花天月地【第82話 銀麗の夜】

七海ポルカ

第1話




 陸議りくぎは雨戸を少し開いて、外を見た。


 また雪が降り始めている。

 外はもう暗闇だったが、白く舞う雪ははっきりと見えた。



「……伯言はくげんさま?」



 陸議は振り返った。


 同じ部屋で寝ている司馬孚しばふがこちらを見ている。

 陸議は雨戸を閉じると、司馬孚が寝台代わりにして寝ている木箱の側に腰を下ろした。

 この数日で、陸議は起き上がれるようになった。

 しばらくは腕の深い傷が元で発熱や貧血があり、それを繰り返していた為、起きれなかったのだがこの数日気分や体調が良く、左腕を動かさないようにしつつ身を起こしてみたのだ。


 人間の体とは不自由になっても、段々とその不自由に慣れるもので、陸議は最初微かに左腕に力が入るだけでも激痛が走るため苦しんでいたが、段々と、完全に左腕に力を入れずに過ごせるようになって来た。

 左腕は包帯にまだ血は滲む。

 目を覆いたくなるほどの傷はごく薄い膜のような皮膚が生まれて来てはいるが、些細な力でもすぐに裂け、痛みや血が出る。

 司馬孚は軍医が包帯を替える時、必ず同席したが激しい傷は心が痛みすぎて直視出来ないらしい。


 いつも目を閉じ、辛そうに俯いている。

 これまで戦場になど立ったことのない青年なのだ。

 無理もない。


 季節の折々の美しい詩を考えて歌っていた姿を思い出して、陸議はこの涼州遠征が元で、司馬孚の中から純朴な感性が失われてはいけないと思い、最近彼が抱えている「宿題」を共に考えたりしてやっている。

 私塾の友たちと語り合う為の詩や論文を考えているうちに、司馬孚しばふの表情には笑顔が戻ってくるのだ。


 二の腕の先から感覚がない。

 何も感じないというより手首の付近までいつも鈍く痛みがあり、感覚が動かすことを警戒しているのが分かる。

 少しでも動かすと激痛が走るのがもう分かるから、体が動かない。


(でも痛みを感じるということは、そこに感覚が生きているからなのではないだろうか)


 そんな微かな希望は持っている。

 いつかそのうち朝、目が覚めると体がどこも痛くなくて、この左手が動かせるようになるといいとは思う。

 

 まず動くこと。


 剣をまた握れるようになるかはもっと可能性が低いと軍医にも言われている。


 絶望はなかったが、

 祈ることはやめられない。


 廬江ろこうの城から逃げる時【雪花剣せっかけん】を陸康りくこうに託された。

 陸績りくせきをどうか本当の弟のように思って、守ってやってくれと託された時から陸議りくぎは双剣を磨いて来た。

 この世には天賦の才を持つ者がいるのでそれに比べれば凡庸でも、陸議は自分の剣が好きだった。

 

 ずっと共に、戦って来た剣技だ。


「起こしてしまいましたか? すみません」


 いえ。

 司馬孚しばふは優しく笑って、燭台を覆っていた銅の箱を外した。

 ほんのりと、光が一つ部屋に満ちる。


「……徐庶殿はまだ戻って来ませんか?」


 徐庶じょしょが、消えたのだ。


 同じ部屋で寝泊まりしているので、寝るまでは一緒にいたのだが、昨日の夜中ふと陸議が目を覚ますと、雨戸が少し開いていて徐庶の姿が無かった。


 どうしたのだろうかと司馬孚とは話したが大事にはしなかった。


 司馬懿しばいや、賈詡かくが徐庶はいるかと呼びに来たり、他の者が探しに来たら、本当のことを言うしかないと司馬孚とは話したのだが、あえてこちらから徐庶が消えたのだがどうしたのだろうと聞きに行くのはやめようと決めた。


「きっとすぐ戻って来ますよ」


 司馬孚はそう言ってくれた。


 幸い徐庶は今、謹慎中らしくこの部屋で呼ばれるまで待機していろと命じられているらしいので一日、誰も呼びに来なかった。

 しかし二日目ともなると、別の意味で心配になって来る。

 命令違反ではなく、

 外に出た徐庶に何かあったのではないかという心配だ。

 

「はい……」

 どうしたのだろう。


「そういえば郭嘉かくか殿に呼ばれて戻って来てから、元気がなかったようには思いましたが」


 だが完全に今にして思うとだ。

 彼も寝床にしている場所でぼんやりと何かを考えているようだったが、徐庶は元々物思いに耽っていることは多いので、その時はあまり深く考えなかった。


「……【烏桓六道うがんりくどう】などの危険な者は、とりあえずいないとは思うのですが、賊などがいないわけではないですから」


「私などに言われたくはないと思いますが、徐庶殿もどちらかというと学んだり書物が好きなご様子。複数の賊に囲まれたりしては、切り抜けられないでしょうし……」

 

 陸議が視線を落とすと「あっ」と司馬孚は慌てて身を起こした。


「大丈夫です。伯言はくげんさま。こんな季節に山中に賊など潜んでいませんよ。

 潜んでいたら獲物を待ってる間に彼らが凍えてしまうでしょう。

 危険な動物なども冬眠しています。

 大丈夫です。

 きっと徐庶殿は大らかな方なので、雪が綺麗だなあなんて山の近くまで眺めながら行ってしまったんでしょう。それで、雪が深くて動けなくなってるのかも」


「はい……そうですね」


 陸議を安心させるように司馬孚は言ったが、それが分かって陸議は一瞬笑んだものの、すぐに右手で司馬孚しばふの寝台に頬杖を突いた。


「……でもそれなら尚更……誰かに助けに行って貰った方がいいのかな……」


「う……。……た、確かに……遭難ってことはないですよね?」

「徐庶さんは、山を歩かれた印象はかなり慣れていらっしゃいました。私などより山歩きなどはずっと手慣れたご様子でしたから」

「そうですね。大陸を一人で旅をしていらっしゃったと言っていましたし、平気ですよ!」


「はい」


 もう一度、頷く。

 しかし陸議は心配そうだ。

 目も冴えてしまったらしい。

 司馬孚は寝台から下りると火鉢を近くへ持って来て、陸議の傷に触らないように気をつけて、自分の上着を彼の背にそっと掛けてやった。

 そして自分も毛布に包まって、陸議の側に腰掛ける。


「ありがとうございます」


 陸議りくぎが少し表情を明るくしてそう言った。

 司馬孚しばふも笑って首を振る。


「いいえ。こうして夜中に不意に起き出して、話をするのは私は好きなんです」

「そうなのですか」


「司馬家ではそんなことをする兄弟はいませんでしたが、私塾に泊まり込むと、友人達とそうするようになって。楽しかった。夜中に話をしていると、特別な時間を過ごしている気がします」


「はは……特別な時間ですか」


 確かに呉にいた時、仕事を終えてようやく眠りに付いた頃を、やけに見計らって訪ねてくる人がいた気がする。


 大した話などしていなくても、

 多分あまり酒を嗜まない陸議の相手など、酒を楽しむ相手としては物足りなかったはずなのに……それでも会いに来てくれたんだんだなあと思うと、

 大した話などしていなくても、

 特別な時間を過ごしてる気がした。


 龐士元ほうしげんの許を、

 本当に時々だが訪ねて行った。


 彼は一体いつ眠っているのかと思うくらい、どんな夜に行っても微かに明かりがついていて、窓辺で空を見上げていた。

 何もしていないなら付き合ってくれと何度か会いに行った。


 大したことを何も話すことが出来なかった。


 ……それでも少しは、

 悪い時間ではなかったと、思ってくれていたのだろうか?


剄門山けいもんさん】の戦いの最後、

 お前を待っていたと龐統ほうとうが初めて言ってくれた。


 大したことが何も無くても、

 ただ共に過ごすということは、思っているよりもずっと特別なことなのかもしれない。


 徐庶じょしょが姿を消すなど、初めての事だった。


 単独行動はよくする人だったが、全て許可を取ってのことだ。

 徐庶は魏軍において私情で、勝手に一人で動き回ったことはない。

 黄巌こうがんと共に涼州の村々に呼びかけたいと言った時も、陸議は徐庶がそう言った瞬間、司馬懿しばい賈詡かくの微妙な反応があったのを感じ取った。

 改めて追う形にすれば角は立たなかったかもしれないのに、徐庶が一人で行こうとした黄巌を見かねて言ってしまったのだ。


 確かに自分もああいうことをした覚えがある。

 そういう時に、周瑜しゅうゆが何ともいえない顔や空気を出すことがあった。


 

