第6話 天才漢方医、危うし

  一

 午後、ロイは福山医大病院へ戻り、病棟で入院患者の診療に追われた。

 処方や検査のオーダーを電子カルテに入力し終え、医局へ戻ると、時計の針は十七時過ぎを指していた。

「ただいまでぇーす」

 鼻に掛かった甘え声と共に、ドアが開く。紫乃だ。青い上下のスクラブに、白衣を羽織はおっている。睫毛が下がるほど重く塗ったマスカラも緑のカラコンも、すっかり今朝と同様だ。

 寸時、どう声を掛けたら良いものか、ロイは迷う。

「大、丈、夫? なん、か?」

「うちは、平気じゃ」

 紫乃が、プイッと顎を上げた。

忌引きびき休暇、取るやろ? 色々と手続きがあるやろし」

らん世話じゃ。うちははよぅ漢方を上手うもぅなりたいけぇ」

「しかも、昨日は救急当番やったから、ほとんど寝てないやろ」

「若いけぇ、でもぁわい。当直くらい、毎日でもしちゃる。あんたこそ、尾共おのきょうの外来にはぅたんか」

「当たり前や。俺のドライビング・テクは、シューマッハみやで」

「いちいちボケられると大儀たいぎぃわ。病棟の患者さんたちは、美人研修医がらんで具合がわるぅならんかったか」

「いちいちボケてるんは、お前や。最終兵器が随分と働いてくれて、患者は落ち着いてたわ」

 ドアが開き、紫乃の後ろから行木が入ってきた。

「誰が最終兵器やねんん」

 医局の壁が震えるほど、重厚な濁声だみごえだ。今朝早く出勤し、多忙な午後の外来を終えてもなお、声に覇気がある。かなり体調が回復したようだ。

「ホンマ、今朝は助かりましたわ」

肩揉かたもみ券を十回分、ツケとくでぇ」

「部下に肩を揉ませるなんざ、今どきタチの悪いパワハラでっせ」

 ロイの返しを、グワハハ、と行木が豪快に笑い飛ばす。

 しばらく時間を置き、行木がさりげなく紫乃へ振り向いた。

「今日は、大変やったなぁ。ご両親と、ちゃんとぅてれたんかぁ?」

 豪快な濁声が一転して、しんみりと優しく響く。

 濃い睫毛を伏せ、紫乃が軽く頷いた。

「少しのじゃけど、顔をしてもらえました。その後は医大へ運ばれて、司法解剖をされちょると思います」

「岡本教授の人柄は、よぅ知っとるでぇ。丁寧に、確実に、手掛かりを探してくれる、法医学の第一人者やぁ。手ぇ合わせながら、大切にご遺体をあつこぅてはるやろぉ」

 ロイは、内心、慌てふためいた。

 ――アカン! 岡崎やぅて岡本かいな!

 あとの祭りだ。福山医大には、医大病院と、隣接する医学部を合わせて、百人弱の教授がる。全員の名前は、とても覚えられない。

「実家の様子は、どうやったぁ?」

「随分と荒らされちょりました」

「尾道漢方薬局が実家なんやてなぁ。独自の調合が、よぅ効くっちゅう噂を聞いとったでぇ」

 ギャルふう厚化粧の表情が、柔らかくほぐれる。

「教授にめてもらえるなんて、両親も天国で喜んじょります」

「実家では、なんか盗られとったんかぁ?」

「お金や帳簿が金庫ごとと、店のパソコンや百味箪笥の生薬まで、根刮ねこそぎじゃった」

「生薬やてぇ? 珍しいもんまで盗って行くんやなぁ。漢方マニアかいなぁ」

 ――ちゃうやろ。

 ロイは、心の中でツッコむ。根刮ねこそぎでは無かった。漢方マニアなら、絶対に麝香丸じゃこうがん熊胆丸ゆうたんがんを置き去りにはしない。

「警察は、犯人の目星めぼしを付けとるんかいなぁ?」

「全然、見当が付かんみたぁじゃ。心当たりがぁか、うちにも訊かれたんじゃが」

「空き巣との関連は、どうなんやぁ?」

 紫乃が、黙って首を振った。

「三阪くんの部屋からは、何か盗まれたんかぁ?」

「ノートパソコンだけ、盗られちょりました。他に目ぼしいもんが無かったんじゃろ」

 あちゃぁ、とロイは声を上げた。

「パソコンは、イタいな。それやったら、ご両親の事件とは関係がさそぅやん」

 ロイの言葉に、行木が深く頷く。

金目かねめのパソコンだけ盗った感じやしなぁ。いずれにせよ、どっちの事件も、はよぅ犯人を捕まえて欲しいわぁ。できることがあったら、なんでも言うてぃや。少々ガタがてるけど、まだまだ使えるジジイやでぇ」

「なんたって、最終兵器やし!」

 ロイの茶々に合わせて行木がガッツポーズをキメると、紫乃が可笑おかしそうにケタケタと笑った。行木のノリの良さは、まるで年齢を感じさせない。政治的手腕も、まだまだ健在だろう。

 十五年前まで、行木は循環器内科の万年講師だった。いつの間にか相手のふところもぐり込む人懐ひとなつこさを武器に「福山医大に漢方講座設置を」と院内各署で喧伝けんでんし、結果、開設された漢方診療科の初代教授の座におさまった。いつどこで行木が漢方を学んだのか、誰も知らない。日本漢方医学会の内部でも着々と人脈を広げ、今や会長にまでのぼり詰めた。

「誰か、頼れる親戚はるんかぁ?」

 かぶさるような行木の声に、紫乃がかぶりを振った。

「うちは、両親がとしを取って産んだ子ですけぇ。両親の兄弟はみんな病弱で、はよぅに死んでしもぅた」

 行木が、心配そうに眉を寄せる。

「今日はこれから、どないするんやぁ?」

「俺は十八時から救急当番ですねん」

 ロイは今夜、全科の医師でローテーションを組む、夜間救急の当番だ。二年目の研修医も、同じように当番を廻してベテラン医師の下に付き、救急医療の経験を積む。昨夜の当番の研修医は、紫乃だった。

