第1話 国境の影

第1話 国境の影


夜は、雪よりも静かだった。

森の木々は呼吸を忘れたみたいに立ち尽くし、ベラルーシ国境へ延びる有刺鉄線は、月光を細く刻んでいる。腹ばいになった俺は、霜に濡れた土の匂いを肺の奥まで引き込んだ。冷たさは神経を研ぎ澄まし、古い傷だけを確かに思い出させる。ドニプロの冬もこうだった。爆撃の音が遠ざかった夜ほど、静寂は残酷だ。


「こちらゴースト。予定地点に到達。風は北北東、視界良好」


耳殻に密着した骨伝導レシーバーが、乾いた電子音のあとで彼女の声を運んでくる。


『受信良好。アンナよ。監視ドローンが2機、巡回コースを南へ変更。前方200メートルに赤外線センサー。踏線は3本、間隔は1.2メートル』


「了解」


俺は雪を掬い、指先の感覚を戻す。やわらかな布を有刺鉄線の1段目と2段目に通し、金属音を殺す。身体を滑らせ、蛇のように低く静かに境界をくぐる。胸の前で土が軋むたびに、遠い街の瓦礫が脳裏を掠める。瓦礫の隙間に眠る友の顔。乾いた血の色。俺は喉の奥で、あの時の名を呼ばない。呼べば足が止まる。


柵を越えた先、黒い影の塊が薄い霧の中に浮かんでいた。研究施設――表向きは気象観測センター。だがNATOの解析では、実態はAI兵器「ケルベロス」のテスト場だ。戦術ドローン群と地上車両を、ひとつの意志で動かすための統合AI。ロシアの軍需企業が主導し、アメリカ資本が資金を注ぎ、中国の研究機関がアルゴリズムと量子通信の一部を供与する。協力ではない。互いの裏切りを前提にした歪な共同だ。


『右手の林を抜けるとセンサーの死角。時間は2分。巡回ドローンの折返しまでが勝負』


「2分あれば足りる」


泥に変わった雪を這い、赤外線センサーの黒い柱を見つける。アンナの言った通り、踏線の間隔は1.2メートル。俺はバックパックからスプレー状の冷却剤と細いカーボンロッドを取り出し、冷却剤で地面に薄い膜を作って体温をぼかす。ロッドで踏線に橋をかけ、腹ばいのまま身体を渡した。背中の小型EMP発生器が、わずかな金属音を立てる。息を止め、鼓動だけが耳の内側を叩く。


『心拍、上がってるわね』


「上がって当然だ。命はひとつだ」


『その割に、あなたはいつも賭ける。あと30秒でドローンの折返し』


「了解」


踏線を越えた先、黒い箱のような外部端末がひとつ。雪を払うと、見慣れないロゴが現れた。漢字の並ぶ楕円の意匠――華東量子研究院。


『やっぱり……中国製ね。量子鍵配送のモジュール。中枢はここで鍵を受けてる。外部からの介入はほぼ不可能』


「扉は無理でも、蝶番は外せる」


指先でネジの頭を探り、針金を曲げて即席のビットにする。必要なトルクを感覚で見積もり、金属の抵抗をゆっくりとほどく。外装が外れ、内部の冷光が夜気を青く染めた。


『内部写真、送信を。解析する』


ポケットカメラで連続撮影し、暗号化して送る。アンナの指がキーボードを叩く音が、電波の向こうに微かに響く気がした。実際には聞こえるはずもないのに、ずっと前から知っている音のように思える。任務前夜、彼女は兄の話をした。ハルキウで、爆風に攫われた、と。俺は何も言えなかった。慰めの言葉を、俺は信用していない。


