【Episode37】未来の啓示

春分の日の朝。

星ノ谷家の大広間は、まだ人影もまばらながら張り詰めた空気に包まれていた。


白と赤の花は夜明け前に運び込まれ、左右に分けて配置されている。灯火の高さは一つひとつ僅かにずらされ、淡い光が壁にゆらめきを描いていた。中央の広い通路はまだ誰も踏み入れていないのに、すでに儀式の道のような威厳を帯びている。


廊下や控えの間では、信者たちが低く声を交わしていた。

「……今日こそ、何かをお示しくださるのでは」

「近ごろ、瑠見さまのお顔には深い思索の影があった。きっと節目が近いのだろう」

期待が高ぶり、不安の色はない。だがその熱は普段より濃く、息を潜めて待つ眼差しが重なり合っていた。


柊はその様子を横目に、淡々と心中で仕分ける。


〈拒絶の核なし/期待の粒、最大値に近い〉

〈熱は高いが不信ではない/臨界点までは未達〉


まだ破綻はない。むしろ今日という節目を「物語」として受け取る準備は整っている。

彼は眉ひとつ動かさず、静かに大広間を後にした。


その頃。

瑠見の私室では、世話役たちが白い衣を丁寧に整えていた。

絹の生地は光を受けて柔らかく反射し、帯には藤色と淡い桃色の糸が織り込まれている。銀の髪は結い上げられ、余計な装飾は施されない。光に透けるだけで神秘が強調されるように。


瑠見は鏡の前で静かに佇み、世話役の手が衣を整えるたびにわずかに息を整えた。

卓上には白いヴェールが置かれている。彼女はそれを手に取り、しばし指先で布の端をなぞった。


「……入場の時までは、これを」

低く囁き、静かに頷く。


世話役たちが下がり、室内が再び静寂に包まれる。

瑠見は深く息を吸い、吐き出した。

胸の奥で重く圧し掛かるものを感じながらも、瞳は揺るがない。


今日、この瞬間が訪れる。


外では信者たちのざわめきが徐々に広がり、大広間へと流れていく足音が響き始めていた。

瑠見は最後にヴェールを静かに頭に載せ、立ち上がった。


その姿は、ただの少女ではなく“語り部”としての偶像そのものだった。


大広間はまだ朝の冷気を抱えながらも、灯火と花によって静謐な荘厳さを纏っていた。

白い花と赤い花が左右に振り分けられ、均等ではない配置がかえって調和を象徴している。中央の通路は広く空けられ、踏み入れる者を待つ均衡の道として浮かび上がっていた。


信者たちはすでに席に着き、空気は水面のように張り詰めている。誰も声を発せず、ただ目を正面へ向け、これから訪れる瞬間を息を潜めて待っていた。


控えの位置に立つ柊の青い瞳は、一人ひとりの表情を無言でなぞる。

〈拒絶の影なし/期待は過熱ぎみ/不安は沈黙の下に潜在〉

観衆は均衡を保っている。異物の兆しは見えない。

その事実を心中で確認すると、彼は再び静かに前方へ視線を戻した。


その時。


静かな足音とともに、瑠見が姿を現した。

白を基調とした衣は光沢を帯び、動くたびに淡い輝きを零す。裾や袖には金糸と銀糸の紋様が走り、光に揺らめいては均衡の図を描く。胸元や帯には淡い藤色と薄桃色が差され、春の兆しをその身に宿していた。


