第9話 身分証と裏のルート
俺はリュミエールの石畳を歩きながら、ようやく足の感覚が元の世界に追いついてきた頃だった。
昼下がりの陽光は赤茶の屋根を照らし、光が壁の白漆喰に跳ね返ってまぶしい。通りにはフラックスで駆動する無骨な貨車がごとごとと行き交い、車輪がレールに刻む低い響きが腹の奥まで震える。香辛料の匂いが漂う屋台と、焼き果実の甘い香り、鉄工所からの油煙が混じり合って鼻をつく。まるで街全体が生き物のように脈打っていた。
そんな中、横を歩くイリスが観光ガイドよろしく声を張る。
「さて。この世界でまともに活動したいなら――まずは身分証の登録が必須だ」
「……み、身分証?」
思わず二度聞き返す俺。転生して数時間、まだ夢と現実の区別も怪しいのに、いきなり役所的な話をされても脳がついていかない。
「そうだ。《出入管理庁》――いや正式には《市民統合庁》が発行する《クリスタル身分符》がなければ、宿屋も利用できんし、列車にも乗れん。市場では身元確認を求められることもある。お前の言葉で言うなら……そうだな、国民証明書兼マイナンバーカードみたいなものだ」
「えっ、それってほぼマイナンバーカードじゃん!」
俺の叫びが裏通りの石壁に反響する。通りすがりの商人が怪訝そうにこちらを見たが、すぐに興味を失ったように去っていった。
「で、どうやって作るんだよ? まさか住民票取って印鑑登録して三週間待ちとか?」
イリスは胸を張り、白銀の髪を揺らしながら自信満々に言い放つ。
「ふふん、安心しろ。お前が転生した瞬間に、既に“裏のルート”で発行済みだ!」
「……裏のルート!? …それってまずいんじゃ…」
「心配無用だ。私の手にかかればお茶の子さいさいだ。表向きは偽造パスポートのようなものだが、役人どもも“まあそういうものだろう”と割り切っている。いちいち書類の山を積まれるよりは、女神の保証印が押された方が話が早いからな」
「それは大丈夫って言わねぇだろ!」
(…っていうか女神の保証印ってなんだよ)
俺の抗議も虚しく、イリスは涼しい顔で先を歩く。
港湾区の喧噪を抜けると、目の前にアーチ型の橋梁が現れた。空に伸びる石造りの橋を貨物馬車や電軌トラムがひっきりなしに行き交い、その下には露天商が軒を連ねる。人間族だけでなく、鱗を持つ水棲族、角を生やした獣人、翅を広げる小妖精の姿まで混じっていて、通り全体が動物園のような賑わいだった。
イリスが顎で指した先、視線の先に巨大な建造物が立ちはだかる。
「見ろ。あれが《市民統合庁》だ」
そびえ立つそれは、大聖堂と要塞を掛け合わせたような威容だった。尖塔がいくつも天へ突き出し、外壁には縦横に走る巨大なクリスタル管。青い光脈が血流のように脈打ち、まるで建物自体が生命を持つかのように見える。正門前には制服姿の役人が列を成し、手に書類を抱えて退屈そうに待つ市民の列は通りを埋め尽くしていた。
「……あれ全部、身分証の更新待ち?」
「ああ。住所変更、流量口座の紐づけ、身分符の欠片が割れた連中もいる。平均待ち時間は――およそ六時間」
「六時間!? ディズニーランドかよ!」
俺は絶句したが、イリスは軽く肩をすくめただけだった。
「いいか。出入管理庁はただの役所じゃない。あそこはこの都市の“境界”そのものを守る機関だ」
イリスは歩を進めながら、まるで戦場の布陣を語るように説明を続ける。
「リュミエールには人間族だけでなく、獣人、妖精族、海棲族、果ては竜人まで住んでいる。さらに港を通じて諸国の商人や旅人が日々出入りする。もし身分証を持たずに好き勝手に動けば、犯罪者や密輸業者、果ては他国の諜報員まで紛れ込むことになるだろう」
「なるほど……空港の入国審査みたいなもんか」
「そうだ。だが違うのは、この街が世界の交易の要だという点だ。陸路、海路、空路が交わる以上、ここでの取引が世界の経済を左右する。だから庁舎の内部にはただの役人だけでなく、商人ギルド、学術院の魔術師、さらには各種族の代表まで常駐している。まさに“多種族議会”の縮図だ」
「……めちゃくちゃ大事な場所じゃん」
「当然だ。あそこでは単なる身分確認だけではなく、“この都市に誰を迎え入れ、誰を拒むか”が決まる。治安維持、経済均衡、文化交流――全ての根幹が市民統合庁に集約されているのだ」