「お前に訊いてへんでぇ。三阪くんやぁ」

 空き巣が入った紫乃の部屋は、新しい鍵へ交換してもらってある。ロイが昼過ぎに帰院したとき、病院の庶務課に確認済みだ。

「研修医宿舎は、病院よりも無用心やでぇ?」

 行木の言う通りだ。病院敷地内へは、あちこちから自由に出入りできる。鍵を替えたとて、どうせ以前同様の安物だ。

 重低音の濁声が、医局のコンクリート壁をブルブルと震わせた。

「さっき、病院長と交渉して来たんやぁ。当面、三阪くんは、VIP病棟の当直室を自由に使わせてもらえるでぇ」

「最っ高のプランですやん! 石頭のボケ病院長を、よぅ説き伏せましたな!」

 ロイは感嘆の声を上げた。十年前に医大病院を建て替えた際、十一階フロアはホテルみの豪華な病室から成るVIP専用病棟となった。VIPのプライバシーを確実に守るため、講師以上の職員証IDを持つ医師のみが十一階へ入って診療を行うよう、セキュリティが施されている。

 同フロアには、講師以上専用の当直室も用意されている。他の当直室とは違い、ユニット・バス付きで、広めだ。

「たまには使つこてあげんと、もったいいですわ」

 差額ベッド代が高過ぎるためか、近辺に富裕層や有名人が居ないためか、近年、VIP病棟はほとんど使われていない。自然と、同フロアの当直室も使われなくなった。四階の医局からも、一階の外来・救急部門からも、十一階は遠過ぎるのだ。しかも、講師以上に割り当てられる当直は、回数自体が少ない。

「三阪くんの職員証IDで十一階に入れるよう、手続きをしといたでぇ。眺めもええやろし、ちょっとでもくつろぎぃな」

 尾道とは違い、福山市街から海は見えない。福山は、ほぼ山に囲まれた平地にある。『崖の上のポニョ』の舞台となったともうらは、南の海岸にそびえる山の向こうだ。

「ありがとうございます!」

 ロイと紫乃は、同時に行木へ頭を下げた。すっかり、脳出血前の行木に戻ったようだ。面倒見が良く、あちこちへ気が回り、とにかく仕事が早い。

「紫乃ちゃん、明るいうちに着替えを取ってとけや。俺が、宿舎までついて行ったるわ」

「若い男女が並んで歩くんは、くらぁほうが雰囲気が出るのに、のぅ」

「ええ加減にさらせ!」

 紫乃を小突こづきつつ、ロイは医局を出た。


  二

 スーツケースに荷物をまとめた紫乃をVIP病棟へ送り届けると、十八時を回った。あと三十分ほどで、日没だ。

 ロイのPHSが鳴った。液晶ディスプレイに浮かんだのは、見慣れない番号だ。

「今日の救急当番の、桧垣ひがきです。今月から消化器外科で研修中です。よろしくお願いします」

 PHSが、緊張気味な若い男の声を発した。今夜の相棒となる、二年目の研修医だ。

「漢方診療科のだちや。よろしゅう。救急コールが来たら、教えてや」

 簡単な挨拶のみで、PHSを切った。当直の夜は、長い。明朝まで救急車を受け入れるたび、研修医と喋る機会はどうせ何度でも訪れる。

 ――どこ出身の研修医やろか。標準語を喋りおったな。

 ロイは、自分の大阪弁を治せないくせに、他人のアクセントには人一倍敏感だ。

 また、PHSが鳴った。事務当直からだ。

「三阪先生の親戚を名乗る人から電話が入っていますが、どうしましょうか?」

 親戚はない、と紫乃は明言していた。

「用件は、なんやねん」

「届けたい物があるので、所在を教えて欲しいと」

「妙やな」

「医師・三阪紫乃」と宛名を書き、福山医大病院の住所へ送れば、簡単に届くはずだ。尾道漢方薬局の娘が福山医大の研修医と知った、マスコミか。病院の各部署へは、紫乃に関する一切の取材を受けぬよう、昼間のうちに広報部から通達が出された。

「妙と言えば、日本人じゃ無いようななまりがあるんです」

「その時点でアウトやろ。教えられんちゅうて、ことわってや」

「承知しました」

 ロイは、紫乃をPHSで呼び出し、怪しげな電話があったと伝えた。

「お前、外国人の親戚はったか? あるいは、ド田舎のなまりを持ってる親戚とか」

「親戚はらんし、両親はどちらも広島出身じゃけぇ、うちにゃぁなまっちょる知り合いはらん」

「アホ、広島弁自体がなまりや。……多分、マスコミからの電話やろぅけど、一応、身の回りに気ぃ付けや」

「尾道漢方薬局の娘が超美人じゃと、日本じゅうが騒いどるんじゃろぅか?」

「どうやらお前、妄想癖があるな。……せや、気晴らしに、医局の冷蔵庫にある酒でもツマミでも、なんでも持って行きぃや」

 診療を終え、なお明日の講義や学会発表の準備が残っているとき、ロイは医局で飲み食いしながら残業している。そのまま医局のソファで寝てしまい、朝になって後悔した経験も、たびたびある。

「冷たげな男にいきなりやさしゅうされると、乙女は――」

 ブチッ、と速攻でロイはPHSを切った。


  三

 ピルルッ。

 PHSが鳴り、ロイは飛び起きた。当直室で学生講義用のスライドを作成しているうち、ウトウトしていたようだ。

 研修医の桧垣ひがきからだ。時計を見ると、二十時過ぎだ。

「モーニング・コールにははや過ぎるで?」

「府中市の救急隊から、受け入れ要請です。中華料理屋で会食中の七名が、激しい腹痛を訴えているそうです」

「な、七名やて!」

 ボケる余裕など、吹っ飛ぶ。全身がヒリヒリするほど、熱い夜になりそうだ。

 ――だいたい、何をぅたら一度に七人も腹痛はらいたになるねん。

「うちの病院は、四人でおなかおっぱいや。あとの三人は、他の病院を当たってもらお」

 府中市に二つある総合病院が、どちらも受け入れをことわったのだろうか。「大学病院」としての気概と善意を示すにしても、ロイと桧垣の二人で対応できるのは、四人が限度だ。福山市内には、他に十軒以上も総合病院がある。

「万一に備えて、救急の先生にも連絡しといてや」

 救急当番の医師だけでは手に負えない病状の場合は、救急・集中治療科の医師が駆け付けてくれる手筈てはずだ。

「食中毒っぽいとは言え、急性腹症やからな。なかには緊急手術を要する奴が、まぎれてる可能性もあるで」

「わ、分かりました」

 桧垣の取り澄ました標準語が、緊張を帯びる。

 PHSを切って三十分ほど後、複数の救急車のサイレンが聞こえてきた。サイレンの音は入り乱れ、やがて波が打ち寄せるように大きくなる。ロイは四階の当直室を出て、一階の救急外来へ向かう。