(それがお前の未熟さだ)



 そう言われていることを、いつしか感じ取った。

 だから陸議は慎重になったのだ。

 感情が走り出してもそういう時こそ敢えて自覚して立ち止まって、待つことを覚えろと。


 だが初めて何も言わず徐庶が姿を消すとこんなに心配になるのだから、

 あの人は多分周囲にこういう心配や誤解を生みたくなくて、律儀に口に出して許可を貰って行動していたのだなと思う。


 その徐庶が何も言わずに出て行ったのは気がかりだ。


 逃げる、とかではない。


(あのひとは逃げる人じゃない)


 逃げることを恐れない人もいる。

 だが徐庶は違う。

 そもそも躊躇いなく逃げ出せる人間なら、劉備りゅうびの許を離れて魏に来ていない。


 彼が剣を振るったところを見たことが無い。

 多分徐庶は慎重な人間なので、あまり剣は得意では無いのだと思う。

 得意でないものを敢えて披露して、いい結果になることはない。


 だから賊や猛獣は心配だが、迷ったり遭難するような人では無いと思う。

 涼州の地理には明るかったし山歩きも慣れていた。


 その徐庶が戻らない意味を考える。


 彼のことを、あまりよく知らない。

 だからあれこれ考えることは少ない。

 でも分かって来たこともある。


(あの人は自分の為に、驚くほど動かないんだ)


 他人が理由で動く。

 軍というのは規律に満ち、任をそれぞれに全うしなければならないから、

 まず自分のことをしなければならない。

 陸議はずっと軍の中で生きて来た。


 だから徐庶の行動に時折ぎょっとすることがある。

 陸議からすると、そんな理由で動くと思わないことで動くからだ。


(あの人は他人の為に動く人だ)


 徐庶が姿を消した数時間前、郭嘉が徐庶を呼んでいると人が呼びに来た。

 三十分ほどだったと思う。

 謹慎を受けていたので、司馬懿や賈詡からの呼び出しだと心配だったのだが、郭嘉から何故徐庶が呼ばれたのかは分からず、戻って来た徐庶にどんな話だったか聞いたのだ。


 心配されていたのが分かったのか、徐庶は笑って教えてくれた。


「大丈夫。処罰とかの話じゃなかった。

 郭嘉殿も今、重傷で動けないから、かなり退屈しているらしい。

水鏡荘すいきょうそう】のことを聞かれたよ。どんな人達がいたのか、気になったって」


 それを聞いた司馬孚しばふが私も気になりますと聞きたがり、徐庶は少し話してくれた。

 郭嘉は【臥龍がりゅう】と【鳳雛ほうすう】がどんな人かも尋ねて来たらしい。

 徐庶は水鏡荘で寝泊まりはしていたのだが、この二人とはあまり親しくなかったらしく「多分、彼が聞きたかったことを少しも話せず、落胆させてしまったと思う」と言っていた。


 密かに徐庶が諸葛孔明しょかつこうめい龐士元ほうしげんと交流があったら、その話を聞きたかったなと思っていた陸議は少しだけ残念だった。

 

 しかし名門の司馬徽しばき門下生の中でも、特に秀でた二人だったのだから、

 当時役人に追われて人付き合いを遠慮していたという徐庶からすると、さすがに話しかけにくかったのかもしれないと思った。


 徐庶はそれからいつも通り書を読んでいた。

 陸議の傷が深いので、軍医が昼間はよく作業をしていくのだが、医学書を置いたままにして行ってるので、それを彼はよく読んでいる。


「君が毒にやられた時、俺が出来たのは薬草に詳しい友人を探しに行くことだけだった。

 本当に情けないよ」


 彼はそう言って、薬術書などもよく読んでいた。

 少しでも詳しくなりたいと思ったのだという。

 

 徐庶が消えたのは、郭嘉と話したことが原因なのだろうか。


 それならば郭嘉に何を話したか聞けば、それが関わっているか関わってないかが分かると思うが、重要なのは何も言わずに出て行ったということだ。

 郭嘉から何か秘密裏にということなら、陸議と司馬孚には心配するなと一言声を掛けて行く気がする。

 信頼しているからというより、それで陸議達が徐庶がいないと相談した時、郭嘉の意図に反して司馬懿や賈詡の耳に入ったら意味が無いからである。

 

