第14話 露わになった虚偽
冒険者ギルドの扉は、昔のまま重かった。
取っ手に指を掛けた瞬間、掌の皮膚がざらっと嫌な記憶をなぞる。ここで受けたガリウスたちからの嘲り、押し付けられた理不尽、冷えた飯と熱い罵声。
緊張していないと言えば、嘘になる。喉の奥がひどく乾いた。だが、足を止めるわけにはいかない。
扉を押し開けると、昼時のざわめきが波のように押し寄せてきた。
中は普段通りだ。依頼板の前で肩をいからせる若い冒険者、奥では併設酒場の椅子が軋み、誰かが笑い、誰かが怒鳴っていた。皿とコップのぶつかる音。煮込みの匂い。人の体温。その全てが、胸の古傷を抉られるようだった。
楽しかった思い出など、殆どない。〝マッドドッグ〟に入ってからは、地獄みたいな毎日だった。
扉を潜って二歩。入口近くの長椅子に腰かけていた冒険者が、こちらを見て目を剥いた。
「え? もしかして、ロウか? お前、死んだんじゃ……?」
その一声で、波紋のように視線が広がった。ギルドの空気が一斉にざらりと波立つ。椅子の足がずるりと引かれ、匙が止まり、口が半開きになっている者もいた。
二歩ほど後ろにルヴィアがいるはずなのに、誰もそこまで目を届かせない。彼らはロウを、まるでアンデッドでも見たかのように凝視していた。
ざわつきは、酒の匂いの濃い一角にまで届いた。ギルド併設酒場の中央近く、陽の差す席で杯を打ち鳴らしていた三人組が、こちらを向いた。
ガリウス、シーラ、サムソン。〝マッドドッグ〟の三人だ。
ロウの胸の奥が、すっと冷えた。
もうあいつらより強い。それは間違いないはずなのに、あいつらを見たら、これまでのトラウマが一気に蘇って、鼓動が速まった。
ガリウスの手が止まり、杯の縁が歯に当たって音を立てた。
「……お、おい。あの野郎、マジかよ」
「ロウ……あの状態から生きれたってのか?」
サムソンは目を細め、あの鈍重な額に皺を刻む。
一方のシーラは、唇を震わせて頬を引きつらせていた。
「う、嘘よ。だって私、あの時確かにあいつに──」
「ガリウス。どうするんだ、これ」
サムソンの表情に、諦めの影がさっと射した。テーブルの上の肉皿の湯気が、嘘みたいに遠い。
先に動いたのは、ギルドの職員だった。奥の窓口から、灰色の上衣を着た男がこちらへ歩いてくる。査定官。薄い眼鏡の奥の目が氷のように冴え冴えと冷たかった。
普段から鋭いが、今日はさらに精悍だ。足音は静かだが、一歩ごとに酒場のざわめきが狭まっていくように感じられた。
「ロウさん、お久しぶりです」
口角だけで形を作ったような挨拶に、ロウはうなずいた。
「お久しぶりです。元気にしてましたか?」
「ええ、私はいつも通りですが……」
査定官はちらりと酒場のガリウスたちの方を見た。視線が一瞬だけ刃の光を帯び、すぐにロウへ戻る。
「あなたとリナさんは先日〝黒の森〟で死亡したと〝マッドドッグ〟の皆さまから報告を受けています。それは間違いだった、ということですか?」
「見ての通り、足はありますよ。アンデッドでもありません。ただ、リナの方は……」
ロウは胸元から〈聖印〉を取り出し、査定官に見せた。
リナの名が彫ってある、教会から与えられた品。彼女にとって最も大切なものだったに違いない。
査定官はそれを見て、意味を汲んだ。ほんの一瞬だけ睫毛を伏せ、無念そうに眉を顰める。
「なるほど……それは、残念です。して、ロウさん。いくつか伺いたいことが」
「なんでしょう?」
「〝マッドドッグ〟には現在、あなたとリナさんへの救難義務違反の嫌疑があり、ランク審査を保留としています。そのあたりについて詳しく伺いたいのですが──」