 突然、一斉にサイレンが止まった。喧騒からつかの静寂へ、夜の幕が変わる。

「お出ましやな」

 救急車四台が、ほぼ同時に病院敷地内へ入り、音を消したのだろう。

 一階の救急外来を通り過ぎざま、処置室の看護師ナースへ指示を投げる。

「四人分の点滴を用意しといて。細胞内さいぼうないえきの、三方さんぽう活栓かっせん付きで頼むわ」

 出入口のガラス扉が、救急車四台分の赤色灯を反射し、暗闇に煌々こうこうと点滅している。

 扉の前に立つ、真新しい白衣姿の若者が、ぺこりと頭を下げた。

「お疲れ様です」

 ――疫病神は、コイツかいな。

 ひょろ長く頼り無い体型で、お坊ちゃんふうの顔付きの割に、どことなくさちが薄い。

「桧垣くんやな? ツイてさそぅやから、一度、おはらいに行ったほうがええで」

 素直で人のさそうな笑みが、顔じゅうに広がった。

 ガラス扉を出ると、四台の救急車の前に、十人ほどの救急隊員たちが勢揃せいぞろいしていた。

「どなたか、情報をくれまっか?」

 互いに顔を見合わせたまま、隊員たちが固まっている。

 ――この状況は、見飽きてるねん。

 府中市の消防隊員は、金髪で大男のロイを見るのが初めてなのだろう。

 ロイは、熱くなった左頬のケロイドをカリカリと掻きながら、救急隊員たちをめつけた。

「俺、日本語を喋ってるよな?」

 慌ててリーダーらしき隊員が前へ出て、バインダーを見ながら情報を伝える。

「府中市内の中華料理店銀耀華で十九時から食事中の団体客が、腹を押さえて突然苦しみ出したそうです。店の主人が救急要請し、現着二〇時〇四分、生命徴候バイタル・サインは正常で、下痢・嘔吐や発熱はありません」

「七人とも一斉に、かいな」

「他の客が怖がって店を出てしまうくらい、かなりの痛がりようだったそうです」

「何を食べたんや。皿までぅたんか?」

「出された料理は、麻婆豆腐、チャーハン、カシューナッツ炒め、酢豚です。なまものどころか、海産物は一切、含まれていなかったようです。アルコール類は、飲んでいません」

「酒も飲まんと、中華で会食かいな。どんだけ清楚なお嬢様たちやねん。未成年かいな」

 海産物を食べていないなら、アニサキスではさそうだ。食中毒にしては、発症が早過ぎる。嘔吐も無い。甲殻類やナッツのアレルギーか。いずれにせよ、七人全員が同時に発症する原因としては、考えづらい。

「処置室まで、運んでもらえまっか」

 救急車から、順次、患者たちがストレッチャーで降ろされる。ロイは目をいた。

「なんの試合帰りやねん!」

 側臥位で腹を押さえている四人は、全員ごつい体格の大男たちだ。ビッグ・ローズあたりで、プロレスの興行でもあったのか。年齢は二十代後半から三十代半ばで、全員、量販品の黒っぽいトレーナーの上下を着ている。

「皆さん、何の仕事をしてはるんや?」

「建設作業員だそうです」

「家を建てるの、めっちゃ早そぅやん!」

 救急隊員たちに白い目で見られても、ロイは気にしない。どうせ外見からして、変わり者だ。

 ウォェーッ! 

 先頭のストレッチャーに乗る患者が、盛大な嘔吐のうめきを上げた。慌てて救急外来の看護師ナースが駆け寄り、ガーグルベースンを口に当てる。ロイも近寄った。

 プラスチック製のガーグルベースンの底に、泡沫ほうまつ状の唾液が溜まっている。ロイはマスク越しに鼻を近づけ、患者の口をクンクンと嗅いだ。

「お口のエチケットはバツグンやん」

 吐瀉物としゃぶつ特有の酸っぱい匂いは、無い。

「また吐かんうちに、よ処置室へ行こ。亜塩素あえんそさんいといてや」

 看護師ナースが頷く。かなり遅れて、桧垣がはたと手を打った。

「ノロウイルスとか感染性の胃腸炎を疑って、ですね?」

「っぽくは無いけどな。一応や」

 念には念を入れ、取り越し苦労を重ね、石橋を叩いて叩いて叩きまくるのが、医療だ。

 処置室のベッドへ、患者全員を移し終えた。

 去り際、救急隊のリーダーが看護師ナースに、

「帰るついでに、わしらが亜塩素あえんそさんいといちゃる」

 と耳打ちするのが聞こえた。ロイは、耳ざとい。

「そういうの、めっっっちゃ助かるで! おおきに!」

 大声のお礼に、とびっきりの笑顔まで付け足す。なにせ、一度に四人も患者が来て、看護師ナース天手古舞てんてこまいなのだ。

「おおき……ありがとうございます!」

 ロイにつられ、桧垣も採血をしながら声を張り上げた。いい奴だが、どことなくトロい。

 嬉しいようなきまり悪いような笑顔を残し、救急隊員たちが去った。

 奇妙な沈黙が、処置室を包む。患者は、四人全員が中国籍だった。日本語が不得手らしく、ロイが質問しても最低限の答えしか返さない。

「どこが痛いねん」「……《無言で腹をでる》」

「どんなふうに痛いねん」「……《顔をしかめながら首をひねる》」

「よぅ分からんのかい!」「……《曖昧に頷く》」

 意思の疎通など、ろくにできない。必要最低限の診療情報すら、聴取不能だ。

 患者全員の胸腹部の聴診・触診と血液検査を行ったが、取り立てて異常は無い。痛がって腹を押さえている割に、発熱は無く、血圧・脈拍・心電図も正常だ。時折、吐きそうな素振そぶりを見せるものの、吐きはしない。少なくとも、命に関わる病状では無さそうだ。

 ロイは、順々に四人の脈を診た。いつの間にか桧垣がにじり寄り、興味深げに眺めている。

「脈は、いかがですか?」

 手首に触れただけで体調を当てるロイの脈診は、院内では有名だ。脈診を見たさに、ロイと同じ日に救急当番を希望する研修医も多い。

「分からへん」

 ロイは、あっさりと首を横に振った。

「初回で得られる情報は、限られてるねん。例えば、患者がしんどそぅな脈をしてても、以前から同じ状態なんか、たまたま現時点で疲れてるだけか、分からんやろ? 患者それぞれの体質や傾向は、脈を繰り返しながら、経過と共に把握して行くもんや」

