恋の小石を蹴った夜
泉田聖
恋の小石を蹴った夜〈上〉
まだ下駄箱を壁の仲間だと思っているような、無垢で純粋な子供だった頃のことだ。
小石を蹴りながら家に帰る遊び——『小石ゲーム』に熱中していた。
『白線から落ちたらサメに食べられる』——サメゲーム。『縁石から落ちたらマグマに落ちる』——マグマゲーム。似たような遊びはいくつもあったし、自称「遊び発明家」だった僕は日々、そんな遊びの数々の開発に勤しんだ。
いくつも遊びを生み出して、いくつも失敗作を生み出した。
それら全てを遊び尽くしたうえでなお、僕は『小石ゲーム』に熱中していた。
きみと僕の二人だけが知っているその遊びが、僕は何よりも好きだった。
― ― ―
どうやら僕は、酒というのにめっぽう弱いらしい。
中学の同窓会の二次会を途中退席した僕は、こみ上げてくる吐き気を押し殺しながら、路上にしゃがみ込んでいた。
スマホで確認すると、既に日付が変わってしまっている。一月五日。奇しくも二〇歳という節目の誕生日を、僕は路上で迎えてしまっていた。はーぴばーすでぃ……朧気な意識の中で口ずさんでいると、体の内側が震える感覚があった。
食道を、何かが猛烈な勢いで駆け上がる。
二〇歳を迎えた数秒後。
僕は、公園の植込みに向かって、胃の中身をぶちまけた。
吐しゃ物がほのかに酒臭い。頭が絶え間なく軋んで痛い。息つく間もなくこみ上げてくる胃液を、逆に飲み込んで耐えた。やがてしゃがんでいるのも辛くなって、冷たくなったアスファルトの上に、ずっしりと腰を下して楽な姿勢を探した。
アルコールのまわった頭で考える。「何故こうなった」と。記憶を辿ろうにも、所々記憶は溶けたように曖昧だった。
成人式の後に開かれた二次会で、生まれて初めて酒を飲んだ。参加者のほとんどが酒を飲むから、僕も試しにおすすめされたビールを頼んだ。乾杯の音頭があって、ジョッキを煽った。たった一口だけ。
それからの記憶が完全に欠落している。どんな経緯で店を出て、こんな路上で嘔吐する羽目になったのかを、僕はまるで思い出せなかった。
辺りを見回す。
居酒屋があった繫華街から僕は随分長い距離を移動してきたようで、見覚えのある住宅街の夜の景色がそこにはあった。見覚えのある公園の、すぐ向かいにあるコンビニ。コンビニになる前に建っていた商店に、足繫く通っていた小学生時代が不意に懐かしくなった。毎週水曜日になると少年誌を買いに来ていた少年は、今や路上で嘔吐するみっともない二〇歳になってしまった。
嘔吐した直後だ。コンビニに寄って水を買おう。思って、立ち上がる。足元はおぼつかないが、全く歩けないわけではない。
夜も更けて空いたコンビニを見やる。するとそこには、見覚えのある人影が佇んでいた。
日付が変わったような深夜に、買い物かごをぶら下げてレジに並ぶ女性。肩までの甘栗色の髪と、切れ長の目元が印象的だ。白いダウンジャケットと、近頃流行のオーバーサイズのデニムパンツ。マフラーで口元を覆いながら、女性はレジ前のスイーツ棚を見つめている。店員に呼ばれ、レジに預けたかごからは大量の水が並べられていた。
ややあって女性は、こちらの気配を悟ったのだろう。財布を用意していた手が止まり、コンビニの扉の前で立ち尽くしている僕を見やる。
瞬間。女性の目が点になって、その表情が固まった。
愕然としている女性を他所に、店員は商品を袋に入れて会計を促す。女性は慌てた様子で会計を終えると、こちらに小走りにやって来た。
「ちょっとまた吐いたの⁉ ここお店の前なんだけど……‼ もぅ、しっかりしてよ! 吐かないって言ってたじゃん……‼ 服も汚れてるし……ほら、とりあえず水飲んで」
「えっと……ありがとう、ございます」
差し出された水を受け取って飲んでいると、女性は僕の隣を過って公園に向かった。「着いて来て。少し休んでから帰ろう」その声には聞き覚えがあった。
大人しく後を着いていく。住宅街の中にある児童公園。もう何年も通り過ぎるだけだったそこに足を踏み入れて、気づく。こんなにも小さい公園だったのか。
「何してるの。立ってないで座ってよ。落ち着くまで一緒にいるから」
「……え、ぁ……。はい」
言われるまま、ベンチに腰かけた女性の隣に座ってみる。やはりベンチにも、あの頃ほどの大きさを感じることはできなかった。
「ねぇ、さっきからなんで敬語?」
女性が小首を傾げる。その仕草にも覚えがある。
