『魔導排水処理場リオ=フェルナードの技術録』

@soppelia

第1話 沈砂池棟の朝

魔力遮断壁の向こうに巨大な構造物が静かに佇んでいた。

沈砂池棟――魔力性油脂を含む汚水の初期処理を担う処理場の最前線。


朝霧がまだ地面に残る時間帯。

技師たちは無言で作業服に袖を通し各自の持ち場へと向かっていた。

その中に、ひとりだけ異質な姿があった。


真新しい制服。ピカピカの作業靴。調整ができていないヘルメットが少し傾いている。

リオ=フェルナード。今日からこの処理場で働く新人技師だった。


「リオさん、こっちです。案内しますよ」

声をかけたのは中堅技師のカイ=ロッシュ。

無骨な作業服に身を包み、手には魔力遮断手袋。彼はリオの緊張を察してか柔らかい口調で続けた。


「まずは沈砂池棟の構造を見てもらいます。ここが処理の起点ですから」


リオは頷き、ぎこちなく歩き出した。靴は新品だがサイズはぴったり。

ただ、ヘルメットがずれて視界の端にかかる。


「ヘルメット、少し調整しましょうか」

カイが手を伸ばし後部の魔導締め具を軽く回すと、リオの頭にぴたりとフィットした。

続けて顎紐を指差す。


「ここも忘れずに。顎紐が緩いと作業中にずれて危ないです」

リオは言われた通りに紐を引き、カチッと留め具を締めた。

「……これで大丈夫ですか?」

「うん。これで視界も安定するし安全性もばっちりです」


リオは小さく「ありがとうございます」と言い、ヘルメットを両手で押さえた。

(……今日から、ここで働くんだ)

その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。


沈砂池棟は三層構造になっていた。

第一層は流入槽。魔力性油脂を含む汚水が最初に流れ込む場所で魔力懸濁粒子の初期分離が始まる。

第二層は沈砂槽。重力と魔力干渉を利用して粒子を沈降させる。

第三層は沈砂分離機。魔力波フィルターと比重制御によって微細な魔力残滓を可能な限り分離する。


「この棟は魔力性油脂の挙動を読むのが肝です。

 油脂は魔力を帯びると浮遊性が変わる。

 沈降させるには、魔力波の調整が必要なんです」


カイの説明にリオは真剣に耳を傾けた。

本で読んだ知識が目の前の装置と重なっていく。だが、どこか違う。

装置は思ったよりも大きく、そして汚れていた。

魔力遮断膜の焼け跡。

配管の継ぎ目に残る魔力痕。

現場の「使われている感」が、彼女の知識と乖離していた。


「この沈砂分離機、魔力波の調整はどうやって……」

リオが口を開くとカイは少し驚いたように目を細めた。


「お、いい質問ですね。でもそれは午後の実習で。まずは安全手順を覚えましょう」


リオは頷いた。

(知ってる。でも、知らない。触れたことがない)

その感覚が胸の奥で静かに広がっていった。


その日の午前、リオは沈砂池棟の各装置を見学し記録を取り続けた。

カイは要点だけを伝え、あとは黙って作業を続ける。

その背中は、リオにとって「現場の重み」そのものだった。


昼休憩の直前、リオはふと沈砂分離機の排出口に目を留めた。

魔力性油脂が、ゆっくりと沈降しながら淡い光を放っていた。


(……綺麗。だけど、怖い)


その感情は、まだ言葉にならなかった。


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