「数時間前からの食中毒の患者を、初対面でても、しょうが無いわけですか」

「現時点の脈からすると、胃腸の力は十分にある。最近まで、胃腸の調子は良かったはずや。つまり今回の症状は、突発的に起きたんや。腹痛のせいか緊張のせいか、四人とも、強烈な弦脈げんみゃくでもある」

「どういう意味ですか」

「弓やバイオリンの『げん』のごとく、手首のとうこつ動脈の血管壁が強張こわばって、硬く触れる。現時点で交感神経がたかぶってる徴候や。原因は、今現在の腹痛のせいか緊張のせいか、あるいは元々交感神経がたかぶり続けている性格なんか、分からんけどな」

「面白いですね。緊張とか元の性格とかを、脈からはかるなんて。あとで、僕の脈も診てもらってもいいですか」

んでも分かる。お前は、弦脈では無いな」

「緊張感が無くて、トロいからですか」

「自覚してるんかいな」

 さぁ、とロイはひと息ついた。膠着状態は、嫌いだ。

「全員、CTを撮ってしまおぅや」

 過剰診療だの、医療費の使い過ぎだのと責められても、重大な疾患をとして訴えられるよりはマシだ。CTで、腹の中を輪切りにして観察するのが、手っ取り早い。

「座位は保持できそぅやし、ササーッと車椅子で行こか」

 ロイ・桧垣・救急外来の看護師ナース二人で、四つの車椅子を押す。節電のため照明が落とされた、夜の病院の廊下を進む。

「桧垣くんは、どこ出身なん? 標準語を喋ってるやん」

「神戸です」

「それって関西やのに、東京者とうきょうもんのフリをしてへんか」

「全然、そんなつもりは無いです。神戸の人は、丁寧語だと自然に標準語になるんです」

「絶対、嘘やん! 神戸者こうべもんって、『兵庫県出身です』って自己紹介をせぇへん時点で、心掛けを間違まちごぅてるねん」

 CT室の前に着いた。

 突然、患者の一人が獲物を狙うふくろうのごとく目を光らせ、早口で何事なにごとか呟いた。もう一人が、否定するように素早く左右に頭を振り、その他の二人も呼応して頷く。四人とも切迫した表情だ。

「なんか、騒いでるで。急に家でも建てとぅなったんか」

 英語とフランス語と、日常会話程度ならスペイン語まで喋れるロイだが、アジア系の言語は苦手だ。日本語に至っては、未だに標準語すらマスターできない。

「何をされるか、不安なんですよ」

 桧垣は四人の前に立ち、大仰おおぎょうに一語一語を区切りつつ、「大丈夫」「痛くない」「検査」と三回ほど繰り返した。

 無駄だと思いつつ、ロイは桧垣を適当に泳がせる。

 やはり、骨折りぞん――四人とも、曖昧な笑顔を浮かべたままだ。

 当直の放射線技師の指示で、四人が順番にCT室へ入る。隣のCT操作室のモニターで、ロイと桧垣は腹部の撮像さつぞうを確認する。胃には食物残渣しょくもつざんさがなく、腸内ガスも目立たず、大腸にはさほど便が溜まっていない。つまり、腹痛の原因になりそうな所見は無い。

「桧垣くん、どない診る?」

「意外に綺麗な、おなかですね」

「せやなぁ、しろぅてモチ肌のベッピンさんで……って、ちゃうがな!」

「今のが大阪人の伝家の宝刀、ノリツッコミですか?」

「お前、大阪をバカにしてるやろ。綺麗なはらって、どういう意味やねん」

「ガタイがいい割に、腹回りだけじゃなくて内臓にも全く脂肪が付いてないですよね。だぶっとしたトレーナーの中は、たぶん筋肉ムキムキですよ」

「どこ見てんねん!」

 研修期間中に相当に鍛え上げないと、ダメなタイプだ。

「こっちも出ましたね」

 桧垣が、画像モニターのかたわらの電子カルテを操作した。血液検査の結果が、出揃っている。白血球数や肝・胆・膵酵素の上昇は無く、炎症反応も無い。

「少なくとも、腸閉塞イレウスとか緊急を要する病気では、さそぅやな」

 糞便検査をしていないので、食中毒の原因は特定不能だ。食中毒以外の疾患の可能性が無ければ、あとは経過観察をするだけだ。

「ブスコパンを打って、ひと晩は入院や。原因不明のまま帰すわけにも、いかへん」

 ブスコパンは、過剰な腸蠕動ちょうぜんどうを抑え、急性の腹痛に頻用される薬剤だ。

 廊下へ出ると、桧垣は、患者四人へ向かって「痛み止め」「注射」「入院」と一語一語、繰り返した。

 ――また、骨折り損やろ。

 ロイの心配をよそに、患者たちは互いに顔を見合わせ、納得したように頷く。安心したようだ。

「八階の内科病棟が、ひと部屋、空いてたな。四人とも、そこへ入院させよか」

 方針が、決定した。

 救急外来の看護師ナースが、PHSで八階病棟へ連絡し始めた。


  四

 ピルルッと電子音が、狭い当直室の壁に木霊こだまする。ロイは、目を覚ました。暗闇で、PHSの液晶ディスプレイがオレンジ色に光り、時刻〇:五八と桧垣の番号を表示している。

 ブスコパンを注射後、中国人患者たちの腹痛は治まった。四人とも、病室でぐっすり寝ていると、一時間前に報告を受けたばかりだ。

新手あらての救急車が来るんか? 桧垣くんの日頃の行いは、凶悪犯レベルやで」

「あの四人の患者が、消えました」

 桧垣の声が、かぼそく震えている。

「なんやて? 迷子にでもなったんかいな」

 聞き返しつつ、さもありなんとほぞを噛む。近年、外国人観光客が急増し、頻発している事例だ。外国籍の患者が救急外来を受診し、病気が治ったら、治療費を踏み倒して逃げる。防ぎようが無く、病院は泣き寝入りをするばかりだ。医者は患者をざるを得ないし、治療費を払うまで患者を監禁するわけにもいかない。