彼女の言い分から察するに、僕たちは長い知り合いなのだろう。けれど思い出すことが出来ない。何故僕は彼女にそんな錯覚を覚えてしまうのか。胸に問いかけても、返答はない。思考を巡らせる度、気分が悪くなるだけだった。
「あの。水をもらっておいて失礼かもしれないですけど、僕たち初対面……ですよね」
口にしたのは紛れもない本音だった。彼女の仕草や声に覚えはあるが、僕はそれが誰のものなのかを判別できない。記憶違いのまま知り合いを装う度胸もない僕には、正直に事実を打ち明けることしかできなかった。
数拍。僕たちの間には沈黙が降りる。もう帰ろう。水の代金を返すためにポケットの財布を手に取る。すると女性が、口を開いた。
「中学の頃、同じクラスだった七瀬だよ。もう五年ぶりだもんね。久しぶりだね、村山くん」
七瀬。その名前には覚えがある——それどころか、忘れるはずのない名前だった。
僕のはじめての恋人だった人がそこにいた。
再会した彼女は、長旅から帰ってきた旅人のような達観を、その横顔に纏っていた。
― ― ―
「七瀬さんは、あれからどうしてた?」
「あれからって?」
「ほら。あれだよ。僕が、その……」
中学三年。卒業式も終えた春先。僕は遊びに行った彼女の部屋で、彼女をベッドに押し倒した。行為には及ばなかった。押し倒された彼女が、泣いていたから。
彼女を深く傷つけた気がして、僕はその罪悪感から彼女に別れを告げた。このままではまた傷つけるかもしれない。誰も傷つけないように使っていた手で、初めて他人を傷つけた。その事実が僕にはあまりにも重たかった。
思えばあの時僕は、責任だとか罪悪感だとか。ひいては彼女から、ただ逃げていただけなのかもしれない。
「……ああ。うん。大ちゃんと別れてからだよね。わかってる。高校三年間ずっと付き合ってた人は居るよ。でも、大学に上がった途端に浮気してさ。ひどくない? 四股で、しかも相手を妊娠させるなんて。やっぱり私、男運ないのかな」
「そうか。幸せそうでよかった」
「いまの話ちゃんと聞いてた?」
「聞いてたよ。七瀬さんがあの事を引きずってないなら、それでいい」
僕の返答に彼女は微笑む。付き合っていた頃は、よく肩を並べて駄弁りながら帰っていた。お互いゲームと読書が好きで、帰り道に立ち寄るのは、ゲームセンターか書店だった。
「大ちゃんは? いまどうしてるの」
「僕はもう働いてる。大学に行ってまで何かを勉強したいとは思えなかったから」
「そっか。じゃあ社会人先輩だね。私が面接練習するときは付き合ってよ」
「高校生相手と大学生相手じゃ面接の内容は違うだろ」
他愛もない会話がしばらく続いて、そのほとんどがお互いの近況報告だった。
今日の同窓会に彼女も参加していたようで、僕が彼女を見かけたとき彼女が七瀬結衣その人であることに気づけなかったのは、席が離れて顔をみることが少なかったから。そして顔を見たとしても、気づくことが出来ないほど彼女の雰囲気が変わっていたから。大学入試を機に彼女はゲームを辞めたようで、遊びそのものへの興味も近頃は失せてしまっているらしい。遊び人だった彼氏とはそれで反りが合わなくなり、結果浮気されて破局した。同年代が酒を飲み歩いて周る夜を、彼女は部屋で本を読んで過ごすのだと言っていた。
「あ、そういえば大ちゃんが通ってた小学校、少し前に合併して閉鎖されたんだよね。見に行こうよ」
「いまから? 二時だぞ」
つい話し込んでしまっていた。
公園の時計は子供の頃には見なかった時間を指していて、夜の公園の静寂は微かに不気味だった。コンビニに立ち寄る人影もほとんどない。店内では大学生程度に見える青年二人がレジで駄弁っていた。
「二時だからだよ。誰もいないでしょ。大ちゃんが通ってた小学校、私、入ってみたいな」
「わかった。なら、行こう」
頷いて立ち上がる。酔いは随分と冷めていた。
変わってしまったように見える彼女も、けれど存外当時と変わらない部分は確かにあった。中学三年の夏休みには、こんな風に突拍子もなく毎日遠くへ連れ出されていた。その度渋る僕の手を彼女が引いて、仕方がないので僕もそれにいつも答えていた。
今日。僕が、彼女に手を引かれることはなかった。
― ― ―
僕の道案内で辿り着いた小学校には『六〇年間ありがとう』と書かれた横弾幕が掲げられていた。閉校から三年ほど経った小学校は、校門から遠目に見ても遊具の撤去が進んでいた。城のようなジャングルジムも、最後まで一番高くに届かなかった鉄棒も、ブランコも。記憶はそこにあるのに、どこか遠くに持ち出された気がした。
