初対面と言語化。

 僕は人見知りはしないほうだ。でも、「初対面」の人と出逢うとき、いろいろと考えを巡らせてしまう。まず、僕の口元のアザのことについて。それから、精神障害への配慮について。「初対面」の人にはなるべくこの二つのことについて、話の流れを遮らないように話すことにしている。自分の「構え」を取り除くこともそうだけど、何より他者の「構え」を取り除くことに重きを置いている。

 アザ持ちの人と出逢う機会はありそうで、実はあまりないと思う。少なくとも僕が大学生になるまで、そういった人たちが集う場所に飛び込むまでは、どこか自分は人とは違うと孤独を感じて暮らしていた。アザ持ちの人に慣れていないと、いろいろとコミュニケーションに制約ができる。話すとき、アザを見て話していいのか。それともアザから視線を逸らして話したほうがいいのか。アザの話題に触れていいのか。「初対面」の人はとても戸惑う。本当はもっともっと社会の側が外見の疾患や外傷に慣れていればいいのだけど、現実は厳しい。それでも今はそのような当事者が情報発信をする機会が増えてきて、少しずつ社会の理解も進みつつある(と、思いたい!)。

 もう一方の精神障害についてだけど、これがとても厄介だ。外見の疾患や外傷は一目でわかる。身体的なものだ。でも、精神障害は目に見えないから説明にいつも苦労している。「理解」はできなくとも「配慮」はできる。以前の僕は「理解」を求めすぎていた。でも結局のところ、精神障害者になってみないと「理解」はできるはずもない。だから「配慮」に力点を集中することにした。

 こんなにもアザ持ちと精神障害者であることで、説明を強いられるとは幼い頃は思いもしなかった。言葉を強いられるのはいつだって弱者だ。世の中は強者の論理、規範、慣習で成り立っている。大学に入学して、学び、言葉を獲得し、言語化する術を身につけたのは、僕にとって救いであると同時に苦しみももたらした。

 今だって言語化する作業を通して苦しみ、もがきながら、自分自身と向き合い続けている。じゃあ、書かなければいい。そう思う人もいるかもしれない。でも言葉を発しなければ、他者に伝えなければ、それは「ない」ものとされ、不可視化されてしまう。だから僕は拙い言葉を、エッセイという表現形態で書き綴っている。その場その場でテンポよく話すのは苦手だけど、それでも時間をかけながら、思考を巡らせながら、書くことはある程度できる。僕にはこれが一番性に合っている。

 小さな波から大きなうねりへ。これからも僕は書き綴る。それは今の社会へのささやかな問題提起であり、僕の生きた証を残すことでもある。まずは自分自身と向き合い、社会と今一度向き合うために。それは抵抗でも社会運動とも違う。社会に、ひいては他者に「歩み寄る」ために。だからこれからも僕は書き綴る。

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