看護師ナースたちが八階以外も探したけど、見付からないようです。どうしましょうか?」

「至急、警備室へ行こか」

 一階の救急外来出入口の脇に、警備員が詰める窓口がある。

 出入口のガラス扉の前で、ひょろ長い白衣姿が、寒そうに身をかがめてロイを待っていた。

「桧垣くんには、おはらいどころかたきぎょうレベルのみそぎが要るで」

 不安げな表情のまま、桧垣が少し笑った。ヘタレだが優しい、いい医者になりそうだ。

十中じゅっちゅう八九はっく治療費ちりょうひたおしの夜逃げやな」

 窓口の宿直警備員へ、ロイは声を掛けた。

「二十時頃に救急搬送された四人を、覚えてるやろ。ここから出て行かんかったか?」

「見てません。二十時以降に出入りしたのは、職員だけです」

 警備員が、即座に否定した。若めで、しっかりしていそうだ。

「あいつら、脱走したみたいや。監視カメラをチェックさせてや」

 ロイと桧垣が警備室へ入ると、奥からもう一人、年配の警備員が出てきた。

「どの場所から調べましょうか」

「まずは、病院裏口や。直近一時間の映像だけで、ええ」

 画質のあらいモノクロの映像がモニター画面に映る。映像が早送りされるが、〇時からの一時間は、人の出入りが無い。

「全然アカンな。他に病院から外へ出れるところは、あるんか?」

 警備員が二人とも、首を横に振る。

 突然、猛烈に嫌な予感が、ロイの内臓をぐるりと掻き回す。治療費を踏み倒して病院を脱走してくれたほうが、話は単純だった。屈強な男四人が病院内にとどまり、何を始めるのか。

「各病棟の看護リーダーと、当直の医師・薬剤師・放射線技師全員に連絡して、二人一組で巡回してもらおぅや」

 桧垣が頷き、PHSを取り出しつつ、遠慮がちに呟く。

「階段やエレベーターにも、監視カメラがあったような……」

「そらぁ名案や!」

 各階に、階段は東西と中央の三か所、エレベーターは中央に六台、設置されている。

「堂々とエレベーターを使つこたとは思えん。階段のカメラからチェックしよ」

「階段で監視カメラが設置されているのは、一階の踊り場だけです」

 若いほうの警備員が、モニターを操作し始めた。

 東西どちらの階段にも、〇時からの一時間は、全く人影が無い。

「なんでりひんねん!」

 苛立いらだちが、声に出た。悪い予感しかしない。脱走したい患者なら、階段をりるはずだ。意識のクリアな患者が病棟から姿を消し、階段をのぼる理由の大半は、自殺目的だ。屋上を、目指す。

「屋上へは、出られへんよな?」

「厳重に施錠してあります。毎日、巡回時に確認しています」

 年配の警備員が答えた。四人一緒に自殺行動を選ぶとも、考えづらい。

「こらぁアカン。探しに行こ」

「私も行きます」

 若いほうの警備員が、席を立つ。

「手分けしよか。警備員さんと桧垣くんは地下一階から、俺は十二階から、はさちで探して行こ。絶対に、無理をするなよ。もし四人が怪しげな行動をしてたら、すぐに一一〇番通報せぇよ」

「先生も、お気を付けて」

 警備員が、ロイへ懐中電灯を差し出した。


  五

 ロイは一人、エレベーターに乗った。

 ――二人なら、まぁ大丈夫やろ。

 ひょろ長い桧垣は、いかにも頼り無いが、若めの警備員は言動も体付きもしっかりしていた。

 ロイの身長は一九三㎝、体重は九十㎏を超える。高校時代はアメリカン・フットボール部のQB《クォーター・バック》を一年生からつとめ、クリスマス・ボウルを三連覇した。容姿が目立つせいで、他の高校とのいざこざに巻き込まれた経験も、少なくない。

 最上階――十二階に着いた。照明がまばゆすぎるエレベーターを降りた廊下では、一転して暗闇に包まれる。十二階には、レストラン・職員食堂・図書室がある。窓が多く開放的な構造の階だが、ガラス越しに臨む夜半やはん過ぎの福山市街は、ただ暗い。

 さっそく懐中電灯をける。各施設の出入口は施錠され、人の気配は無い。誰かが侵入した形跡も、見当たらない。

 ロイはエレベーター脇の防火扉を開け、屋上のヘリポートへ通じる中央階段をのぼる。屋上の出入口のドアノブに手を掛け、回してみる。動かない。施錠されている。

 階段を逆戻りし、十一階のVIP病棟へりる。紫乃が寝泊まりする階だ。紫乃がVIP病棟を使用していると知るのは、ロイと行木と病院長と、ほんの一部の事務職員だけだ。

 VIP病棟の出入口のカードリーダーに職員証IDをかざすと、二秒ほど間を置いて自動ドアが左右に開いた。

「誰も入れるわけが無いねん」

 ロイは独りごちた。どの階段から入るにもエレベーターから入るにも、出入口にはセキュリティが掛かっている。講師以上しか、入れない。まんいち侵入できても、盗るべき高価な物など置かれていない。あったとしても、ソファやテーブルなど大きな物ばかりだ。

 ――一応、見廻っとこか。

 懐中電灯で周囲を照らしつつ、病棟へ入る。足元に、数メートルおきに小さな非常灯が設置されている以外、廊下はほぼ闇だ。一番手前に当直室、次いで、今は無人のナース・ステーションがあり、その先に病室や面会室が並ぶ。病室は、奥へ行くに従って広く、豪華な造りになる。

 ――紫乃ちゃんは、もう寝てるやろな。

 時刻は、一時半だ。病室と異なり、当直室には内鍵うちかぎが付いている。

 ――ちゃんと鍵を閉めたやろな? あのマスカラお化け、「うちは几帳面なA型じゃ!」っちゅうんが口癖くちぐせやけど……。

 ふと、不安に駆られた。

 ――ひょっとして、空き巣に入られたんは、鍵を掛け忘れてたせいか?

 疑い出すと、きりが無い。米国アメリカ育ちのロイから見ると、大概の日本人は、自己防衛に無頓着だ。特に、女性は。

 ――鍵だけでも、確認しとこか。

 変に疑われたくは無いが、疲れて寝入っているであろう紫乃のPHSを鳴らすのも、気が引ける。紫乃にとって、昨日は人生で一番悲しい日だったはずだ。

 当直室のドアの前に立ち、小さく、コンコン、とノックしてみる。応答は無い。銀色のドアノブに手を掛け、ゆっくりと回す。回り切った。手に、徐々に力を込め、ドアを押してみる。ドアが開く。鍵は、掛かっていない。

 突然、内側から勢い良くドアが開いた。ロイは、前につんのめる。室内は真っ暗で、何も見えない。

 ガチン!

