今昔物語
海月くらげ
今は昔、夜の暗がりから家来があらわれる話
しかし、庭に面してつづく廊下の
「今宵は満月じゃな」
「はい」
「よい天気だ。夜も明るかろう」
「さようで」
「しかし、いかに頼通さまの邸宅といっても、月がひいきして照らしてくれるわけでもなかろうに」
「はい、それで、明尊さまをお呼びに」
「頼通さまがかね?」
「はい」
明尊は、下人からの
首をかしげ、藍色を濃くする空に視線をなげた。
下人の話によると、頼通が部下たちに命じて、灯りをつけていないようだ。
何事であろうと、明尊僧正は、頼通のもとに向かう。
いくつもの廊下を曲がって、謁見の間にたどりつくと、もうすでに、頼通は座して、庭をながめていた。
「遅れて申し訳ございません」
「あー、よいよい」
頼通は、気さくに、たたんだ扇子を上下させる。
「さっそくだがな? 急ぎの用だ」
「といいますと?」
「三井寺の護寺僧であったろう?」
「はい、もう一年ほど、頼通さまのお世話になっております」
「うむ」
頼通は、わきに控える従僕に、扇子をむける。
従僕の男は、文膳の上の丁寧にたたみこんだ和紙を、明尊にむける。
「でな? これを三井寺まで届けてもらって、すぐに返事を受け取ってきてもらいたい」
「すぐ……」
明尊は、目を少し見開く。
使いに出てしまっては、確かに灯りは必要ないだろうと、天井のすみに視線をむける。
「というと、今からでございますか?」
「うむ。今夜中にな?」
明尊は、まゆを下げて、言葉につまる。
「今日は満月でございます」
「うむ」
「あやかしのたぐいや、賊の連中も通りにでてきましょう」
「案ずるな」
頼通は、明尊の不安を、笑ったのか、笑ってないのか、のどの奥から、ふーふーふー、と息をはく。
「供の者をつけよう」
従僕の男に、顔をむける。
「おい」
「は。今日は、
従僕の男が、控える。
「うむ、よかろ」
扇子を、ペチとする。
「返事が戻るまで、月でもながめておるでな?」
頼通は、またも、ふーふーふーと、のどをならす。
「では、頼んだ」
「かしこまりました」
/**********/
明尊は、馬小屋につづく庭に出る。
背の高い下人が、馬を引いて庭に入ってくる。
武士ではない明尊がのる馬である。
おとなしい茶毛の馬だ。
下人が、馬に鞍をくくりけるかたわらで、明尊は、庭を見まわす。
「殿さまから、供の者と……」
「はい」
明尊は、まゆを下げて、下人を見まもる。
作業を終える。
下人とみえたものは、庭に面する廊下におかれたカゴに歩みよる。
脚帯でぐるぐると袴を高くつりあげる。
弓を手にした。
「そなたが、
「はい」
「その恰好では、馬に乗れないでしょうに?」
「大丈夫でございます」
無骨な男は、うなずく。
「馬に遅れはとりませんので」
馬小屋の向こうの警備詰め所から、ひとり、下人がやってくる。
致経は、下人にもうなずく。
「では、参りましょう。明尊さま」
明尊は、下人に手伝ってもらい、馬にのる。
下人はたいまつに火をつける。
馬はよくしつけられ、火を見ても、あばれない。
下人が前に立つ。
致経がわきをあるく。
琵琶湖に向けて出発した。
もう、日はとっぷりと暮れ、あたりは暗い。
京の町の通りは、もう人影もない。
満月が照らす夜道は、明尊の表情をこわばらせる。
こんな、ふたりだけの頼りないお
ひと月ぶりの満月だろうとて、ながめて、とても歌でも詠む気にはなれない。
などと思った矢先、頼通邸の区画より、二百メートルも行ったところで、前方の暗がりから、ふたりの人影がたいまつの灯りに近づいてくる。
矢筒を背負っているのがわかる。
明尊は、息をのむ。
ふたりの黒装束の男たちは、致経の前まで来ると、ひざをつき、