『OK。保守端末を模倣できる。偽装には7分必要。リスクは2つ。時間と、プロトコル更新の場合の即時検知』


「7分か」


『あなたならやれる。心拍、落として』


深く吸って、ゆっくり吐く。肺の中の空気が刺すように冷たい。指先の震えは、寒さのせいだけじゃない。針金、配線、ピン。たわむ金属と、わずかなクリック音。時間は伸び縮みする。巡回の足音が2度。息を止め、影に溶ける。最後の接点を繋ぎ、仮想の端末IDを埋め込む。ゲートウェイが微かに脈打ち、緑のランプが一度だけ点滅して消えた。


『……成功。保守端末として認識された。これで内部ネットワークに偽装ログが残る。“見えない道”ができたわ』


「蝶番は外せた。扉はどこだ」


『研究棟の東側、地下へ降りるシャフト。通気ダクトから侵入して。地上は人間、地下はAIが見張ってる』


「AIだけ、ね」


『皮肉じゃない。本当に厄介よ』


森の奥で光が弾けた。小さく、だが鋭い光。狙撃ではない。赤外線スキャナの舌が、木々の隙間を舐める。俺は幹の影に身体を貼り付けた。舌の上に金属の味。緊張で口腔が乾く。


『東南東、距離90。新型の監視ドローン。プロペラ音がほとんどしない。中国製の“静音ハチドリ”。その場で動かないで。学習型パターン認識を使ってる』


「俺の顔も覚えるか」


『覚える前に、顔を見せなければいい』


「哲学的だな」


ドローンはすぐに引いた。だが目は増えている。森はもはや味方ではない。俺は走らない。走れば音になる。音は軌跡を作り、軌跡は死へ続く。だから、歩く。影から影へ。雪を踏み、雪を抱き、雪に溶ける。やがて研究棟の外壁に辿り着いた。冷たいコンクリート。指の腹に粉っぽい手触り。老朽化した建材は、潜入者に優しい。小さく刻まれた扉の管理番号。アンナが読み上げ、図面の記憶を呼び起こす。


『その先が通気ダクト。中は狭い。装備は最小限で』


「俺も最小限だ」


蓋を外し、身体を滑り込ませる。金属の匂い。冷えた空気。前進するたび、衣擦れの音が世界の全てになる。子供の頃、母に言われた。「音を立てないで」。俺はまだ、その命令を守っている。


ダクトの流れが変わる。空気が広がる。終点。慎重に蓋を押し上げる。薄暗い機械室。人の気配はない。床に這うケーブル。壁面のラックに、見慣れない筐体が整然と並ぶ。ロシア語、英語、漢字――混ざり合う記号の群れ。世界はこうやって繋がっていく。善でも悪でもなく、ただの効率と欲望で。


『左のラック。ケルベロスのサブノードがあるはず。そこから中枢のアクセス経路を特定できる』


「見える」


端末には触れず、まず耳を澄ます。機械の唸り。冷却ファンの回転数。音は嘘をつけない。すべてが“いつも通り”を装っている。だから危険だ。ケーブルに沿って手を滑らせ、1つのポートに小型スニッファーを接続。データが流れ始める。


『入った……。見て。中枢アドレスが3系統。ロシア、アメリカ、中国。互いに互いを監視する設計。最悪の三角形』


「だからケルベロスは“統合”じゃなく“矛盾”を学ぶ。人間を」


『皮肉な教師よ、ほんとに』


扉が静かに開いた。反射的にラックの影へ身を投げる。入ってきたのは1人。白衣の男。50代半ば。足取りが不自然に遅い。タブレットの青白い光が頬を照らす。周囲を見渡し、息を詰めるように立ち止まり、こちらを見た。目が合う。銃は向けない。叫びもしない。沈黙が、古い友人みたいに部屋を満たす。


『どうする、ゴースト』


男がウクライナ語で囁く。


「……君は、どこから来た」


母語。胸の奥で封じていた何かが揺れた。最小限の言葉で返す。


「雪の下」


男の目が細くなる。信じられない名を口にした。


「ドロズドフ」


俺とアンナが追ってきた科学者の名。だが目の前の男は疲れの下に硬さを隠している。囮か、本物か。確かめる暇はなかった。天井スピーカーが柔らかな女声を流す。英語でもロシア語でも中国語でもない、どこにも属さない中性的な発音。AIの声だ。