 眉間で、大きな金属音がした。衝撃が脳天へ突き抜ける。鼻の奥を、鉄の臭いが刺す。ふっ、と足から力が抜けた。

 ドン!

 後頭部で鈍い音がした。がくっ、と頭が垂れる。プツン、と視界が切れる直前、複数の男の足が見えた。


  六

 ピルルッ、ピルルッ。

 電子音が、ロイの神経をがりがりと逆撫さかなでする。院内PHSだ。

 ――あれ? いつの間に寝てたんや。

 時間の感覚がつかめない。思考が定まらず、ぼんやりしている。

 ――また救急車か? 桧垣め。ええ奴やけど、雨男や。一緒に当直をしてたら、こっちまでずぶ濡れや。

 フライパンで殴られるように、頭がガンガンと痛む。片頬が、硬い壁に押されている。胸や腰にも、平らな壁が当たっている。

 ――壁やい。ゆかやんけ。俺は、ゆかに寝てるんや。二日酔いか?

 大きな薄い布が、全身にまとわり付いている。白衣か。

 ピルルッ、ピルルッ。電子音が、鳴り続けている。

 重いまぶたをこじ開けた。周囲は暗い。ポケットのPHSをまさぐり、耳に当てた。

 泣き出しそうな声が、鼓膜をつんざく。

「今、どこにるんですか!」

 桧垣だ。

「なんやねん、あさはよぅから」

 激しい頭痛に負けまいと無理に押し出した声は、ひどくしゃがれていた。

「ずっと鳴らしてるのに、出てくれないので」

「ここ、どこや?」

「僕が訊いてるんです!」

「分からんから訊いてんねん!」

「こんなときに、ふざけないで下さい。救急外来の出入口から、四人が走って逃げたそうです」

 ――四人? せや、俺は、あいつらを探してて……

 ドクン、ドクン。

 心臓が鼓動を打つたび、刃物で突かれるように眉間が痛む。暗闇のゆかを手で探ると、硬い物に触れた。懐中電灯だ。懐中電灯をともし、ロイは気力を振り絞って立ち上がった。

 見廻してみる。紫乃にてがった、当直室の中だ。戸口へ移動し、室内灯をける。部屋には、誰もいない。奥のゆかでは紫乃のスーツケースが開きっぱなしになり、衣類や洗面用具が散乱している。ベッドのシーツには、しわひとつ無い。まだ誰も使っていないようだ。

「紫乃ちゃんは、どこや!」

 はぁ? と呆れた桧垣の声を尻目に、PHSを切る。消すのももどかしく懐中電灯を放り投げ、紫乃の番号へ架ける。

 ――頼む、出てくれ。無事でってくれ。

 二コール目で、紫乃がPHSを取った。

「三阪でぇ~す!」

「無事かいな!」

「そぎゃぁにうちの声が聞きたいんか。こんな夜更よふけに、のぅ……」

 ヒヒヒ、と品の無い笑いがPHSから漏れる。

 崩れるように足から力が抜け、ロイは床にへたり込んだ。

「どこにるねん!」

「全然、眠れんけぇ、医局で酒をもろぅとった」

「何をしてんねん!」

 思わず怒鳴った声とは裏腹に、ホッと安堵あんどして目に涙がにじんだ。

「なんじゃと! そうせぇってすすめたんは、あんたじゃわ!」

 キンキンと甲高く響く声も、今は耳に心地良い。

「お前って奴は……最良ベストの選択をしてくれたわ!」

「あんたぁ、酔っ払っちょるんか? 支離滅裂じゃ」

 ロイは、VIP病棟の当直室が荒らされたこと、犯人は救急車で来院した中国人四人組であろうことを伝えた。

「単なる病院泥棒やい。手が込み過ぎてる。紫乃ちゃんの持ち物の何かをねろぅたとしか、思えん」

「そぅ……じゃのぅ」

 つぶやいたきり、紫乃が押し黙った。

「とにかく、警察へ連絡するわ。紫乃ちゃんもこっちへ来て、何を盗られたんか確認しぃや」

 桧垣へも連絡し、手短てみじか顛末てんまつを伝えた。

「奴ら、十一階の当直室にひそんどって、俺を殴って逃げた。これから警察を呼ぶから、警備室や事務当直にも経緯を伝えといて。今晩は救急外来を閉鎖するから、桧垣くんはおやく御免ごめんや。明日に備えて、ちっとはとき」

「先生、どこか怪我をされたんですか?」

「大丈夫や。俺は頑丈がんじょうにできてるねん。今頃、あいつらの手のほうが腫れてるやろ。……せや、重大な任務を、桧垣くんに伝え忘れてた!」

 桧垣の標準語が、少し緊張を帯びる。

「なんですか?」

「必ず今週中に、おはらいに行きぃや」

「分かりました。あと、日頃の行いにも気を付けます」

 フフフと含み笑いを残し、桧垣がPHSを切った。

 さて、とロイは廊下へ出てPHSから一一〇番へ架ける。

「一一〇番、広島県警察です。事件かのぅ? 事故かのぅ?」

 歯切れの良い、男性の声だ。

「事件……やな。患者が医者を殴って、治療費を踏み倒して逃げよった」

 ――ある意味、もらい事故やで。

 患者四人の救急搬送を引き受けたのは、ロイ自身だ。

 VIP病棟出入口の自動ドアが開き、薄暗い廊下へ紫乃が入って来た。近付いてロイを見上げ、はっと立ちすくむ。

 シッ、とロイは人差し指を唇に当てた。

「通報は、福山医大病院の電話番号からじゃね? 病院内の、どちらね?」

「十一階の当直室や」

「事件が起きたんは、いつね?」

うしのぅてたから正確には分からへんけど、十分ほど前かな」

 答えている間に、福山駅方面からパトカーのサイレンが聞こえてきた。

「逃げた患者の特徴は、どぎゃぁなね?」

「四人組の男や。年齢は二十代後半~三十半ばくらいで、身長は一八〇㎝前後あってプロレスラーみたいに立派なガタイや。黒っぽいトレーナーの上下を着とる。日本語は、ほとんど喋られへん」