「馬を連れてまいりました」
「うむ」
明尊は、ふたりが、あらかじめ闇夜に放っていた致経の部下らしいと気付き、長く息を吐く。
明尊の不安も軽くなったところで、馬はすすむ。
また、一区画、二百メートルほど行ったところで、ふたりの帯刀する黒装束がやってくる。
明尊は、ぴくりと馬の上で身をこわばらせる。
すると、また、男たちは致経の前でひざまづいて頭をたれる。
たいまつの炎が、塀に人のかたちにいくつもの影を落とす。
京の
賀茂の河原を出るころには、三十人ほどの大軍団になっていた。
軍団の中心で、明尊は、周囲の男たちを見まわす。
月がこうこうと夜の通りを照らす。
木々の向こうに星々がきらめき、月に照らされた雲がながれる。
これでは夜盗がたまったものではないな、と思う。
/**********/
三井寺の門前で対応した小僧があんぐりと口をあける。
「明尊さまではありませんか」
「うむ、急の用事だ」
明尊は、用向きを伝える。
小僧は、ちょこまかと境内に走り去っていった。
むかえの者にみちびかれ、明尊は、すぐに用事をすました。
ひるがえって、いとまをつげる。
三井寺の者たちは、もう夜ということで引き止める者もあったが、
一行は、もと来た道を戻りはじめた。
賀茂の河原を越え、京の都に入ると、こんどは逆に、ふたりづつ抜けていく。
「持ち回りに戻します」
致経は、明尊にこたえる。
京の通りをすすみ、頼通邸にたどり着く。
一行は、明尊と致経と下人だけになっていた。
邸内に入ると、致経は頭をたれ、下人とともに、明尊のもと去る。
頼通は、用事の帰りを待ちわびていた。
まだ、寝ていない。
満月に、どんな歌でも詠んだものか?
邸宅には、あいかわらず灯りがない。
明尊は、廊下をいくつも曲がり、謁見の間にたどりつく。
「どうであった?」
「は、これに」
「うむ」
用事を終えると、明尊は、致経の話題を切りだした。
「たいした侍でございます」
「そうか?」
頼通は、部下のひとりに、たいした感慨もないようだ。
明尊は、拍子抜けする。
頼通の前を持する。
下がり、廊下をすすむ。
庭に、まだ、水干をつけた致経がいる。
後片付けのようだ。
満月に照らされ、庭の葉の一枚までよく見える。
明尊は、ひとこと、声をかける。
「父より、だいぶ、しごかれました」
致経は、低い声でこたえる。
「どうやら、性にあっているようでございます」
「ほう、弓ですか……」
明尊は、自分の住んでいるのとは違う世界を、少しばかりのぞいてみたいとおもう。
満月のせいであろう。
「いちど、見てみたいものですな」
致経は、こくりと、うなずく。
きびすを返し、警備詰め所に入っていく。
また、すぐに戻ってくる。
致経は、手に弓を下げている。
先ほどの弓より、大きく、太い。
そして長い。
巨大な弓である。
明尊が手にしたら、引きずることしかできまい。
致経は、庭の中央にすすみ出る。
水干をはだける。
巨大な岩のような筋肉である。
胸が厚い。
腕が太い。
肩から腕にかけての太さが、
弓の側面を月明かりが照らす。
糸の上を薄い光がながれる。
弓を構える。
糸をひく。
皮膚の下で、こぶが移動する。
岩が動いているようだ。
満月が、弓を構えた男を照らす。
明尊は、廊下に立ち、男の全体を視界にいれる。
砂利をふむ音が止む。
ふと。
静寂を破って、空気を切り裂く音がなる。
耳ではない部分で、空気のうなりを感じとる。
致経は、明尊に軽く頭をたれると、また警備詰め所にもどっていく。
月明かりが庭を照らす。
満月である。
明尊僧正は、ふかく、ふかく、息を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます