【最終話】第5話・シューヴァ

 見慣れぬ草が足元を払う。湿った裾が肌にまとわりつく。昨夜は雨だったか。あるいは、誰かが降らせたのかもしれない。土埃が立たぬぬかるみの山道は、雨降師にとっての舞台。静けさと湿気が味方する。


 隣村――正式にはカーラル村だが、誰もそう呼ばない。今は「寂びれ村」あるいは「侘び村」と呼ばれ、ラグス村では忌避の対象となっている。王都へ通じる山越えの道が拓けるまでは、宿場町としての賑わいを誇っていた。宿屋、飯屋、そして娼婦。取り仕切る者のいない、野良たちがひしめいていた。けれど、道が変われば流れも変わる。カーラル村は急速に時の流れに取り残され、名さえ奪われた。私はせめて“隣村”と呼ぶ。


 チッと音が通り過ぎた。耳をかすめたのは矢だった。毒は塗られていない。


「どうやら、見張られてたらしいな」


 サンレが静かに呟く。三連の霰をリボルバーに詰め込んだ。射程の限界を承知の上で放った三連の弾は、空気を切り裂いて三発一体となり、矢のごとく疾る。人を殺せなかった霰に、殺す力を与えたのは彼の技量だ。ただ、殺せるようになったという事実があるのみ。


 私はサンレの中に父の影を見ていた。だがそれは、甘えだった。思い込みだ。今はそれを、恥ずかしいと思える。


 サンレが弾を補充する一分の間、私が盾になる。


「雲」


 私が持つ力。雲を練り、盾とする。修行のとき、偶然つかんだこの力。サンレの銃が再び火を吹くまで、私はこの曇天を編み、護る。


 矢が降る。狙いを定めるための試し打ち。次に放物線を描いて落ちるそれは、大弓によるもの。五連の矢を放つ弓手が、少なくとも二人。私は雲の盾をドーム状に広げ、サンレと共に山を下る。矢は雲に当たり、へし折られる。


 ここで裏をかく余地はない。最初から正面突破の覚悟だった。私たちの目的は、奴らを奈落に落とすこと。


 サンレは三連の霰弾を正確に操り、次々と敵を撃ち抜く。標的は、もはや村人ではない。武器を手にした時点で、ただの敵だ。ぬかるみの先に、物見台が姿を現す。見慣れた男、いくぶんか痩せたようにも見えるが紛れもなく雨爺だ。その視線は定まらない、だが正確に大弓を操る。二人いたと思われた大弓使いは雨爺ひとりの仕業だったのか。


 だが、サンレは見抜いていた。


「あれは……ダメだ。雨ジジイ、やられてる。乱れ草か」


 娼婦たちがいた時代、薬売りたちもまた村に入り込んだ。彼らは、骨の髄までカーラル村を食い荒らした。そして、乱れ草。


 その草が放つ甘い香気は、人の心を奪い、魂を溶かす。村が狂ったのは乱れ草のせいだと、雨爺はよく言っていた。酒を煽りながら、どこか遠い目で。母は台所で嗚咽を押し殺していたのを覚えている。私とナガメは父さんの甘い香りに怯えていた。


 あれは乱れ草の匂いだったのだと、今ならわかる。


「盾を出せ!」


 サンレの声に、盾を出す反応が遅れた。長矢がサンレの腕を貫いた。だが、その矢はすぐに霧のように消えた。腕には直径五センチ程度の穴が。


「……雨ジジイ」


 前夜、サンレは言った。雨ジジイがまだ生きているのは、意志ではなく依存だと。乱れ草に、支配されているのだと。ならば、解放では足りない。


 討たねばならない。


 私から母を、ナガメを、そして雨爺自身を奪った存在――隣村の人間すべて、奈落に落とす。そして、それが、雨爺その人であったのだとしても。だから、私は雨爺を奈落に落とすことに躊躇はない。あの雨爺は私の知る雨爺ではないと思えばいいだけだ。


 私たちが雨爺を殺したとして、それは私たちのせいではない。


 私は雲の盾を解き放ち、サンレは武装した村人たちを正確に撃ち抜いていった。


 私たちは濃密な香の漂う村の、歪んだ静寂の中へと力強く足を踏み入れた。

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