「四人とも、外国の人ね?」

「恐らく、な。顔は全員、ザ・アジア系や」

「逃げた方向は、分かっちょるかね?」

「病院の出口は福山駅のほうへ向いてるけど、そっから先は分からへん」

 廊下が突然明るくなった。病棟出入口が開き、背広の上下を着たノーネクタイの二名が現れる。腕には「機捜」の腕章が巻かれている。

 刑事たちの後ろから、若い警備員が顔を出す。

「VIP病棟のセキュリティを一時解除して、昼照明にしました」

 おぅ、ご苦労さん、と声を掛け、ロイは電話口へ告げる。

「刑事さんたちが、来ましたわ」

「じゃったら、現場の刑事の指示に従ってつかぁさい」

 電話が切れた。

「機動捜査隊です」

 二人の刑事が、警察手帳を見せる。二十代後半の刑事は鈴木すずき圭介けいすけ、巡査長。三十代半ばの刑事は松本まつもと雅樹まさき、巡査部長。

 鈴木が、痛々しそうにロイの額を見上げた。

「今、別のもんが周辺を捜索しちょる。殴られたんは、あんたね?」

「せや。よぅ分かったな」

「顔に書いてあるけぇ。なんか盗られたんね?」

 ロイは、隣の紫乃を顎で指した。

「当直室の荷物は、三阪先生のや。何を盗られたかは、俺には分からへん」

 年配の警備員に案内され、自動ドアから作業服姿の鑑識員たちが入って来た。カメラであちこちを撮影し、黄色のテープで規制線を張り、立入禁止区域が設けられる。

「三阪先生は、鑑識のもんと一緒に部屋へ入って、荷物を確認してつかぁさい」

 鈴木に促されつつ紫乃がロイを見上げ、初めて口を開いた。

「先生が殴られてしもぅて、まんかったのぅ」

「なんでお前が謝るねん」

「医局で飲めとすすめてもらえんかったら、危ない目にぅたのは、うちじゃった」

「あいつらの救急搬送を受け入れたんは、俺の判断や。研修医の責任やい。それにな、大阪人は、頭をはたいてもろたほうがオイシイねん」

 マスカラを塗りたくった睫毛を申し訳無さそうに伏せつつ、紫乃が当直室へ消えた。

 ロイと刑事二名はVIP病棟の面会室へ移動し、事情聴取を再開した。他の病棟の面会室とは異なり、靴のソールが埋もれるほどふかふかの絨毯じゅうたんの上に、ソファなどの応接セット一式が並ぶ。

「順を追って、経緯を説明してつかぁさい」

 事情聴取を主導するのは、鈴木だ。ロイは、紫乃の安全を守るためVIP病棟の当直室を使用させたこと、食中毒の疑いの救急患者四名が入院後に姿を消したこと、手分けして探している最中に当直室へ引っ張り込まれて殴られたことを、手短てみじかに説明した。

「さっき聞こえたんじゃが、医局で飲めぇ言うて、三阪先生を呼び付けたんね?」

「強制やいで? 『眠れんなら、俺の秘蔵の酒を飲みぃな』って、限り無い俺の優しさの一端を見せただけや」

「その秘蔵とやらを、あんたも飲んじょったんね?」

「当直中に、酒は飲まへん。辛酸しんさんめたけどな」

上手うまいことを言うちょってじゃ!」

 鈴木が、カラカラと乾いた笑い声を上げた。横で、松本が眉をひそめ、首をかしげる。

「で、三阪先生に酒を飲ませちょる間に、羽立先生は三阪先生の当直室へ入ったわけじゃな?」

「たまたま、そうなったけど、俺は患者を探してただけや」

「なして三阪先生の当直室に入ろぅとおもぅたんね?」

ちゃうわ! 入ろぅとはおもてへん!」

 鈴木がいぶかしげに目を細める。

「でも、入ったんじゃろ」

「えろぅ美人さんの部屋じゃし、のぅ」

 松本が、聞こえるか聞こえないかくらいの小声で、相槌を打つ。

「二十四時間前に両親を殺されて、自分は空き巣にぅて、パソコンを盗られてるねん。何か事情がありそぅな割に頭のネジがブッ飛んでる研修医やから、ちゃんと鍵を掛けてるか確認したろと思て、ドアを押してみてん」

 ほぅほぅ、と鈴木が先を促す。

「ほんなら、いてしもぅてん」

 鈴木の目が、キラリと光った。

「故意じゃ、ぁと。でも、当直室をのぞけたわけじゃのぅ?」

「美人さんのじゃ。ええ匂いもしちょろぅで」

 松本がたたける。

「あんたが入った時点で、当直室は荒れちょったんね?」

「廊下も当直室もくろぅて、なぁんも見えへんかった。……て、ちょっと待て! 俺の入った後に当直室が荒れたんなら、犯人は俺で決定やんか! もしかして、俺を下着泥棒か何かやとうたごぅてるんか?」

 やはり、という顔で鈴木が頷く。

「あんたぁ、下着を盗ったんじゃね?」

ちゃうわ! 単なるたとえ話や。……刑事さん、落ち着いて話そぅや」

「落ち着くべきは、あんたのほうじゃが」

「俺は、いつもこんな感じや! ガチャガチャしてるねん! 言うとくけど、ドアが開いた瞬間に、俺は引っ張り込まれたんや」

「不思議な話じゃのぅ」

 鈴木が、ひげも生やしていない顎を撫でる。

「さっき警備員に聞いたんじゃが、この病棟にはいれるんは、講師以上だけじゃそぅな。患者が犯人なら、どぎゃぁしてはいれたんなら?」

 ロイは言葉に詰まった。それこそ、ロイの知りたいことだ。

 鑑識員が入り、鈴木に何か耳打ちした。

「三阪先生は、金品も下着も何も盗られちょらんそぅな」

 不思議そうに鈴木が首をひねる。

 松本が、妙なことを言い始めた。

「さっき羽立先生は、当直中に何かをめたと話しちょったで? 盗っとらんでも、下着からDNAが出る可能性はあるじゃろ」

「まだ、その線で行くんかい。俺が舐めたんは、辛酸しんさんや。現実には、なんにも舐めたり嗅いだりしてへんねん。嘘やと思うなら、あのマスカラお化けの下着から俺の指紋でもDNAでも検出してみぃ」

「三阪先生の持ち物から、指紋は出なそぅなんじゃ。ところで、四人の患者の身元を確認するもんは、あるんかのぅ?」

 取り敢えず鈴木は、〝ロイ=《イコール》下着泥棒〟の線から離れたらしい。

いな。救急外来の看護師ナースが確認したら、財布に入ってたのは現金だけで、免許証や保険証やカード類は、一切見当たらんかったそぅや。中国籍の建設作業員っちゅう触れ込みやけど、名前も含めて、全部が嘘かも知れん」