「よ、よおロウ! お前生きてたのか!? あの状態で……よくもまあ! 凄い、凄いぞロウ! お前はやっぱりSランクパーティーの一員だ!!」
査定官の声を、ガリウスの大声が遮った。ロウの肩に、いやに軽い掌が置かれる。
白々しい笑みが目の前に押し寄せてきて、それだけで神経が逆撫でられた気分になった。
その後ろから、シーラとサムソンも続いた。
シーラが涙ぐんだ表情を作り、その後ろでサムソンだけがバツの悪そうに目を逸らしている。
(ああ、そういうことか)
ロウはサムソンの顔を見て、諸々を察した。
虚偽の死亡報告。都合のいい死。今この手のひらの軽さと、あの夜の重さが一気に肩に伸し掛かってきた。
肩を掴むガリウスの手に、力が籠った。指が骨に食い込む。
笑みを作りながら、目線だけがぎろり動いた。
『言うなよ』
そう言っているのが、痛いほど伝わってきた。脅しか、取引か、威圧か。どれでもいい。
ロウはこくりと、にこりと笑って頷いてみせた。ガリウスの眉間に安堵の皺が刻まれる。
その安堵が完全に広がる前に、視線を査定官へと戻した。そして、こう言ってやった。
「その報告は虚偽です、査定官さん。魔物に追い詰められたこいつらは、俺を犠牲にして逃げようとして……ガリウスはシーラに、俺に拘束魔法をかけるよう指示しました」
「ンな──!?」
「ちょッ!?」
乾いた音みたいに、ガリウスとシーラの声が重なった。
サムソンだけは何も言わず、重たい諦観を顔に貼り付けていた。
周囲の空気が再びざわつく。椅子の足が引かれ、遠巻きの視線がこちらに全て向けられていた。
「ほう……?」
メガネの奥の査定官の目が、一層鋭くなった。
刃に油を差したみたいに、光が増す。
「詳しく聞かせて頂けませんかね」
「俺はこいつらに言ったんです。俺のことはいいから、リナだけでも、と。でも、こいつらはそれを聞き入れず、ふたりまとめて死ね、と言い残して逃げました。リナだけは最後まで俺を守ろうとしてくれたのですが……」
喉の奥に、あの夜の砂が詰まる。
言葉が出てこなかった。人知れず、拳が勝手に鳴る。
リナの最後の声が、耳の奥でまだ震えていた。
忘れられるはずがなかった。
「お、おいロウ! 違うよな? そうじゃねえだろ? お前が、自分から囮になるって言ってくれたんだよな?」
「そ、そうよ! だって私、そう聞いたもの!」
ガリウスとシーラが必死に言葉を重ねた。
だが、その声はもう査定官には届かないだろう。彼の唇が薄く結ばれ、次の瞬間、ぴんと空気が張った。
「黙りなさい!」
鋭い叱責に、ガリウスとシーラがびくりとした。
査定官はロウへ向き直ると、ほんの少し身を傾け、頭を下げた。
「ロウさん、本当に申し訳ありませんでした」
「え……?」
あまりにも唐突で、ロウは思わず目を見開いた。
査定官からの謝罪は、全く予想していなかった。
「実は……Sランクパーティー〝マッドドッグ〟には以前からメンバー虐待の嫌疑がかかっていました。リナさんからも、その相談を受けており……私としては、早急に対処せねばと思っていたのですが、〝マッドドッグ〟はこのギルド唯一のSランクパーティー。功績が優れていることもあって、
深々と頭を下げる査定官。
なるほど、とロウは思った。この査定官は彼の職務を全うしようとしたが、そこで上からの圧があったのだろう。要するに、ギルドの都合だ。
このギルドには、Sランクパーティーが〝マッドドッグ〟しかいなかった。そこで彼らを降格処分にしてしまうと、Sランクパーティー不在のギルドとして、依頼を他の町のギルドに依頼を取られることになってしまう。Sランクパーティーへの依頼は高額だ。その分、ギルドの収益も大きい。
だからこそ、〝マッドドッグ〟のランク審査を保留としていたのだ。どうするか、ギルドの内部で日夜会議に励んでいたのだろう。