校門から敷地を眺めていると、彼女が校門の鉄柵に歩み寄る。
「よし、入ろう。大ちゃん、これ持ってて」
「え、あ、うん」
投げられたレジ袋を受け取ると、程なくして彼女は校門を乗り越えて中に侵入した。不法侵入。これは立派な軽犯罪だ。当然、それを見ていた僕は現状幇助罪に当たる。
「ほら、大ちゃんも。袋は私が持っておくからさ」
「ああ、いま行く」
応えて僕も校門を乗り越える。八年ぶりに小学校に足を踏み入れた。これで僕たちは、立派な共犯者だ。
「さ、案内して。大ちゃんの思い出、教えてよ」
彼女が先を行く。僕はその後を追っていく。中学のころによくあったことで、よく目にした彼女の背中。思春期を迎えた僕たちはあの頃には明白に男女の対格差があって、彼女の背中は僕よりも小さいはずだった。それなのに、今なお彼女の背中を大きく感じてしまうのは何故だろう。
「大ちゃん? 早く行こうよ」
「え、ああ。ごめん。案内だよな」
それから彼女を連れて小学校を案内した。流石に中は施錠されていて入れなかったが、校舎や体育館の周りを歩くことだけはできた。
「二階に図書館があって、よくそこで本を読んでたんだ」
タイヤが半分土に埋まった遊具に、僕たちは並んで腰かけていた。
校舎の北側のある一室を指さしながら、彼女に僕の少年時代を語る。朝、登校して一番最初に向かっていたその場所にあった本は、閉校と同時に市の図書館に寄贈されたのだと母から聞いていた。人よりも本に囲まれている方が、僕は好きだった。お気に入りの一冊というのは確かにあったのだろうが、それが何なのかは思い出せない。雨の日になると、本が苦手な幼馴染と『ミッケ!』で遊んでいたのを不意に思い出した。
「ねぇ、大ちゃんは雨の日と晴れの日。どっちが好きだった?」
「なんだよ。急に」
「いいから教えてよ。じゃなきゃこれ、あげないよ」
そう言って彼女が僕に見せてくるのは、缶ビールだ。今日はもう浴びる程酒を飲んだ後で、今もまだ気分は晴れていない。首を横に振って断った。
代わりに彼女が持っていたチョコレートをひとつもらう。彼女はお菓子の趣味も変わったようで、昔はグミやガムが好きだったはずだ。
五年というのはやはり、人を変えてしまうには十分すぎる時間だった。
「そうだな。雨の日が好きだった。雨の日は、普段外で昼休みを過ごす子とも遊べたからな」
「へぇ。それってもしかして初恋の話だったりする?」
「どうしてそう思うんだよ」
「だって言ってたでしょ。大ちゃん、小学校までは幼馴染に恋してたって。小学校の途中でその子が転校しちゃってから、ようやく気持ちに気づいたって」
「ああ。確かに、そうだな。よく覚えてるな。その話」
「それはだって。自分の初恋の相手の、初恋だよ。覚えてるよ。その子、そんなに大ちゃんに思われて羨ましいなって思ったからね」
ビールを飲んで、彼女は口が軽くなっていた。付き合っていた頃は嫉妬心なんて微塵も見せないような人間だったのに。酒というものの恐ろしさを改めて思い知りながら、僕は彼女を案内するべく立ち上がる。
次はどこに向かおうか。校庭から敷地を見渡していると、視界の端で彼女が立ち上がった。
「ねぇ。タイムカプセルを埋めた場所って覚えてる?」
何故その言葉が彼女の口から出てきたかは知らない。
僕が通っていた小学校には、卒業式の後六年生は『二〇歳の自分に向けて』という名目で、手紙やその当時の宝物を入れたタイムカプセルを、校内のどこかに埋める恒例行事があった。
彼女がそれをどうして知っているのだろう。中学の時に話したのだろうか。一緒にいる時間が長かったから、決して不思議なことではない。ということはきっと彼女は僕がタイムカプセルに入れた『アレ』の事を知っているに違いない。思うと、途端に恥ずかしくなって顔が熱くなった。
「僕、タイムカプセルのこと話したか?」
「うん。せっかくだし掘り起こそうよ。大丈夫。また埋めればきっとバレないから」
「でも道具が」
「それなら大丈夫。この缶、プルタブのとこ分解出来るから」
何故か自慢げに言って、彼女はビールの蓋部分を完全に分解した。ジョッキを煽るように一気に残りを飲み切って、空になった缶を僕に渡す。もう一缶、レジ袋の中から同じビールを取り出した彼女は、酒のせいか口元を緩めて笑っていた。
僕にはその笑みが、やはり僕の知る七瀬結衣のものには思えなかった。
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