12話 生きる理由より大事なのは

「ほら、飯が覚める前に食べるぞ」


 オレは皿をテーブルに置きながら、完全に魂が抜けたようになっているフィオを一瞥した。

 シュシュアは「わーい!」と子供のように歓声を上げ、さっそくナイフとフォークを手に取っている。その隣で、フィオはただ呆然と立ち尽くすだけだった。

 せっかくの昼飯時に目の前でうじうじされるのは落ち着かないな。


「……なんで……」


 か細い声が、静かな休憩室に響いた。

 フィオが、虚ろな瞳でオレを見上げてくる。


「なんで、こんなところで司書なんてやっているの……?」


 ああ、またその手の質問か。聞き飽きたな。


「その力があれば、世界だってあなたのものになるはずでしょ……? 王にだって、神にだってなれる。人間を支配して、歴史をあなたの好きなように書き換えることだってできる。なのに……なんで、図書館の司書なんかやってるのよ……!」


 悲痛な叫びだが、オレには響かない。価値観が違いすぎる。


「力があったとしても、それを活かすかどうかはオレの自由だろ」


「……!」


「王? 神? 冗談じゃない。そんな面倒くさいこと、誰がやるか。他人の人生の責任まで背負わされて、過労死するのがオチだろ」


 前世の記憶が、苦々しく蘇る。

 期待、責任、義務。その言葉の先に待っている地獄を、オレはもう知っている。

 だから、いつもの決め台詞で釘を刺す。


「いいか、ガキ。オレの力のことは、誰にも言うなよ。これ以上、あんたみたいなのが押し掛けてくると、オレの貴重な昼寝の時間がなくなる。それだけは絶対に許さんからな」


 オレの言葉は、フィオの心をへし折る最後の一撃になったようだった。

 彼女の瞳から、光が消える。

 ぷつり、と何かが切れる音が聞こえた気がした。


「……終わりだ……」


 フィオは、糸の切れた人形のように、その場にぺたんと座り込んだ。


「もう、終わり……。あたしじゃ世界に恐怖を振りまくことはできない……。あたしが、あたしである意味が……もう、ない……」


 オレはその呟きを完全に無視し、自分の席についてポワレを切り分けた。まずは一口。うん、完璧な出来だ。

 そんなオレの耳に、背後からボソボソと呟く声が届き続ける。

 ……うるさいな。せっかくの食事が落ち着かない。


「ねえジル!」


 隣で幸せそうに頬張っていたシュシュアが、そんなフィオを見て言った。


「この子、きっとお腹が空いてるのよ! ジルのご飯を食べたら、美味しいからきっと元気になるわ!」


 ……ああ、そうか。こいつを黙らせるには、口に何かを突っ込むのが一番手っ取り早いか。

 オレは無言で立ち上がると、予備に用意していた皿にポワレを盛り付け、それをフィオの目の前の床に、ことりと置いた。


「ほら、食べてみろよ」


 オレは床に座り込むガキを見下ろし、淡々と告げた。


「なにに絶望しているか知らないが、いいか、うまい飯を食って、昼寝して、ぐーたらする。これ以上の幸せなんて、この世にはないからな」


 オレはそれだけ言うと、さっさと席に戻った。

 床に置かれた皿から立ち上る湯気と共に、暴力的なまでに食欲をそそる香りが、フィオの鼻腔をくすぐる。

 表面はカリッと香ばしく焼き上げられ、ナイフを入れれば抵抗なくスッと切れる柔らかさ。断面は美しいロゼ色で、そこからじわりと透明な肉汁が溢れ出す。

 ソースは、裏の菜園で採れた『吸血トマト』をベースにした特製だ。トマトの濃厚な旨味と酸味に、じっくり炒めた香味野菜の甘みが溶け込み、赤ワインの芳醇な香りが全体をまとめ上げている。

 フィオは、無意識にその皿を、吸い寄せられるように見つめていた。


 やがて、おずおずとフォークを手に取り、恐る恐る、といった様子で肉の欠片を口に運ぶ。

 そして、次の瞬間。

 彼女の紫色の瞳が、信じられないものを見たかのように、大きく、大きく見開かれた。


「―――っ!?」


 噛んだ瞬間、カリッとした表面が小気味良い音を立てて砕け、直後に、閉じ込められていた肉汁と旨味の洪水が、口の中いっぱいに溢れ出した。猪肉特有の力強い風味と、上質な脂の甘み。それを、濃厚なトマトソースが優しく包み込み、後から追いかけてくるハーブの爽やかな香りが鼻に抜けていく。

 今まで彼女が味わってきたのは、恐怖や絶望といった、心を削るだけの味気ない感情だけだった。

 だが、これは違う。

 純粋な『幸福』。ただひたすらに、心が満たされていく感覚。

 ぽろり、と。

 フィオの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。それは、悲しみや悔しさの涙ではなかった。生まれて初めて知った、温かくて、どうしようもなく満ち足りた感情の奔流だった。


「……おい、しい……」


 一度口にすれば、もう止まらない。

 フィオは、憑かれたように、夢中でポワレを口に運び始めた。

 その姿は、災厄でも悪意でもなく、ただ、初めて美味しいご飯にありつけた、腹ペコの子供そのものだった。

 あっという間に皿を空にしたフィオは、ぽろぽろと涙を流し続けながら、呆然と呟く。


「……また、ここに食べに来ても……いい……?」


 静寂が、落ちる。

 オレと、シュシュアと、そして目の前で涙を浮かべながら懇願する災厄のガキ。

 三者三様の視線が、狭い休憩室の中で交錯した。

 オレが何か言う前に、快活な声が静けさを破った。


「もちろんよ!」


 満面の笑みで、シュシュアが答えた。

 フィオはびくりと肩を震わせ、信じられないといった顔でシュシュアを見る。


「ジルのご飯は、一人で食べるより二人、二人で食べるより三人で食べた方が、ずーっと美味しいもの!」


 おいおい、なんでお前が答えるんだよ。

 心の中で軽くツッコミを入れていると、フィオがおずおずと、最終確認のようにオレの顔を窺ってきた。その瞳には、まだ拭いきれない涙と、かすかな希望が同居している。


 剣姫や暗殺者とか、たかりに来るやつなんて、すでに何人かいるんだ。一人や二人、飯を食う人間が増えたところで、オレの怠惰な日常が根底から覆るわけでもない。


「いつでも来い。ただし、もう図書館で暴れんなよ」


 そう答えると、フィオはぶんぶんと、ちぎれんばかりに首を縦に振った。

 それから、シュシュアの「やったわね!」という嬉しそうな声と、フィオの小さな、本当に小さな安堵の息遣いが聞こえた気がしたのだった。

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