微熱

コード

微熱

最後の客が帰り、床に落ちた髪をほうきで集める音だけが、夜の店内に残った。

新人の有希奈はシャンプー台の蛇口をひねり、手のひらの温度を確かめる。指先が少し震えているのは、水のせいではない。


「シャンプー練習、付き合うよ。」


鏡越しに圭吾が言った。八年の手つきは、ハサミを置く音にも、背に回る気配にも一切無駄がない。

ケープを肩にかけられ、彼はシャンプー椅子に身を預ける。薄い水音。首筋にタオルが沿い、シャンプーボウルの白が夜気を吸い込む。


「圧は…これくらい?」

「うん、今のままで。耳の後ろ、泡を逃がさないで。」


指の腹が、シャンプーの軽さと髪の重みを同時に覚えていく。泡が、彼の呼吸に合わせてわずかに揺れる。

有希奈は、自分の息まで相手の喉仏に合わせてしまうことに気づき、頬の内側を噛んだ。


「そこ、気持ちいいって言われるよ。」

「圭吾さんが、ですか?」

「お客さんが、ね。」


からかう声。けれど目は閉じたまま、信頼の重さだけが首のカーブに残る。

指先でこめかみの円を描くと、彼の肩がほどける気配が伝わってきた。

結構、首凝っているな。


流し終えると、タオルで包む。水滴が落ちないよう、ギュッ!と絞る。その一瞬だけ、ふたりの呼吸が同じ長さになる。

ドライヤーのスイッチを入れると、温風が布越しに腕を撫でた。

ブローの角度を探る彼女の背に、圭吾の手がそっと添えられる。


「根元から起こして。髪の間に空気を入れて、逃がさないで。」


「空気を、入れて…」有希奈は繰り返す。

彼の言葉が、髪の間に小さな部屋を作るみたいに残った。


音が止むと、店はやけに静かだった。鏡には、整えられた髪と、少しだけ火照った頬のふたり。

有希奈はケープを外し、クリップで自分の前髪を留め直す。視線が触れる。先輩と後輩、でもそれだけでは名前のつかない距離。


「有希奈、手、冷たい。」

「緊張してましたから。」

握られた手のひらに、ドライヤーの残り火みたいな温度が移る。脈拍が、掌の薄い皮膚を叩くたびに、呼び名が変わりそうで怖い。


「恋人じゃないのに、こんなに嬉しいの、ずるいですね。」

言葉にしてしまってから、空気の形が変わるのがわかった。

圭吾は少し笑って、鏡の向こうの彼女を見た。


「大人って、線を引けるってことだよ。」

「線、ですか。」

「越えるためじゃなくて、綺麗に見せるために引く線。」


「今日のブローみたいに?」

「そう。空気を入れて、逃がさない線。」


彼の指が、彼女の耳の下の毛先を一束だけすくい上げる。たったそれだけで、肌の奥にまで音が響く。

有希奈は首を少し傾け、彼の手からその束を受け取る。

ふたりの指が重なったところで、約束のように息が止まった。


「境界は、、ここまで。」

先に言ったのは彼女だった。

圭吾は、その言葉の端を確かめるみたいに、彼女の指先に口の形だけを落とす。触れない、けれど触れたも同じくらいの温度。


「明日、朝イチのカラー練習は、俺が付き合うから。」

「じゃあ、今日の続きは…」

「仕事で、ね。」


笑って手を離す。ふたりの間の空気は、さっきのブローで作った隙間みたいに、ほどよく温かい。

照明を落とすと、鏡の中の店は暗くなり、ガラスに夜が寄ってくる。

鍵をかける前、圭吾が振り返る。距離はあるのに、香りだけが近い——シャンプーと、ドライヤーに温められたタオルと、彼女の体温。


「おやすみ、有希奈。」

「おやすみなさい、圭吾さん。」


扉が閉まっても、手のひらにはまだ、彼の髪の重さが残っていた。

それは恋人未満の合図で、今夜はそれで十分だと思えた。


翌朝の開店前。

ガラス越しの光が、まだ冷たい店内を薄く満たしていた。


「フェイスラインの保護クリーム、俺で練習してみる?」

圭吾が椅子に座り、顎を上げる。

有希奈はうなずき、コットンを薬指に巻きつけたまま、彼のこめかみから耳の前へ小さくなぞった。

薄い膜を作るたび、指腹と肌の間に、石鹸より柔らかい抵抗が生まれる。


「圧は?」

「ちょうどいい。…そのまま、耳の付け根、逃がさない。」


言葉に合わせて、彼女の呼吸が浅くなる。

