鶴人の恩返し
May
第1話 花催い
【プロローグ】
『いいかい、八千(ヤチ)。お前が大人になったら、壷玖螺(ツボクラ)家へお嫁に行くんだ』
『どうして?やちはずっと、ここで暮らしたい』
『私たち鶴人の妖が人間の姿でいられるのは、あの方たちのおかげなんだ』
『契りを果たせば、きっと壷玖螺の当主がお前を幸せにしてくれる――それは運命だから』
『うんめい・・・?』
【第一話】花催い(はなもよい)
「この橋を渡ると町に出ます。お屋敷もうすぐですぜぃ。八千様」
生まれ育った山を下りると、壷玖螺の下働きの者が二人迎えに来た。まだ雪が残る山々を三日三晩かけて、ようやく町まで辿り着いた。
「この辺りは昔から妖が多く出るから、少し遠回りしちまったが・・・なに、無事に来れて良かった!」
「ヘヘ予定より早いくらいだ」
川辺に沿って植えられている桜の木には、まだ固そうな蕾が見える。春になり花を咲かせるのをじっと待っているようだった。
橋を渡ると、ふっとなにかに呼ばれたような気がした。桜の木の向こう側ある、大きなクスノキに目が留まった。
あのクスノキは・・・。
「あの、すみません。少しだけ、あの木を見て来てもいいですか?」
「はぁ・・・?木ですかい?」
「すぐ済みますので、待っていてください」
下からクスノキを見上げた。葉が落ちた状態でも、その太い幹と左右に広がっている枝は堂々と空を支えている。その威容とした姿は、このクスノキの歳月を感じさせている。
麓にしゃがみ込み、山から持って来た雪解けの水を、手に取りそっとかけた。濡れた手に息を掛けると、細かな雪に変わりハラハラと消えていく。目を閉じて手を合わせた。
今日、私は壷玖螺家に嫁ぎに来た。お母様と現当主の吉右衛門(キチエモン)様が、交わした『契り』を叶えるために。若旦那様は優しい方だから、きっと大丈夫・・・。でも、どうかお願いします。私を見守ってください。
――そして、もし叶うのなら・・・もう一度だけあの人に会いたい。会って聞いてみたいことがあるの。あの日のことを、そんなこと無理に決まってるけど。
私は強く手を合わせた。春ような温かな風が吹き、ザワザワと葉を鳴らすような音が耳の奥に聞こえてきた。見上げると、葉は一枚もついていない。まるで、歓迎してくれているようだった。
「あっ紫哭(シコク)様じゃねーですか!」
「お久しぶりでございます!」
「なんだお前ら、こんなところまで使いか?」
「はい若旦那様の奥方様をお迎えに行ってました」
「蒼蜀(ソウショク)の?・・・あぁ、そんな話していたな。今日だったのか」
「お会いしたことはありますか?八千様と」
背後から弾んだ声が聞こえ、立ち上がった。すると突然、山の方からビュッと音を立てながら、北風が吹きつけてきた。身体を持って行かれるほどの強さに、反射的に目を閉じた。
すごい風・・・。
風が治まり、乱れた髪を耳にかけながら、視線を前に向けた。
――そこには、真っ黒の着物に、赤い総の耳飾りをぶら下げた、見知らぬ男性の姿。射抜かれるような瞳に、息を呑んだ。その瞳の奥が微かに揺れたように見えた。
「八千様、もうお済ですか」
「は、はい。お待たせて、すみません」
「いえいえ。早く屋敷に向かいましょう!若旦那様もお待ちかねだ」
「では紫哭様、また店の方にお手伝いに行きますので」
下働きの男たちは、男性に深々と頭を下げて、再び屋敷に向かい歩き出した。
「あの・・・先ほどの方は?」
「紫哭様です。若旦那様の従兄に当たる方です」
「しこく、さま・・・?」
なぜだろう。初めて会うはずなのに・・・。胸のざわつきが治まり切らず、気がついたら尋ねていた。まるで、先ほどの突風と同じ。周りを薙ぎ払うように、心に飛び込んできたようだった。
小さく振り返ると、クスノキの太い幹に手を添えていた。もう片方の手は、煙管を吹かしている。その横顔に赤い総の耳飾りが鮮烈に残った。ゆらゆらと昇っていく紫煙が、まだ寒さが残る空に消えていく――。
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