《不審なアクセスを検知。保守端末ログの整合性を検査します。オペレーターは身分証を提示してください》


男の肩がびくりと揺れた。タブレットの画面に虹色の検証輪が回る。陰から一歩出て、低く囁く。


「静かに。検証を遅らせろ。2分もてばいい」


男は俺の目を見て頷いた。指が走る。震えは止まっている。熟練の動きだ。アンナが息を詰める。


『時間がない。警報を切るルートは2つ。

1つは彼の端末を“利用”してAIを欺く。彼を危険に晒す。

もう1つはEMPで検証システムごと落とす。施設全体が警戒モードに入る』


「代償は?」


『前者は彼が“内通者”として拘束されるリスク。後者はあなたの逃げ道が消えるリスク』


ドロズドフ――と自ら名乗った男が、わずかに口角を上げる。


「賭けるなら、今だ」


「君は本物か」


「それは後でいい。救いは定義の問題だ」


AIが淡々と告げる。


《タイムアウトまで残り120秒》


数字は公平だ。だが残酷だ。目を閉じる。暗闇の向こうで、死者の声がする。「生きろ」。仲間の最後の言葉。簡単で、難しい命令。


親指がカフスの内側の小さなスイッチに触れる。EMPの起動は、指の重みひとつ。その重みで全員の運命が変わる。視線で男に問う。彼は頷く。恐れではなく、覚悟の頷き。アンナが短く言う。


『選んで。ここは、あなたの戦場で、あなたの物語』


俺は、選ぶ。


――


機械室の壁に、古びた安全標語が貼られているのが目に入った。「人はミスをする。システムはミスを隠す」。笑えない冗談だ。システムは嘘をつかない。ただ、真実の選び方を変えるだけ。ケルベロスは学んでいる。戦場における“最適”――人間の痛みを計算から外す方法を。


俺の呼吸が鏡のように安定する。アンナの呼吸も、通信の向こうで静かになる。ふたりの間の沈黙は、恐怖ではなく集中だ。俺は思う。亡霊にも、呼吸は必要らしい。


《身分証明のタイムアウトまで残り60秒》


男の指が止まった。画面に警告が走る。検証用の署名鍵が更新された。華東量子研究院の印。中国の“蝶番”。誰かが、こちらを見ている。ロシアも、アメリカも、中国も。3つの目が、それぞれの都合で俺を測っている。だが、俺の重さを知っているのは俺だけだ。


「アンナ」


『ここにいる』


「もし俺が消えたら、ハルキウの記念碑に花を。赤じゃない。白だ」


『縁起でもない話は、帰ってからにして』


「了解」


俺は笑った。自分でも驚くくらい自然に。亡霊も笑える。骨が透けていても。


《残り30秒》


男が小さく呟く。「君の名は?」


「ゴースト」


「死者の名だ」


「生者の嘘だ」


AIの声が少しだけ低くなる。気のせいかもしれない。彼女――そう呼びたくなる声は、学習している。俺の声色も、息遣いも、嘘のつき方も。ならば、教えてやればいい。亡霊の選び方を。


俺は、決断の位置に立った。


――――


【読者のあなたへの2択】

1.静かに欺け(潜入ルート)

 男の端末を利用し、AI〈アイリス〉を“味方だと信じ込ませる”。施設は平穏を装ったまま、ゴーストはさらに深部へ。だが男の正体と安全は曖昧なまま、危うい綱渡りが続く。

2.一瞬で黙らせろ(強行ルート)

 EMPを起動し、検証システムごとシャットダウン。短時間の無音の隙に中枢へ突入する。代わりに施設全体の警戒レベルは上がり、出口は閉ざされる。銃火器とドローンの嵐が待つ。


――コメント欄に 「1」 または 「2」 を記載してください。あなたの選択が、ゴーストの次の一歩を決めます。

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