イリスの声は力強く、石畳に反響して騎士の檄のように響いた。
俺は目の前の巨大庁舎を改めて見上げた。
尖塔の先で光る結晶の青は、ただの装飾ではない。世界の流れを監視し、制御するための“眼”なのだろう。
そこに並ぶ市民の姿も、単なる行列ではなかった。異なる種族、異なる文化がひとつの街で生きるために、同じ規則に従っている――その光景は、この都市リュミエールの縮図そのものに思えた。
「……でもさ、裏ルートで作っちゃった俺、大丈夫か?」
恐る恐るつぶやくと、イリスは鼻で笑った。
「ふん。女神の保証印(※実際はある王族の保証印)を持つお前の符は、下手な市民よりよほど堅牢だ。文句をつけられる筋合いなどない。むしろ役人どもは“面倒事が減った”と感謝しているだろうさ」
「……やっぱり公務員ってどこもそんな感じなんだな」
俺の嘆きは、港から吹く潮風にさらわれて消えた。
港湾区を抜けた先、俺たちは大通りを歩いていた。
昼下がりの陽光に照らされた街並みはどこまでも活気に満ち、果実を焼く香ばしい匂いがふわっと鼻先を掠めてくる。商人は大きな声を張り上げ、楽師は笛を鳴らし、船乗りたちは威勢よく笑っていた。
華やかさと喧騒に包まれた景色の中で、石造りの建物の隙間から伸びる洗濯物の影が頭上を覆う。子供たちが駆け抜け、浮揚石を蹴って遊んでいた。
「おい、足を止めるな。まだ案内していない場所がある」
イリスは不意に俺の腕を掴み、迷いなく路地の影へと身を滑らせた。
「えっ、おいおい。そんな裏道に何の用があるんだよ?」
「お前に見せておくべき場所だ。……この街の“裏の呼吸”をな」
その声音は低く、妙に重たかった。
大通りから一歩外れると、空気は一変した。
石畳は急に狭まり、陽光は高く積まれた建物の壁に遮られて届かない。
路地裏の空気は湿り気を帯び、漂う匂いも香ばしい果実や香辛料ではなく、錆びた鉄と古い油の臭いに変わっていた。
物売りの声も音楽もここまでは響かず、ただどこか遠くで水滴の落ちる音が反響している。
そんな薄気味悪さを誘うように、ところどころひび割れた壁には古びたポスターが貼られていた。
「欠片税を撤廃せよ!」
「流の独占に抗え!」
殴り書きされたスローガンは、華やかな表の街とはまるで別の温度を帯びていた。
「……なあ、イリス。このポスター、なんか怪しくないか?」
俺が問いかけると、彼女はわざとらしく鼻を鳴らし、視線を逸らす。
「気のせいだ。いちいち気にするな」
そう言いながらも、その横顔は笑ってはいなかった。
路地をさらに進むと、やがて運河沿いに出る。
鉄橋を渡るトラムの車輪が響き、白い蒸気が水面を覆って揺らす。かすかに漂う油の匂いが鼻をつき、街の心臓部から遠ざかるほどに何かしらの“境界”を越えていく感覚があった。
そこからさらに南へ進み、苔むした石段を上る。目の前に広がったのは古びた倉庫群だった。窓はすべて打ち板で塞がれ、入口には看板すらない。まるで街の喧騒から切り離された“異質な沈黙”が漂っていた。
俺が息をのんだそのとき、イリスが顎を上げる。
「ここが《ストームヴェイル》の拠点だ」
「ストーム……ヴェイル?」
「表向きは古文書を扱う商館。だが実態は――“流”の独占体制に抗う地下組織だ。奴らは欠片税の撤廃を訴え、無軌道な採掘を止めようとしている。……まあ、連中の手並みは荒っぽいがな」
「お、おい。そんな物騒なところに、なんで俺を……」
「お前には必要な縁だ。転生者の目で見れば、必ず気づくことがある」
イリスの瞳は青い炎を宿したように鋭く、俺を射抜いた。
倉庫群の前には小さな広場があり、噴水が涼やかな音を立てて水を撒いていた。ベンチに腰掛けて談笑する市民の姿は平和そのものに見える。だが、その奥に並ぶ石造りの建物――窓を塞がれ、入口を重たい鉄扉で閉ざされた姿は、どう見ても普通の商館には見えなかった。
「……ここが俺たちの次の目的地ってわけか?」
「そうだ。覚悟しておけ。ようこそ――《ストームヴェイル》へ」
イリスの笑みは挑発的で、騎士の宣戦布告のように力強かった。
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