


「……ありがとう、ございます」


 葉隠さんは、少しだけ驚いたように私を見ると、すぐに前を向いて、ぶっきらぼうに言った。


「別に。二人で担当なんですから」


 ​その横顔は、やはり何の装飾もない、ただの葉隠さんの顔だった。けれど、その時初めて、私は彼女の周りに漂う空気が、ほんの少しだけ柔らかくなったような気がした。城の壁の亀裂はまだそこにあったが、その隙間から、今まで知らなかった種類の光が差し込んできている。そんな予感がした。

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