王子様が殺された(後半)(END)

 朝、知らない番号の着信が積み上がる。留守電には同じ言葉が並ぶ。「女神」。

 私はただ、街頭で紙を握って立っていただけだ。レンズが私を切り取り、翌朝には見出しの中央に置かれた。

「象徴」と呼ばれた瞬間から、私の一日はパンフレットと台本と打合せで埋まった。最初はネット番組、次にバラエティ、ワイドショー、イベント司会、グラビアの打診。断る理由はどこにも落ちていなかった。


 初めてのグラビア撮影。スタジオの照明は熱く、床に撒かれた黒いガムテープが粘ついた。カメラマンが「もう一段だけ前」と言い、スタイリストが「あと一つ外しましょう」と言うたび、私は笑顔を上塗りした。

 雑誌が出ると、列ができた。サイン会で名前が転売され、イベントのギャラは階段を上がった。口座には毎月二百五十万円が落ちてきて、夜中に通帳を開いて桁を確認する癖がついた。自分の価値が数字に換算されるのは、ある種の救いだった。


 救いは、すぐに刃になった。

 「コメントを」と求められるたび、私の言葉は濃くなった。

 「月収22万の男と付き合う義理って、ある? だって割に合わない」

 「芸能人が五千円の服? 夢を売るのに、夢が皺だらけじゃ困る」

 収録は笑いに包まれた。でも切り抜かれた数秒がネットに放たれると、罵倒が雪崩れ込んだ。「庶民蔑視」「勘違い女神」。私は謝らなかった。「私は誰も殺していない。正直を言っただけ」そう書けば、さらに炎は酸素を得た。


 同業者の写真集を見て、口が滑った。

 「構図が借り物、修整に頼りすぎ。紙の無駄」

 翌日、相手のファンが押し寄せ、DMは呪詛で埋まった。私は意地になった。「売れているのは私。数字が審判」。言いながら、数字ほど人を盲にするものはないと、どこかで知っていた。


 現場でも私は敵を作った。

 生放送のスタジオで、年上の女優が真剣に語る横で、私は緊張をごまかすように変な顔をして笑いを取り、空気を凍らせた。

 ロケの移動車で、私はスタッフの段取りに口を出し、やり直しを繰り返させた。

 局の廊下で偶然会った先輩タレントに、軽口のつもりで「その衣装、古い」と言って嫌われた。

 小さな嫌悪はやがて積み木のように重なり、楽屋のノックが減っていく感触がはっきりわかるようになった。


 政治の話題にも呼ばれた。

 語彙の選び方をめぐって、主催側と衝突した。「その呼び方はNG」と耳元で囁かれ、私は「なら切ればいい」と言った。別の場所で過去の投稿が掘り返され、以前は逆の用語を使っていたことを指摘される。「ブレてる」「二枚舌」。

 エネルギー政策の番組で、私は過激な比喩を放った。「有害物質を食卓に並べたいの?」賛否が真っ二つに割れ、スポンサーが難色を示しはじめた。

 ライブ配信では、机の上に過激な大人向けグッズが映り込み、「被害者を語りながら性を商品化する偽善」と火に油を注いだ。


 極めつけは、突撃取材だった。

 夜道、スマホを私の顔に突きつけられ、反射的に叩き落とした。黒い画面がアスファルトで割れ、誰かが「器物損壊」と叫んだ。警察署の蛍光灯の下で「誤解です」を繰り返す間に、翌朝には「局は当面起用見送り」のメールが届いた。私は虚勢で「こっちから断る」と呟いたが、受信トレイの空白は正直だった。