「彼らとトラブルみたぁなのはかったんか? 治療方針や費用をめぐって」

「トラブルに至るほど、日本語の会話ができてへん」

「あんたぁ、彼らと面識はあったんか」

「あるわけ無いやろ。今日が初対面や」

「当直室の物品ぶっぴんを色々と確認せにゃならんので、あんたの指紋も取らしてもろぅて、ええじゃろか」

「指紋でもしょうもんでも足痕そくこんでも、好きなだけ取らんかい」

 吐き捨てて、ロイはそっぽを向いた。

 ――下着泥棒の次は、患者とのいざこざを疑われとるんか。

 こんなにあらゆる方向から疑われたのは、初めてだ。自分の人相が、悪いせいか。

「もし俺に恨みを持つ奴がっても、福山医大病院を指定して救急搬送されるんは不可能やで?」

「なしてじゃ」

 松本のキーボードを打つスピードが、速くなる。

「通常なら、府中市から福山医大へ救急搬送されるケースは、まず無いねん。府中市内にも、立派な総合病院が二つあるからな。たとえ福山市へ搬送されても、福山市内には総合病院が十軒以上もある。俺は救急患者の受け入れを断って、朝まで安眠をむさぼる選択もできたんや」

「睡眠は大事じゃけぇのぅ」

「お医者さんも我々も、体が資本じゃけん。刑事は、どんだけ残業してもほとんど手当が付かん、ブラック職種じゃわい」

 鈴木と松本が頷き合い、ガックリと肩を落とした。

「そーゆー哀愁は要らんねん。ワケの分からん相槌を打たんといてくれ」

 ロイの冷めたツッコミに、はっと我に返って二人が顔を上げた。

「つまり、府中市から福山市へ救急車が来るのは稀じゃし、福山医大で受け入れたんも、たまたま羽立先生の善意からっちゅうわけじゃな?」

「まぁ、そんなとこや。……あっ!」

 ロイは思わず声を上げた。

「どぎゃぁしたんね?」

「七引く四を、忘れとった」

「あんたぁ……」

 鈴木の目が赤く充血し、涙がぶわっと盛り上がる。

「あるで。よぅあるで。わしらにも、そぎゃぁなことはしょっちゅうじゃ。疲れちょるんよ。ゆっくり休みゃぁ、頭は元通りに戻るけん」

「体も心も、悲鳴を上げちょるんじゃのぅ」

 急に優しくなった鈴木と松本を無視して、ロイは言葉をいだ。

「もし、最初に食中毒を起こした七人が病院を無差別にねろたんなら、残りの三人はどこへ行ったんや?」

 今夜、他の病院でも同様の事件が起きているのか。

 ロイは、面会室の卓上電話機を引っつかんだ。消防局へ電話し、三人の搬送先の病院名を訊く。

「救急搬送は、されちょらんですよ」

 卓上電話機のスピーカーホンが、のんびりと意外な答えを出した。

「三人とも、搬送先を探しちょる間に腹痛はらいたぅなったけぇ、救急車に乗らんで帰ったそぅなよ」

 鈴木と松本が、首をかしげる。

「どういうわけじゃろぅ」

「病気が治ったんは、かったがのぅ」

 ひらめきと共に、ロイの背に冷たい戦慄が走った。

「奴ら、福山医大へ狙いを定めてたんや! 食中毒を偽装して、思惑おもわく通りに救急搬送されやがった!」

「あんたぁ、さっき、救急搬送先の予測は不可能と結論付けつろんづけたじゃろ?」

福山市界隈かいわいの災害医療システムを熟知してたら、それを逆手さかてに取れるねん。福山医大病院は、国が指定した災害拠点病院や。病院数が少ない周辺の市で多数の傷病者が出た際は、可能な限り福山医大が治療をうっちゅう暗黙の了解がある」

「食中毒は災害に入るんかのぅ?」

「大災害とまでは行かんでも、一度に複数の傷病者が出たら、ついつい俺らは大学病院としての使命感に駆られてしまうねん。よっぽど枯れ腐った当直医で無ければ、な」

「そぅ言やぁ、七人って、微妙な数字じゃ。二人、あるいは四人を府中市内で受け入れても、三人以上は福山へ流れて来るけぇの」

 鈴木が頷く。

「少なくとも一人は、福山医大へ搬送されそぅじゃのぅ」

 松本も、今度はまともな相槌を打った。

 ロイの左頬のケロイドが、あぶられたように熱くヒリヒリと痛む。

「福山市内へ、確実に七人とも送り込む手があるで。食中毒で救急車を呼ぶ少し前に、府中市内の二つの病院の救急外来を天手古舞てんてこまいにさせるねん。腹が痛いとか息苦しいとか騒ぎ立てる患者を一人ずつ送り込めば、こと足りる。それぞれの病院のマンパワーは、限られてるからな。『救急患者への対応中』っちゅう理由で、新たな患者の受け入れを断るやろ」

「府中市の病院に問い合わせてみるけんが……相当に手の込んだ計画じゃのぅ。福山市へ七人とも搬送されれば、半数ほどが福山医大へ分配される可能性が高いっちゅうわけじゃ」

「プロ中のプロの仕業しわざかも知れんで。福山市周辺の医療体制を熟知して、集団食中毒を偽装して、首尾良く福山医大へ襲来してるんや。VIP病棟のセキュリティまで突破してんねん」

「そぎゃぁにしてまで福山医大へ来る動機は、何じゃ? られたもんぁし。VIP病棟っちゅうても、最近は誰も入院しとらんのじゃろ?」

「せや。目的が分からへん。医療体制を熟知してる奴なら、福山医大のVIP病棟がカラやと、当然知ってるやろし」

「他の機捜からの報告じゃと、怪しい奴は見付からんかったようじゃ。この件は、鑑識と一緒に持ち帰って、所轄に引き継ぐしかさそぅじゃのぅ」

「よろしゅう頼むで。福山も尾道も、普段は大阪よりもおっとりしてる、俺の大好きな街や。それがこの二十四時間で、殺人や空き巣や暴力や物騒な事件を立て続けに起こしとるねん。しかも全部、三阪紫乃ちゃんの周辺や。なんとか、したってや」

「分かっちょる。お互い、体が資本のブラック職種同士じゃが、頑張らにゃのぅ」

「その連帯感に同意した覚えは無いねん」

 よしよし、というふうに鈴木と松本が優しくロイの背を撫でつつ、事情聴取が終わった。

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