雲を売る

スドウ ナア

雲を売る

 「雲を売る」長官は会議の最後で覚悟を決めたように述べた。

 巨大な楕円テーブルに座った8人の委員は押し黙ったままだった。委員たちの沈黙が長官にのしかかる。


 「責任はすべて私がとる。今日はここまでにする。散会してくれ」長官がそう言うと、委員たちは静かに会議室を出て行った。


 残された静寂の中で、長官はスーツの胸ポケットから折り畳まれた紙のメモを取り出した。昨晩考えた電話をかける順番が記されていた。

 まず内閣総理大臣にダイヤルした。数回の呼び出しの後、乾いた声が受話器に響いた。

 「ふむ。結構だ」

 それだけだった。電話は切られた。短く、一切の関与を拒む響き。要するに「すべてお前の責任だ」ということ。

 財務大臣、防衛大臣、外務大臣、そして日銀総裁、皆似たりよったりだった。肯定とも否定ともつかない、いかなる言質も取られまいとする相槌。一様に全責任を長官の肩に押し付けていた。


 「時代も変わった」長官はひとりごちた。雲が動かせるようになる前、環境庁長官がこれほど重要なポストになるとは誰も想像しなかった。


 そのとき、携帯電話が震えた。ニュース速報の文字が液晶に流れる。

 〈ドル円急伸、280円を突破〉

 〈10年物国債入札、不調〉


 結局のところ、誰かが金を集めなくてはいけなかった。今その役回りにあるのは環境庁長官、それだけのことだ。

 雲を市場に放出し、ドル円を動かし、国債利回りを抑え込む。有史以来、人はいつだって資金繰りの問題を抱えている。家庭でも、企業でも、国家でも。


 当然ながら、売った雲は買い戻さねばならなかった。雲一つ無い、抜けるような青空を気持ちよく感じるのは、せいぜい数時間、長くとも数日。青空が一週間続けば人は狂う。

 雲は雨を降らすための道具ではない。青空の狂気から人の魂を守るための傘なのだ。


 長官は手元の市場予測資料に目を落とす。

 <日雲・積乱雲先物・オプション8月限:SQ推定値  $10,098>

 <日雲・乱層雲先物・オプション8月限:SQ推定値 $8,173>

 <日雲・層雲先物・オプション8月限:SQ推定値 $921> …………


 売った雲は期日がくれば引き上げられる。からっぽになった空に、切れ目なく他所から調達した雲を流し込む必要がある。

 エルニーニョが観測されていた。ニシンの漁獲量が落ちる一方で、南米ではトウモロコシの発育が例年より良かった。中国が先月大規模な雲の売り出しを行なっていた。乱雑な情報が長官の頭の中で結びつき一本の線となる。

 「積乱雲は今が売りだな」長官は窓の外に浮かぶ雲を見ながらつぶやいた。すべての雲に値札がついてるようだった。


 人類の叡智が雲の輸送を可能にした時、世界に全く新しい可能性が開けた。雲が多い地域と、雲不足の地域で雲を融通できるようになり、世界中の人々の頭上に雲が浮かべられると。


 今では、自然発生した雲が上空に浮かんでいる場所など無かった。雲は発生するより先に売り払われていた。からっぽになった空に、地球の裏側から輸入した雲を浮かべた。


 誰も彼も雲のやり繰りに必死だった。雲は偏西風に逆らい、世界中を右に左に目まぐるしく移動させられていた。それでも、世界の大半の地域の空には、昔と変わらず雲がプカプカ浮いていた。青空で発狂する人もいなかった。

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