耳たぶの丸みをよけるとき、指先が一瞬だけ素肌に触れ、圭吾の喉が静かに上下した。

距離は仕事の距離、でも体温はそれより近い。


「エプロン、背中で結んであげる。」

圭吾が立ち上がり、彼女の後ろへ回る。

紐が腰骨に沿ってすべり、結び目を作るとき、掌が布越しに止まった。

「高すぎない?」

「…大丈夫です。」

声が背中に吸い込まれ、肩甲骨のあたりで跳ね返る。


最初の客が来るまでの数分、ふたりは鏡の前に並ぶ。

ブローブラシを持つ手を圭吾が包み、根元から起こす角度を示す。

彼の指が彼女の手首に沿って滑り、脈の鼓動を一度だけ確かめるみたいに留まった。

「今の角度、覚えて。」

「…はい。」

手首を離すとき、指先がわざと遅れる。境界の上を爪先立ちで歩くみたいな遅さで。


客足が途切れた午後、蒸しタオルを取り替える。

圭吾が「首、借りるよ」と言って彼女をスツールに座らせ、ネックのマッサージのやり方を教える。

温いタオルをうなじに当て、親指で僧帽筋の縁をゆっくり辿る。

布と肌の隙間へ、湯気の重さが落ちていく。

「痛くない?」

「気持ちいいです。」

言葉より先に、背筋が素直にほどけてしまう。


「反対、今度は俺に。」

有希奈は蒸しタオルを取り、圭吾の後頭部を受ける。

襟足にタオルの端を差し込み、親指で首のくぼみを円に撫でる。

髪の根元がしっとりと指に絡み、肌の熱がぐっと近づく。

彼の息が浅く長くなり、胸郭の上下が自分の掌に触れて伝わる。

「そこ、もう少し。」

促される場所に重ねた指の温度が、境界線の内側を静かに塗り替えていく。


夕刻。最後の予約が終わり、店内に乾いたドライヤーの匂いだけが残る。

片付けの手を止めた瞬間、同時に視線が上がった。


「さっきの続き、確認しとく?」

圭吾の冗談混じりの声。

「仕事で、ですよね。」

言いながら、有希奈は一歩近づく。

彼のシャツの袖を指先でわずかに折り返す。

露わになった前腕に、さっきまでお湯に温められていた自分の手が触れる。

産毛が逆立ち、触れたところだけ季節が変わる。


圭吾も一歩踏み出し、彼女の頬に手を添えた。

親指の腹で耳の前をゆっくりとなぞる。

フェイスラインに朝の保護クリームの感触が、もう残っていないことを確かめるように。

「ここ、よく泡が溜まるんだよね。」

「…知ってます。」

答えながら、彼女は彼の手首を取って、自分の鎖骨の上へそっと置いた。

骨の線をまたぐかまたがないか、そのぎりぎりに留める。


「線は、綺麗に引くためにある。」

圭吾が低く言い、額を寄せる。

髪と髪が擦れる音が、小さく鳴る。

唇が触れる直前の、呼吸だけが混ざる距離。

「空気、入ったね。」

「逃がしません。」

有希奈は囁き、彼の胸元に軽く額を押し当てた。

布越しの心音が、ドライヤーより柔らかく一定に続く。


そのまま抱き合う。

首筋と頬、手の甲と背中、肘と肘。

触れ合う場所を増やすたび、名前のつかない温度がふくらむ。

境界は守られたまま、しかし限りなく近い。

呼吸が重なってははずれ、また重なる。

どちらの体温か分からない熱が、手のひらに集まっていく。


「明日も、朝から忙しいよ。」

圭吾が耳元で言う。

「知ってます。でも、今は——」

言葉の先を、彼の肩に額を預けて省略する。

彼の指先が、彼女のうなじから髪へ、髪から肩へ、線を引くように移動する。

その線は、越えるためではなく、ふたりを綺麗に見せるための輪郭だ。


照明を一段落とす。

鏡に映るのは、腕の中に収まった影と、わずかに赤い頬。

唇は重ならない。けれど、肌はもう充分に言葉を交わしている。

鍵の音が遠くで鳴り、夜がそっと入ってくる。


「おやすみ、有希奈。」

「おやすみなさい、圭吾さん。」

離れる前、最後に指先だけで確かめ合う。

空気はまだ温かい。逃がさない、とふたりで決めた温度のまま。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

微熱 コード @KAMIY4430

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