【Episode25】それぞれの決断
夜の応接室は静かだった。灯火に照らされた机の上、二人分の茶器が淡く光を返している。
外では風が枝を揺らし、かすかな葉擦れの音が窓越しに忍び込んでくる。
瑠見はカップを指先で支えながら、少し躊躇うように言葉を落とした。
「……本当に、柊さんが矢面に立つ必要があるのでしょうか。もっと平和的に解決する方法は…」
柊は短く息を吐き、視線を窓の外へ向けた。
「無理だろうね。少なくとも今の状況では」
「どうして、そう断言できるのです」
「俺、もう半年もここに通ってるんだよ。それなのに、いまだに信者たちの目は“珍獣”を見るそれだ。俺がどんな茶を飲んだとか、机に置いた本の題名まで噂になる」
瑠見はかすかに唇を噛み、視線を伏せた。
「……だからこそ、わたしも応接室や客間以外にはお呼びしないようにしているのです。あなたが屋敷の生活の奥へ入り込めば、そのたびに言葉の尾ひれがついてしまう。わたしにとっても、あなたにとっても、余計な火種になるから」
柊はわずかに肩をすくめた。
「それでも、受け入れられる余地なんて、まだどこにもない」
瑠見はかすかに眉を寄せ、なおも問う。
「……時間をかけていけば、どうにかならないでしょうか」
「いつかは、どうにかなるかもしれない」
柊は静かに返した。
「でも、それがいつかは分からない。この瓦解しかけた家を立て直しながら、信者の心をほぐす余裕なんて、今はないだろう」
沈黙ののち、瑠見は微かに笑みを形作り、吐息を混ぜるように言った。
「……わたしが、もう少し器用にやれていれば」
柊はその横顔を一瞥し、短く言った。
「君はよくやってる」
短い言葉。けれど、その響きは真っ直ぐに胸へと届く。
瑠見は一瞬だけ目を瞬かせ、それから静かに瞼を伏せた。
しばし考えるように間を置き、やがてぽつりと呟く。
「……生まれてくる子どもたちの重荷を、わたしの代で少しでも減らしてやらなければなりませんね」
柊は軽く肩を竦めた。
「頑張ってね」
瑠見はふっと苦笑した。
「他人事のように」
「それは君の仕事だからね」
言葉は冷ややかに聞こえるのに、不思議と拒絶ではなかった。
応接室には再び静寂が落ち、灯火の揺らぎだけが二人を照らしていた。
***
その夜も、二人が顔を合わせる約束はあった。
だが、瑠見には急用が入り、柊は応接室で一人その帰りを待つことになった。
静かな部屋に、時計の針の音だけが淡く響く。
退屈を持て余した柊は、背から鞄を下ろし、机の端に置いた。
金具の留めを外すと、中から分厚いノートやコピーの束を取り出す。
ぱらぱらと紙をめくる乾いた音が、静寂を切り取った。
ノートには古代叙事詩の一節や儀礼の記録がびっしりと書き込まれている。
柊は片肘をつきながら、淡々と筆を走らせた。
やがて、用事を終えた瑠見が部屋に入ってきた。
彼女は卓上のノートに目を止め、茶器を手にしたまま問う。
「……それは、学校のことですか」
「うん。ゼミの選考が近いから」
柊は答えながら、ノートの余白にさらさらと書き込みを加える。
「……以前は、まだ決めていないとおっしゃっていましたのに」
瑠見の声には、わずかな驚きが混じっていた。
柊はペンを止め、軽く肩をすくめる。
「まあ、決めるつもりになった。人類学系の研究室。学べる環境があるなら、ありがたいと思って」
言葉はあくまで淡白だが、選んだ方向性ははっきりしていた。
瑠見は静かにカップを置き、彼を見つめる。
「真剣に準備しているのですね」
「興味があるからね」
柊はさらりと言い、開いたノートを閉じて指先で軽く叩く。
「ただの学生の勉強だよ。授業に出て、本を読んで、書き写して、その繰り返し」
「けれど、それをありがたいとおっしゃるところが、あなたらしいですわ」
瑠見は柔らかな笑みを浮かべる。
少しの沈黙を置いて、彼女は問いを重ねた。
「では……その研究室で、どんな研究をなさるのです?」
柊は視線を外に投げ、わずかに口角を上げる。
「……ないしょ」
瑠見はカップを口に運び、静かに微笑んだ。
机の上ではノートの端が揺れ、灯火が淡くその影を映していた。
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