【Episode38】契りの夜
夜更けの屋敷。
昼間の大広間を満たしていた熱はすでに遠く、廊下には灯火の影が長く伸び、静かな冷気が漂っていた。
その中を、柊は世話役の案内を受けながら歩いていた。
普段、彼が足を運ぶのは応接室や客間など、来客に開かれた空間に限られていた。だが今、進んでいるのは屋敷の奥、当主と庇護下の信者たちが暮らす生活区だった。
本来なら外部の人間が踏み入ることは許されない場所。そこに足を運ぶのは、この夜が初めてだった。
案内の世話役は、無言のまま淡々と歩を進めている。足音だけが石畳に響き、曲がり角を抜けるたび、空気の色がわずかに変わっていくように感じられた。
やがて辿り着いた先。
瑠見の私室の前には、別の世話役の女性が控えていた。
灯火の揺れに照らされた彼女の顔は硬く、その眼差しは柊を迎えるものではなかった。
明らかに値踏みするように、冷ややかに射抜いている。
柊は足を止め、深く息を吐くこともなく淡々と頭を下げる。
「…笠原さん。ここまでの準備を、ありがとうございました。会場も衣装も、あなたの尽力がなければ成り立たなかった」
笠原は一瞬だけ瞼を伏せ、すぐに冷ややかな声で返した。
「瑠見さまのためなら、この程度は当然のことです。…礼など、必要ございません」
忠誠の色がにじむ声音。だが、その奥には揺るぎない不信感が潜んでいた。
彼女はさらに一歩踏み込み、低く言い放つ。
「……瑠見さまの決意を、あなたが曇らせることのないように。それだけは肝に銘じていただきたい」
「今日のような場ではともかく、普段からの言動が瑠見さまに影響を及ぼすことのないよう…くれぐれも」
小言は鋭く、まるで針を置くようだった。
柊はその間、眉を動かさず、ただ静かに受け止めていた。反論も弁解もせず。
やがて笠原はわずかに息を吐き、身を退いた。
「……お入りください」
夜の廊下の灯火が揺れ、扉の隙間へ淡い影を落とす。
柊は一歩進み、扉を押してその奥へと足を踏み入れた。
私室。
外の冷えを遠ざけるように、柔らかな灯火が部屋を包んでいた。
壁は落ち着いた色合いで整えられ、調度は控えめながら女性らしい繊細さを帯びている。窓辺には薄布のカーテンが垂れ、棚には花や書物が静かに並んでいた。
その中央に、瑠見は白の衣を纏ったまま座していた。春分の儀のために整えられた正装は解かれず、なおも神秘の気配を宿している。
銀の髪は結い上げられ、衣の裾は広がって床を覆い、さながら大広間からそのまま抜け出してきた幻影のようだった。
柊が部屋に入ると、瑠見は静かに微笑み、柔らかな声で迎えた。
「……お待ちしておりました」
柊は軽く会釈し、彼女の向かいに腰を下ろす。
卓上にはまだ茶器が並び、温かな香りがかすかに漂っていた。
ひとしきり、今日の所感を交わす。
瑠見は「信者の眼差しが一つに揃った気がいたしました」と言い、安堵の色を滲ませる。
柊は淡々と頷き、観衆の反応を整理して告げる。
「拒絶の核はなかった。熱は高かったが、不信ではなく期待として働いていた。…少なくとも今日の場は成功だ」
瑠見は瞼を伏せ、ゆるやかに息を吐いた。
「ええ……ようやく、肩の重さが少し外れた気がします」
それから、再び沈黙が落ちる。
灯火が揺れ、衣の白地に金の光を織り込んだ。
柊はしばし彼女を見つめ、それから低く問う。
「……本当に、今日にするの」
声音に拒絶の色はない。ただ意志を確かめる問いだった。
瑠見は視線を逸らさず、静かに微笑んだ。
「ええ。そのための覚悟は、してきました」
白い衣の裾がかすかに揺れる。
言葉は淡々としていたが、そこには少女ではなく当主としての決意が宿っていた。
柊は向かいの椅子から彼女を眺め、ふと低く言葉を落とした。
「……まるで花嫁みたいだね」
その一言に、瑠見の胸がどきりと揺れる。
柊は続けた。
「最初に会ったときは、黒いドレスだった」
瑠見は一瞬まばたきをし、静かな微笑を浮かべたまま口を開いた。
「……あのときは、父が亡くなってすぐでしたから」
柊は視線を外さず、淡々と続けた。
「一年で、ずいぶん貫禄が出たね」
瑠見は瞬きをし、小さく息をつく。
「……そう、でしょうか」
柊は短く笑い、頷いた。
「そうだよ」
そう言うと、椅子を離れ、彼女の前に歩み寄る。
膝を折り、目線を合わせる高さに腰を低くした。
「手を」
促す声音はいつも通りの平板さを保っていたが、その奥にわずかな熱が混じっていた。
瑠見は一瞬だけためらい、けれど静かに手を差し出す。
柊は懐から小さな銀のブレスレットを取り出した。
装飾はなく、滑らかな銀の輪。
彼は迷いなくそれを彼女の手首に嵌めた。
冷たい金属が肌に触れ、やがて体温で温もりを帯びる。
瑠見は息をのむ。外見は何もないが、内側に小さな刻印。
「君と未来を紡ぐ」という意味を持つ古い言葉が刻まれていた。
それは彼女にしか分からない秘密の契約だった。
「……これは」
瑠見の声はかすかに震えていた。
柊は彼女の瞳をまっすぐに見据え、淡々と告げる。
「指輪は渡せないからね」
その視線に射抜かれながら、瑠見はふと記憶を呼び起こした。
「……そういえば、初めて会った時も、あなたはこうして」
静かな声で続ける。
「あの時の返事が、まだでしたわね」
柊の青い瞳がわずかに細められる。
瑠見は微笑を崩さぬまま、まっすぐに告げた。
「――見えなくても、あなたがそこにいるなら」
谷崎潤一郎の言葉を借りて。
あの日の「月が綺麗ですね」への応答として。
灯火が揺れ、二人の影を重ね合わせた。
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