頭には白いヴェール。銀の髪を柔らかに透かし、その下の顔は影に覆われている。

偶像としての日常の姿。信者たちは見慣れているはずなのに、今この場に現れた彼女を前にすると、その空気は明らかに異質であった。


瑠見は壇上の中央に進み、静かに腰を下ろす。

広間に、深い沈黙が訪れた。


数分、誰も動かない。誰も言葉を発しない。

信者たちは「沈思のとき」と受け取り、呼吸を浅くしながら彼女を見守る。

灯火はかすかに揺れ、影と光が壁に紋様を描き続けていた。


柊は控えの位置から、一切表情を動かさずにその光景を見ていた。

沈黙は張り詰めた弦のように伸び、やがて臨界に近づこうとする。


瑠見が、ゆるやかに立ち上がる。

長い袖と裾が揺れ、動作そのものが儀式に見える。

壇上に置かれた花器を片方へと移した。

左右の均衡が再び整い、空気がさらに高まる。


そして。


その手が白いヴェールへと触れる。

薄布を静かに取り、光の中へと顔をさらした。


銀の髪が灯火を受けて淡く輝き、瞳の奥には揺るぎない光が宿っていた。

広間の視線が一斉に彼女に吸い寄せられる。


「――」


声はまだ出ない。

だが、次に紡がれる言葉を、誰もが息を止めて待っていた。


均衡と再生の象徴として立つその姿は、すでに神話の始まりを告げていた。


声が落ちた。


「――今日、わたしはまた一つ歳を重ねました」


広間に満ちる声は、柔らかく、それでいて澄み切っていた。

瑠見は伏し目のまま言葉を続ける。


「春分の日に生まれたことを、幼いころから特別だと感じてきました」


一拍の静寂。

彼女がゆるやかに顔を上げると、灯火が瞳に映り込む。


「昼と夜が等しくなるように、人の心にも光と影がある。

その均衡の上にこそ、新しい芽が育つのだと」


会衆の間に、深く吸い込む気配が広がる。

瑠見は視線を遠くへ投げ、声に芯を宿した。


「――このたび、私は未来を垣間見ました」


正面を見据える。

その瞳は一人ひとりの心を射抜くように、しかし柔らかく。


「それは決して遠い彼方ではなく、私たちの歩みの先に続くもの。

そこには、“未来を継ぐ者”の姿がありました」


言葉が置かれると同時に、広間はさらに静まり返った。

ざわめきかけた気配すら、沈黙に呑まれていく。


長い間。

瑠見はただ光を背に立ち尽くし、揺るがなかった。


「それがいつ、誰に、どのように現れるか――」


声が再び落とされる。

左右に視線を巡らせ、ゆるやかに間を置く。


「そのすべてを今ここで語ることはできません。

けれど、確かに見えたのです」


両手を胸元に添え、柔らかな笑みが浮かぶ。


「この血の流れの先に、未来を紡ぐ者が立ち上がると」


空気が静かに震えた。

誰も瞬きを忘れたように、ただその姿を仰ぎ見ていた。


「――わたしは、この道を一人で歩むのではありません。

皆さまと共に歩み、未来を迎える準備を重ねていきます」


背筋を伸ばし、正面に視線を固定する。

その声は柔らかさを残しながら、確かな力を持って広間を満たした。


「今日ここで、ただ一つをお伝えします」


その瞬間。

後方の扉がゆるやかに開かれた。

春分の光が流れ込み、白と赤の花々を照らし、瑠見の姿を後光のように包み込む。


沈黙。

光の只中で、凛と告げられた。


「星ノ谷の火は消えません。必ず次代へと受け継がれるのです」


言葉が落ちた瞬間、大広間は沈黙に支配されていた。

春分の光が差し込み、瑠見の白い衣と銀の髪を照らし出す。

その姿は、まるで神話の頁から抜け出した存在のように映っていた。


やがて、観衆の胸に熱が満ちる。

前列の古参は深く頷き、涙を拭う者すらいた。

若い信者たちは顔を見合わせ、小声で「本当に啓示だ」と囁き合う。

まだ言葉にできない者たちは、ただ両手を胸の前で合わせ、静かに息を呑んでいた。


柊はそのすべてを、端の席から無表情で観察していた。

耳に届く囁きを一つひとつ拾い、無言のまま心中に仕分ける。


〈拒絶の核なし〉

〈熱狂の芽、前列に集中〉

〈中列は同調、後列は沈黙で受容〉


熱の分布、表情の温度差、沈黙の長さ。

それらを淡々と記録する視線は、誰よりも冷静だった。


まだ不信の影はない。

だが「熱」が増せば、いずれ軋みが走る。

その時、矛先をどこへ導くか。

胸中で次の手を冷静に描きながら、柊はゆるりと目を細めた。


光の中に立つ瑠見の姿は、偶像そのものだった。

そして、その隣で控える青年は、あえてその神聖を濁すように。


柊は口元に軽く笑みを浮かべた。

できるかぎり軽薄に見えるように。

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