57話 最高の休日

 陽が傾き始め、川面がきらきらとオレンジ色に輝く頃。

 オレたちの前には、湯気の立つ木の器が並べられていた。

 その場でつくった天然の土釜から取り出されたばかりの黄金岩魚の身は、まるで真珠のように輝き、腹に詰められていた山椒の葉の爽やかな香りが、食欲を容赦なく刺激する。


「……すげえな、ジル。こいつはもう、芸術の域だぜ」


 グレンが、感嘆の声を漏らす。

 オレはまず、自分の分の身を一口、口に運んだ。

 ……うん、完璧だ。

 身は驚くほど柔らかく、舌の上でほろりと崩れていく。それでいて、川の王者の名に恥じない、力強い旨味が凝縮されている。腹に詰めた山椒の葉の香りが強すぎず、弱すぎず、魚本来の風味を絶妙に引き立てていた。

 葉で包んで蒸し焼きにしたのは、やはり正解だったな。


「さあ、冷めないうちに食え」


 オレの言葉を合図に、全員が一斉に木の匙を手に取った。

 シュシュアは、目を閉じてその一口をじっくりと味わうと、やがて、恍惚とした表情で天を仰いだ。


「な、何なの、この食感……!? ただ柔らかいだけじゃない、とろける……! 噛んでいないのに、口の中で旨味の洪水になって消えていくんだけど……!」


「……おいしい。……なんだか、優しい味がする」


 フィオも、その紫色の瞳を潤ませながら、小さな口で夢中になって頬張っている。

 一番純粋な反応を見せたのは、アンナちゃんだった。


「おいしい!」


 満面の笑みでそう言うと、父親であるグレンの顔を見上げる。グレンも、娘の笑顔に目を細めながら、感慨深げに頷いた。


「ああ、美味いな。ったく、ジル。お前の料理は相変わらずヤバいな」


 そんな感動の最中、オレは大鍋からもう一つの主役を器へと注いでいく。

 魚の頭と骨からじっくりと旨味を抽出した、黄金色に輝く『潮汁うしおじる』だ。


「これも飲んでみろ。また違う味わいが楽しめるぞ」


 一口啜ると、まず口に広がるのは、魚の骨から出た濃厚でクリーミーな出汁の味。だが、その後から、あの酸っぱい木の実がもたらす爽やかな酸味が追いかけてきて、後味を驚くほどすっきりとさせてくれる。


「うわぁ……! こっちはこっちで、また全然違う美味しさ! 魚の旨味が、さっきの蒸し焼きとは比べ物にならないくらい力強いわ!」


 シュシュアの言う通り、同じ魚から取ったとは思えない、二つの異なる味わい。

 蒸し焼きが「静」なら、この潮汁は「動」。

 そして、この二つが合わさった時、この料理は真の完成を見る。

 蒸し焼きの身を、潮汁にそっと浸して食べる。

 ほろりとした身に出汁が染み込み、口の中で一体となる。淡白で繊細な身の味わいに、スープの力強い旨味と爽やかな酸味が加わり、互いの長所を何倍にも引き立て合っていた。


「……ジルさん。こんなの、反則ですよ」


 シュシュアが、涙目で訴えてくる。

 もはや、誰もが無言だった。ただ、木の器と口を往復する匙の音と、時折漏れる感嘆のため息だけが、穏やかな川辺に響く。

 日が完全に落ち、焚き火の炎だけがオレたちの顔を照らす頃には、あれほど巨大だった黄金岩魚は、綺麗な骨だけを残して、オレたちの胃袋へと綺麗に収まっていた。


「……ふぅ。食った、食った……」


 グレンが、満足げに腹をさする。


「こういう一日があると、明日からまた頑張ろうって思えるな」


 その言葉に、オレも静かに頷いた。

 


「だが、まだ終わりじゃないぞ」


 オレがにやりと笑うと、満腹で幸せそうにしていたシュシュアが「えっ!?」と目を丸くした。  オレは魔術式の保冷箱から、手回し式の小さなミルと、焙煎したばかりのコーヒー豆が入った袋を取り出す。


「食後の締めは、最高のコーヒーと決まってる」


 ミルに豆を入れ、ゴリゴリとハンドルを回す。焚き火の煙とは違う、香ばしくて深い香りが夜の空気に広がり始めると、シュシュアが感心したように声を上げた。


「うわぁ、いい香り……! ジルさん、こんなものまで持ってきてたんですか!」


 熾火の上に鉄製のケトルを乗せて湯を沸かし、挽きたての豆を丁寧にドリップしていく。琥珀色の液体がカップに落ちるのを眺めているだけで、心が満たされていくのを感じた。

 オレが大人たちのためにコーヒーを淹れていると、フィオが木の枝の先に何かを突き刺し、焚き火の炎にそっとかざし始めた。

 それは、マシュマロだった。

 フィオのやつ、どうやらマシュマロを隠し持っていたらしい。


「アンナちゃんも、やる?」


 フィオがアンナちゃんに枝を差し出すと、彼女は少し恥ずかしそうに、しかし嬉しそうにこくりと頷き、フィオの隣で真似をしてマシュマロを炙り始めた。

 やがて、表面がきつね色に色づき、中からとろりとした甘い蜜が溶け出してくる。


「あつっ……おいしい!」


 アンナちゃんの弾んだ声に、グレンも父親の顔で目を細めている。

 そんな和やかな時間が流れる中、ふと、アンナちゃんがオレのそばへとやってきた。そして、もじもじと服の裾を握りしめながら、小さな声で、しかしはっきりとこう言った。


「あ、あの……お魚、とってもおいしかったです。……ありがとうございました」


 深々と頭を下げるその姿に、オレは思わずびっくりした。

 照れくささがこみ上げてきて、ただ「……ああ、そうか」と返すのが精一杯だった。

 それがバレたのか、シュシュアが横でニヤニヤとオレのことを見ていた。

 くそっ、あいつめ……。


 予定外のメンバーも増え、決して静かとは言えない休日だった。だが、不思議と、不快ではなかったな。

 もしかしたら、オレが本当に求めていた平穏な人生というのは、こういう騒がしい日常の中にこそ、あるのかもしれないな。

 そんな柄にもないことを考えながら、オレは淹れたてのコーヒーを一口啜り、燃え盛る焚き火の炎を、ただ静かに見つめていた。

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