幽霊犬小屋

仁木一青

「ワンワン! ワンワンワン!」

 小学生のころの話だ。


 その日は二つ上の姉と一緒に、少し遠くの公園まで行った。ブランコで遊んでいると、見知らぬ男の子が近づいて来た。


 白いシャツに半ズボン、見るからに育ちのよさがにじむ子だ。


 さっと姉の背後に隠れた私に、にこっと顔をほころばせて「一緒に遊ぼう」と誘ってくれた。

 その邪気のない笑顔に無意識のうちに「うん!」と応えていたのを覚えている。


 それから鬼ごっこをして遊んだ。ひどく楽しかった記憶しかないので、年少の私のためにうまく手を抜いてくれたのだと思う。

 ひとしきり遊ぶと喉がかわいた。公園の水飲み場はちょうど壊れている。


「じゃあ、うちに来る?」

 男の子は少し得意そうに笑った。

「幽霊も出るからついでに見てってよ」


「幽霊! それ本当!?」

「ほんと、ほんと」


 胸がドキドキして、怖いより先におもしろそうだと思ってしまった。

 姉と顔を見合わせ、私たちはうなずいた。


 子供の足で十五分ほど。高い塀と大きな門の向こうに、立派な洋館が見えてきた。まるでお姫さまが住んでいそうなのに、ひっそりと静まり返った雰囲気なのが不思議だった。


「幽霊屋敷!」

 思わず叫んだ私の背を姉がこづいた。少年は「ふふっ」とおかしそうに笑う。


 重たい門を押し開けると、広々とした庭が広がっていた。

 テラスには、母親らしい女性が立っているのが見えた。ドレスのような服に身を包み、リボンをつけた小型犬を抱いてやさしそうに微笑んでいる。


 姉がぺこりとお辞儀をしたので、私もあわてて同じようにした。

 犬は、突然の来客に怯えたのか小さく震えていた。不思議なことに一声もあげない。


「幽霊はこっち」


 男の子は私たちを屋敷の中でなく、庭の奥へと案内した。彼の後ろについて走っていくと、片隅に犬小屋があった。三角の屋根がついたよく見るタイプ。大きさこそ大型犬が入れるようなものだったけど、お金持ちでも犬小屋の形は変わらないんだなと思った。


 そのとき。


「ワンワン! ワンワン!」

 小屋の奥から、低くこもったような吠え声が聞こえた。


 私は思わず笑った。犬はテラスで母親に抱かれているのに、なぜ小屋から声がするのか。


「幽霊屋敷じゃなくて、幽霊犬小屋ってこと?」


 男の子を振り返ると、彼は上品そうにニコニコしている。


 私はできのいい手品を見たような気分になって、犬小屋の後ろをのぞきこんだり、身体を半分突っ込むようにして小屋の中を見たりした。もちろん、どこにも犬はいない。


 私がうろうろする間も、

「ワンワン! ワンワンワン!」

 けたたましいばかりに鳴き声が続く。姿が見えないのに声だけ聞こえるのがおもしろくて、私はずっと笑い転げていた。


 けれど姉は顔色を変え、私の手を強く引いた。

「帰るよ」

「え、でも――」

「今日家で用事があったでしょ! 帰るの!」


 そんなの聞いてない。


「母さんが中へどうぞって」

 男の子の言葉を聞いた瞬間、姉は振り返りもせず、私の手を痛いくらい引っ張って門を飛び出した。


 屋敷が見えないところまで駆け抜けて、やっと手を離してくれた。


 もっと小屋を見ていたかったのに。私の文句は彼女の耳に入らないようだ。

 しばらく黙っていた姉が、ようやく口を開いた。


「あんたは気づかなかった? あの吠え声……犬じゃなかった」

「じゃあなんだったの」


 ふくれる私に、姉は青ざめた顔を向けた。


「……大人の男の声だった」

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