その状況にも関わらず、彼は今ここで謝った。職務のために、腹を括ったのだ。
遅い、と胸のどこかが呟く。もしもっと早く彼が動いてくれていたら、リナもプチも死ななくて済んだかもしれないのに。
しかし、これを見過ごせないのはもう片方の当事者だ。ガリウスの額に、血管がぴきぴきと浮かび上がっていた。
「お、おいロウ……てめぇ、何嘘ぶっこいてやがんだ? てめぇみてぇな無能野郎がエリクサー欲しがってるっていうから、温情で俺たちはお前らをSランクパーティーに入れてやってたんだろ? それを何いきなり大嘘ぶっこいて裏切りかましてんだぁコラァ!?」
「そ、そうです、違うんです! 私たちは、ただ彼を一流の冒険者として教育しようとしていただけで……虐待とか、そんなのでっち上げですよ!」
シーラが必死にガリウスを宥めつつ、査定官へ根も葉もない言い訳で訴えた。
査定官は冷えた目でそれを受け止め、声を研いだ。
「仲間殺しはギルド規定に於いても重罪ですよ、シーラさん。それも教育の一環だった、と?」
「そ、それは……ッ」
声が尻すぼみに落ちる。
周囲から、息を呑む音がいくつも重なった。
「やっぱりマジだったんじゃねえか」
「本当に、見殺しにしてやがったんだ」
「ひでぇ……仲間を魔物の餌にして逃げようってのか? Sランクパーティー様が」
ざわざわと声が上がり、ガリウスたちを蔑むような目線で見つめた。
「く、くっそおおおお! 黙れ、黙れェ!」
ガリウスが近くのテーブルを蹴飛ばした。
椅子が倒れ、皿が跳ね、葡萄酒が床に散る。
「クソ雑魚テイマーのくせに、俺たちの報酬を分け与えてやってたってのに……この、恩知らずがァ! もうどうなっても知るかァ! 死ねやクソがァッ!」
ガリウスの手がロウの胸倉をがしっと掴み、次の瞬間、拳が振り上げられた。
──だが、その拳は振り下ろされなかった。
振り上げた手首が、空中で止まる。
鉄具でも噛んだみたいに、ぴたりと。ガリウスの肩がわずかに痙攣した。後ろから、別の手がその手首を握っていた。
「やれやれ。やっと手ぇ出しやがったか、このアンポンタン。トイレ休憩を挟もうかと思ったぜ」
彼の背後から、低く笑う声が響く。ルヴィアだ。
その瞬間になって初めて、ガリウスたちも彼女の存在に気づいたらしい。視線が、一斉にルヴィアへと向かっていた。
ロウは口角を上げた。
「悪いな。三文叙事詩はどうだった? 楽しめたか?」
「はあ? 三文叙事詩にもなりゃしねえよ、こんなクソ話。教会で坊主の説法聞かされる方がナンボかマシだ」
ルヴィアはもう片方の手で、フードの縁をつまむと、ローブをばさりと脱ぎ捨てた。
布が空気を切り、床へ落ちる音がやけに大きく響く。
その一瞬、酒場の時が止まった。
尖った耳の上に、左右対称に黄金色の角。背に折りたたまれていた小さな翼がわずかに伸びる。竜の尻尾がゆらりと弧を描き、床にずしりと落ちた。
彼女の輪郭が、隠しようもない異形の美しさでその場の空気を掴む。あちこちから喉を鳴らす音が重なり合い、椅子の軋みが、低い呻き声に変わった。
誰かが「竜人だ」と呟き、別の誰かが聖句を切る。また別の誰かが椅子に足を引っかけて尻もちをついていた。
握られたままのガリウスの手首が、ミシ、と低く悲鳴を上げた。ギルドのざわめきが、嵐の前の静けさのように沈んでいく。
ルヴィアは八重歯を見せ、愉悦に満ちた笑みを浮かべてみせた。
「さて、ロクデナシなぼっちゃんよ。うちのボスに用があるってんなら、まずはあたしが話を聞くが──どうする?」
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