 なら郭嘉は関係ないのだろうか。

 色々考えてしまう。

 帰って来る途中、別の誰かに会ったかもしれない。

 徐庶の謹慎はじきに解けると陸議は思っていた。


「郭嘉殿が庇ってくれた」


 そう聞いていたからだ。

 命令違反というより独断で涼州騎馬隊の共闘を取り付け、その代わり彼らを逃がしたことを賈詡が咎めたのが謹慎の理由らしい。


 これはかなりの重罪になる。

 涼州騎馬隊が蜀に合流する意味は大きい。

 徐庶が手引きしたと司馬懿が判断すれば、前線での軍規違反は死罪だ。


 ただ、そもそも【烏桓六道うがんりくどう】の動きを察しながら本陣に呼び寄せたことが発端なので、徐庶はその中で本陣を救う動きとしては最善のことをした。

 陸議も涼州騎馬隊が【烏桓六道】を掃討しなかったら、あのまま死んでいたかもしれないのだ。

 

 郭嘉が徐庶を庇って助命嘆願したことは、非常に大きい。


 郭奉孝かくほうこうが魏軍において意味するところも元々大きいが、

 その彼の意志は、総大将の司馬懿や賈詡も無碍むげに出来ないほどのものだ。


 郭嘉が徐庶を擁護したのなら、謹慎はじきに解けるだろうと思って楽観していた矢先の出来事だった。


 徐庶が気にするものが、もう一つある。


 黄巌こうがんだ。


 彼は傷を負って動けない状態で魏軍の中にいる黄風雅こうふうがを慮って、よく訪ねて行った。

 もう少し黄巌の傷が良くなったら、彼も退屈してるのでこの部屋に連れて来てもいいかななどと言っていたので陸議りくぎ司馬孚しばふも、もっと涼州の話が聞きたいから嬉しいと快く承知していたところだ。


「……黄巌さんに会って来てみようかな」


 ぽつりと陸議が言った。

「黄巌殿に? 徐庶殿の行方を聞くんですか?」

「そういうわけではないのですが……なんとなく」

 その時、司馬孚はふと何かを感じた。


「では私が今から訪ねて来ましょう」

「いえ。貴方はここにいてください。徐庶さんが戻って来るかもしれませんし……」


 それならば陸議が残っていればいいのだが、陸議は自分で黄巌を訪ねたいようだった。



陸伯言りくはくげんは戦場で変わる』



 兄の司馬懿しばいがそう言っていた。

 彼の話では陸議は、兄の司馬懿から見ても、かなり異才なのだという。


 司馬懿こそ異才だと思って生きて来た司馬孚しばふにとっては、司馬懿の、その陸議の見立てにも非常に驚くのだが、

 到底そんな風に見えない、穏やかな陸議の横顔が、

 あの日、本陣でほとんど無意識に、敵の急襲の気配に覚醒し、剣を一閃した陸議の姿に重なって、司馬孚は少し背筋が震えた。


 陸議が何かを感じ取った時。

 そしてそれを感じ取り、動こうとした時。


 自分は決してそれを妨げてはいけないのだ。

 それは兄の司馬懿すらそうしているのだから、自分もそうしなければならない。


「分かりました。しかし廊下は凍えるようですから、すぐにお戻りを」


「はい。大丈夫です。黄巌さんが寝ていらっしゃるようでしたら、起こさずそのまま帰ってきます」


 黄巌こうがんは虜囚ではないので、扉は開いていると聞いている。

 寝ているか寝ていないかはすぐ分かるのだ。


 司馬孚が燭台に火を取ってくれた。

 無事な右手でそれを持つ。

 司馬孚が扉を開けてくれた。

 冷たい風がすぐ吹き込んで来る。


「本当に冷たいです」


 司馬孚は笑って頷き、陸議の首回りに布を巻いてくれた。


「暖炉に火を入れて湯を沸かしておきます。

 戻って来たら温かい湯を飲んでから、寝ましょう」


「はい」


 陸議は微笑んで、出て行った。



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