40話 うっとうしいやつが来た
カチ、コチ、と。
壁掛け時計の秒針が刻む音だけが、世界の全てだった。
ああ、これだ。これこそが至高。
オレは受付カウンターの自席――もはやオレという存在と一体化した極上の羽毛クッション――に深く身を沈め、完璧に淹れたコーヒーの香りを吸い込んだ。
今日は、実に静かな一日だ。
というと、あの腹ペコどもがいないからだ。
剣姫と元災厄の二人組は、「生活費がヤバいので、しばらく真面目に冒険者稼業に専念します!」と涙ながらに宣言し、ギルドへと出稼ぎに行った。
ふっ、哀れなる日雇い労働者共よ。
それに比べて、オレはどうだ。
王立図書館司書という、超安定公務員。こうして椅子に座って本を読んでいるだけで、毎月決まった日に、決まった額の給金が懐に振り込まれる。労働の対価は時間ではなく、存在そのものに支払われているのだ。
この圧倒的、絶対的、そして永続的な安定。
これ以上の幸福がこの世にあるだろうか! いや、ないな。
前世で上司の無茶振りと部下の尻拭いに追われ、有給休暇を紙くずにして死んだオレよ、見ているか。今、オレは勝ったのだ。世界と、労働という名の不条理に!
そんな幸福に浸りながら、オレは読書をしていたわけだが、どうにもさっきから背後から奇妙な音が聞こえてくる。
フンッ! フンッ! という、何かを必死にこらえているような、それでいて規則的な息遣い。
玄関から誰かが入ってきた覚えはないが……。だったら、この息遣いはいったい?
……まさか、泥棒でも忍び込んできたか。
面倒なことになる前に、一応確認しておくか。
オレはしぶしぶ席を立ち、音のする方へと向かった。
7番書架と8番書架の間。古代文献が並ぶ、図書館で最も静かなエリア。
そこに、そいつはいた。
『影を断つ者』ゼスト。
腕利きの暗殺者が、書架の一番上の棚に両足を引っ掛け、逆さ吊りの状態になっていた。
それだけではない。
その両手には、それぞれ電話帳ほどもあろうかという分厚い魔導書『古代魔法大系・全属性の巻』を重りのように掲げ、凄まじい速度で腹筋を繰り返していたのだ。
腹筋をするたび、「フンッ!」という息遣いと共に、両手の魔導書から魔力の光がうっすらと漏れ出ている。意味が分からない。トレーニングなのか、何かの儀式なのか。
「おい。お前、一体何がしたいんだ」
オレが心底呆れた声で尋ねると、ゼストはぴたりと動きを止め、逆さのまま、その昏い瞳をこちらに向けた。
「……ジル殿か。見ての通り、食事前の『儀式』でござる」
「儀式?」
「うむ。これは我が一族に古より伝わる秘伝の体術、『
「ただの食前前の運動じゃねえかよ」
オレは、その壮大で馬鹿馬鹿しい与太話を、一言で切り捨てた。
一瞬、ゼストが「なっ……!」と絶句したように見えたが、気のせいだろう。
まったく。貴重な書物をトレーニングの重しに使いやがって。本好きなやつらがみたら、きっと激昂するに違いない。
「おい。読書の邪魔だから静かにしてくれ。そもそも、図書館は静かに読書を楽しむための場所だ。トレーニングのための場所じゃない」
オレの至極まっとうな指摘に、ゼストは「む……左様か。配慮が足りなんだ」と、存外素直に反省の意を示した。そして、すた、と音もなく床に着地すると、魔導書を元の棚に丁寧に戻し、深々と一礼して書庫の奥へと姿を消した。
ふん、話のわかるやつで助かった。
これでようやく、オレの静寂は守られたわけだ。
オレは満足げに頷くと、受付カウンターの自席へと戻り、再び読書の世界へと没入した。
……はずだった。
どうにも、集中できない。
静かだ。確かに、音は一切しない。だが、視界の端で、何かがチラチラ、うねうねと動いて、猛烈に神経を逆撫でしてくる。
オレは苛立ちを隠さずに、視線を本のページから上げた。
カウンターからギリギリ見える、7番書架と8番書架の間。
そこに、そいつはいた。
ゼストは、先程オレに注意されたことを律儀に守っているらしく、自らの口を黒い布で固く覆っていた。音を立てないという、固い意志の表れだろう。
だが、その行動が、問題だった。
彼は、指先だけで逆立ちをしていた。それも、ただの逆立ちではない。頭の上には、あろうことか五冊の分厚い本を絶妙なバランスで積み上げ、その体勢のまま、無音でゆっくりと腕立て伏せを繰り返している。
その動きは、もはや大道芸の域を超えていた。汗一つかかず、呼吸の乱れもない。ただ、静かに、しかし圧倒的な存在感をもって、視界の中でうねうねと蠢いている。
……うっとうしい。
音以上に、存在がうっとうしい!