 テレビが消え、ネットの中だけが広場になった。

 二十一時に配信をつけると、投げ銭が雨のように降る。

 「歌って」「胸元見せて」「政治語れ」「謝れ」

 その都度、少しずつ応えた。私が応えるたび、どこかが減っていく感触も、少しずつ強くなった。


 そうしているうちに、別の種類の連絡が来はじめる。

 日時とホテル名と封筒の厚み。私は自分に言い聞かせた。「酒を売るだけ。場を温めるだけ」

 二度、三度。

 やがて「紹介」を頼まれるようになった。私は連絡先をつなぎ、やり取りを橋渡しした。謝礼は仕事のギャラより速く、静かに落ちてきた。


 落ちるときは、摩擦がない。

 告発、記事、事情聴取。

 調書に私の手書きの文字が並び、起訴状に私の名前が打ち込まれた。

 法廷で、私は二度の斡旋を認めた。判決は懲役6か月、執行猶予二年。

 傍聴席で誰かがため息をついた。帰り道、私は濃い口紅をやめた。

 執行猶予という言葉は軽く聞こえるが、実際には「戻れない道の入口」と同義だった。


 夜の箱に戻ると、白い粉が差し出された。

 「軽くなるよ」

 私は軽くなりたかった。罪悪感より、世間の目より、父の掌の記憶より、あの男の頬の熱より。

 最初はほんの少し。次に、もう少し。

 三日眠れない夜が来て、胃が焼け、鼻腔が熱を持ち、ティッシュが赤く重くなった。

 病院で言われた。「鼻中隔に穴が空いています」

 鏡で穴を見た時、ようやく現実が私の内部に形を持った気がした。


 私は祖国を出た。観光の期限が切れても戻らなかった。

 小さな箱のフロアでつないだ曲に、拍手がまばらに落ちる。誰も私を女神と呼ばない。それは少し寂しく、同時に少し自由だった。

 それでも、昔の名前は記事の端で腐葉土のように発酵している。「元女神」「炎上タレント」「売女」。通知を伏せても、腹の底で振動だけが続いた。


 ある夜、ふと、昔の王子様を思い出した。札幌から飛んできた、土日だけの恋人。

 私は旧友に連絡した。返ってきたのは、少し間を置いた声だった。

 「……お久しぶり、って言うべきかな。まさか君から連絡くるなんて。有名人だもんね、いろんな意味で」

 声は乾いていて、笑いとも皮肉ともつかない響きが混ざっていた。


 恐る恐る彼のことを尋ねると、旧友はため息を1つついて答えた。

 「あの人、あれから落ち込んでね。でも体を鍛えて転職して、今は東京の大手で忙しくしてる。まだ独身らしいよ」

 言葉の端々にわずかな温かさはあったが、その直後に冷たい水を浴びせるように続けた。

 「……いまさら? やめとけ。未練がましいし、あの人にとって君は黒歴史だよ。許すなんて思わないほうがいい」


 私は迷った末、さらに口を開いた。

 「……写真、ある?」

 旧友が一瞬黙り、呆れたように吐き出す。

 「……え?見てどうする気?」

 「お願い」

 沈黙がもう一度流れ、そして短く答えが返った。

 「……しょうがないなあ。最初で最後だよ」


 数秒後、スマホが震え、通知が灯った。おそらく、彼のインスタから拾ってきたのだろう。画面を開いた瞬間、呼吸が止まった。

 そこには、スーツ姿で真っ直ぐ立つ男。背筋は伸び、目は強く澄み、口元にわずかな笑み。肩にかけられたジャケットが似合いすぎて、まるでアクション映画の主演俳優。

 計算すれば、もう四十代前半。あの日、札幌から飛んできて疲れた顔を見せた彼と同じ人物とは信じられない。若々しさと渋みが同居していて、かつてよりもさらに魅力を増していた。


 私は画面を撫でるように指を動かし、唇が震えた。

 ――一度手放した、本物の王子様。


 「彼のメイン垢、変わってないよね?」と私は聞いた。

 旧友は呆れ声で返す。「……うん。でも、それをブロックしたのもあなたでしょうに」

 私は心の中で即座に答えた。だからこそ、解除すればいい。過去は自分で閉ざしたのだから、自分で開ければいい。


 胸の奥で、古い罪悪感が少しほどけ、同時に小さな灯がまた点いた。厚かましいと言われても構わない。やり直せるかもしれない。

 私は長いワンピースを選び、清楚なメイクをして、髪をまとめた。鏡の中の私は、あの頃の私より少し年を取り、少しだけ柔らかかった。

 航空券を買い、空港へ向かった。東京に着いたら、どう会いに行くかは、着いてから考えよう。メッセージは、到着してから。笑顔で、まず謝ろう。


 保安検査場の手前で、制服の人に呼び止められた。

 「少し、お時間いいですか」

 案内された部屋は白く、机の上には古いキーボード。

 担当官は端末に私の名前を打ち込み、眉をひそめた。

 「滞在資格の期限が切れています。加えて、祖国での案件に関する通告が届いています」

 私は口を開き、言葉を探し、見つからなかった。

 手錠の金属が手首に乗る。冷たさで、白い粉の熱がようやく消えた。

 体が緩み、恥ずかしい音が椅子の上で小さくしたたった。誰かがフラッシュを焚いた。シャッター音は、かつての歓声に似て、まるで違った。


 留置の部屋には時計がない。

 天井の染みを数え、番号で呼ばれ、配られる食事の温度で時間を測る。

 私は目を閉じ、あの男の顔を思い出す。

 私が叩いた頬。遮断した悲鳴。

 もしあの時、手を取っていたら。もし、父の掌の記憶が私を支配していなかったら。もし、家庭教師の腕をほどいていたら。もし、あの日のレンズが私を拾わなかったら。

 「もし」は囚人には過剰だ。

 許されているのは番号と順番と移送だけ。祖国に戻れば、また問われる。「女神はどこへ行った」

 私は答えられない。女神なんて最初からいなかった。ただ、空洞に貼ったラベルが他人の欲望にぴったり合ってしまっただけ。


 それでも、小さな灯は消えていない。

 あの人に会える日は遠のいたけれど、私が誰であるかを決める権利は、まだ残っている。

 二度と、シャッター音に価値を委ねない。二度と、空洞にラベルを貼らない。

 係員が名簿を読み上げ、私の番号が空気に浮く。

 私は立ち上がる。

 歩き出す。

 落ちながら、歩く。重力と名前の、ちょうど真ん中を探すみたいに。

 執行猶予の紙切れよりも重い、自分の声を、胸の内側で反芻しながら。

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