オレは本日二度目となる深いため息をつき、再び席を立った。
「おい」
オレの声に、ゼストはぴたりと動きを止め、逆立ちのまま器用にこちらを向いた。
「音を立てなければいいという問題じゃない。視界に入るだけで邪魔なんだよ。あと、汗が滴り落ちて床が汚れるだろうが。今すぐここから出ていけ」
我ながら理不尽極まりない言い分だったが、もはやどうでもよかった。
ゼストは「むう……」と、布越しに不満げな声を漏らしたが、やがて諦めたように元の体勢に戻ると、今度こそ静かに図書館の出口へと向かっていった。
ふぅ……。
今度こそ、本当に静かになった。やはり、この城の主はオレ一人に限る。
最高の怠惰タイムが、ようやく、ようやく戻ってきたのだ。
オレが至福の表情で椅子に体を沈めた、その時だった。
ぬるり。
足元に、黒い影が寄り添ってきた。
オレの忠実なる同居人、クロだ。
クロは、その不定形の体の一部を尻尾のように変形させると、ぱた、ぱた、となにかを伝えたいとばかりに床を叩いた。大きさも数もバラバラな赤い単眼をうるうると潤ませ、上目遣いでオレを見上げてくる。
「……なんだ、クロ。餌の時間にはまだ早いが」
ギチチ……、と甘えるような音を立てると、クロはオレのズボンの裾を、にゅるりと伸ばした体の一部で器用に掴み、くい、くい、と引っ張った。
こっちに来い、と言っているらしい。
「やれやれ、お前まで面倒事を……」
口ではそう言いつつも、その見た目からは想像もつかない子犬のような仕草に、どうしようもない愛おしさを感じていた。
クロに引っ張られるまま、オレは書庫の奥、職員以外は立ち入り禁止となっている植物園の扉へと向かった。
「一体、何があるって言うんだ……」
クロに促されるまま、重厚な扉を開ける。
むわりとした湿った土と、植物の匂いが鼻をついた。ガラスの天井から降り注ぐ陽光が、生い茂る葉に反射してきらきらと輝いている。
その、楽園のような光景の中心。
植物園の中央に設置された、小さな噴水の前に、そいつはいた。
ついさっき、オレが図書館から追い出したはずの、ゼストだった。
彼は上半身裸になり、噴水から流れ落ちる水を滝のように浴びながら、仁王立ちで瞑想していた。その鍛え上げられた肉体から、湯気のようなオーラが立ち上っている。
「……あいつ……」
オレの額に、青筋が浮かんだ。
図書館がダメなら、今度は植物園か。別の入り口から、こっそり忍び込んでいたらしい。
「おい。今度は何をしているんだ」
もはや感情を抑えるのも面倒になった、地を這うような低い声で尋ねる。
オレの声に、ゼストはゆっくりと瞑想を解き、涼しい顔で振り返った。
「ジル殿か。見ての通り、身を清めていたのでござる」
「……は?」
「先ほど、貴殿に『汗臭いから出ていけ』とのお言葉を賜った。己の不徳を恥じ、この聖なる泉で汗と煩悩を洗い流していた次第」
悪びれる様子もなく、むしろ良いことをしたとでも言いたげなその態度。
こいつ、オレの言葉を真に受けて、わざわざ植物園に忍び込んで水浴びをしていたのか。
あまりの思考の飛躍に、めまいがしてきた。オレがこめかみを押さえて天を仰いだ、まさにその瞬間だった。
キラッ☆
何かが、太陽光を反射してオレの目を直撃した。
「ぐっ……!?」
思わず腕で目を覆う。なんだ今の光は。
恐る恐る指の隙間から覗くと、そこには神々しいまでの光を放つゼストの姿があった。
噴水の水滴をまとった、彫刻のように鍛え上げられた肉体。その一つ一つの筋肉の溝を滑り落ちる水滴が、プリズムのように太陽光を乱反射させ、まばゆい輝きを四方八方に撒き散らしていたのだ。
無駄に鍛え上げられた肉体美が、無駄にキラキラと輝いて、無駄にうっとうしい!
音もなく、臭いもなく、今度は光で攻撃してきただと……!?
その時、オレの耳が、か細い悲鳴のような音を捉えた。
クロが「ギチチッ!」と悲痛な音を立て、不定形の体の一部で自らの赤い単眼を必死に覆い隠す仕草をした。まぶしくて見ていられない、と全身で訴えている。
ハッとして音のした方へ視線を向けると、植物園の隅にある日陰の栽培エリアから、小さな影がふらふらと、まるで手負いの虫のように飛んでくるのが見えた。
『
彼女は息も絶え絶えといった様子でオレの肩に不時着すると、半泣きで訴えかけてきた。
「マ、マスター……! お助けを……! あ、あの光り輝く筋肉ダルマのせいで、わたくしの同胞たちが……いえ、マスターの大切な食材たちが、干しキノコになる前に溶けてしまいますぅ……!」
妖精が震える指で指し示す先。そこには、見るも無残な光景が広がっていた。
日陰でしか育たないはずの希少な食用キノコたちが、ゼストが放つ後光に当てられて、ぐったりと萎びかけているではないか!
…………。
こいつに何を言っても無駄だ。常識も理屈も通じない。この男は、うっとうしい権化のようなものだ。
オレは表情から一切の感情を消し去ると、ただ静かに、事実を告げた。
「おい、ゼスト。昼にするぞ。さっさと服を着ろ」
その一言は、全ての奇行をぴたりと止めた。
「どうせ、オレの料理が食べたくて来たんだろ」
オレが呆れたように言うと、ゼストは瞑想の体勢を解き、一言、「待っていたでござる」とだけ呟いた。
次の瞬間、シュタッ!という人間には出せないはずの音と共に、ついさっきまで半裸で滝行をしていたはずの男が、いつの間にか完璧に黒装束を着こなし、オレの隣に立っていた。
やれやれ。
結局、こうなるのか。
オレは萎びたキノコたちに哀れな一瞥をくれると、腹を空かせた暗殺者を黙らせるべく、重い足取りでキッチンへと向かう。
こいつを大人しくさせる方法は、やはりこれしかないのだ。
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