チェックメイトはバニラ味

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チェックメイトはバニラ味

 町角の喫茶店Cafe de Mon

 アンティーク調の店内には、店主・桜井さくらい双葉ふたばの淹れる季節のハーブの香りが満ちている。

 しかし、双葉の正体は、古くから続く魔女の家系の末裔。この店は、彼女が社会に溶け込みながら、魔法の研究をするためのアトリエでもあった。

 双葉が淹れるハーブティーに交じって、今日は小さなため息が聞こえる。

 カウンターに座るのは、双葉の教え子である魔女の卵・小学5年生の野々宮ののみやあおいだ。

「最近、クラスの雰囲気が悪いの……」

 葵が語り始めたのは、転校生・影山美玲みれいのこと。

 美玲は儚げで物静かな少女なのだが、いつも「私なんてダメだから」と自分を卑下し、周囲の同情を引いていた。

 世話好きな子たちが美玲を助けようとするが、不思議なことに、美玲の世話を焼く子ほど、日に日に疲れた顔になり、些細なことでイライラするようになっていた。

 教室には、目に見えないトゲトゲした空気が漂う。

 双葉は葵の話を静かに聞き、ハーブティーのカップを置きながら言った。

「その子。エナジーヴァンパイア……現代の吸血鬼ね」

「きゅ、吸血鬼!?」

 驚く葵に、双葉は告げた。

「比喩的な意味よ」

 双葉は説明する。


【エナジーヴァンパイア】

 一緒にいる人の気力やエネルギーを吸い取って、疲弊させてしまう人を指す言葉。

 一例として、解決策を提案しても「でも」「だって」と否定し、決して前に進もうとしない。他者の時間、感情、精神的なエネルギーを吸い取っていく。

 話したり、一緒にいたりすると、なぜかどっと疲れたり、気分が落ち込んだり、やる気がなくなったりする。


「双葉さん。私、美玲もクラスのみんなも助けたい」

 調和を願う葵の真摯な眼差しに、双葉は魔女として応えることを決める。

「私たちがすべきは、みんなの心を守る『盾』を作ること。処方箋は……これ」

 双葉がガラス瓶から取り出したのは、甘く芳醇な香りを放つバニラビーンズだった。

「さあ、葵ちゃん。あなたの手で、みんなを守る魔法を紡いでみて」

 作戦の舞台は、数日後の調理実習。

 葵はキッチンで、双葉に見守られながら魔法の準備をしていた。小さなすり鉢にバニラビーンズと砂糖を入れ、すりこぎを両手で握りしめる。

「葵ちゃん、大事なのはあなたの『想い』よ。みんなが笑顔になりますように、って強く願って」

「はい!」

 葵は目を閉じ、親友の笑顔やクラスのみんなが楽しそうに話している光景を思い浮かべる。

 そして、呪文を唱えた。

「甘い香りの杖もて、心の扉をひらきたまえ。温かい光よ、満ちて、満ちて、みんなの心を繋ぎたまえ!」

 すると、葵の手のひらから淡い金色の光が溢れ、すり鉢の中の砂糖へと流れ込んでいく。バニラシュガーはキラキラと輝きを放ち、まるで金色の砂のように美しくなった。

 葵だけの魔法のバニラシュガーが完成した瞬間だった。


 ◆


 調理実習当日。

 美玲はいつものように「私、混ぜるの下手だから」と、班のメンバーを振り回し、その班だけ空気が重くよどんでいた。

 葵は、計画を実行に移す。

 自分たちが作るクッキーの生地に、あの金色のバニラシュガーをそっと混ぜ込んだ。

 オーブンで焼き始めると、家庭科室にはたちまち、ただ甘いだけではない、心を穏やかにする不思議な香りが広がり始めた。

(お願い……みんなに届いて)

 心の中で強く念じると、オーブンの余熱で温められた空気に乗って、バニラの香りがまるで意志を持ったかのように教室の隅々まで広がっていく。

 魔法の光が、イライラしていた子の肩に、疲れきっていた親友の頬に。

 そして、寂しそうに俯いていた美玲の頭に、ふわり、ふわりと触れていく。

 その瞬間、教室のトゲトゲした空気が、まるで角の取れた丸いものに変わっていくのが肌で感じられた。

 焼き上がった、ソフトクッキーを手に、葵は仕上げにかかる。

 まず、美玲の班へ、さらに他の班へと、笑顔でクッキーを配って回った。

 それは誰か一人を助けるための行動ではない。クラスという盤面全体に、守護の魔法を行き渡らせるための、優しい一手に他ならなかった。

「これでチェックメイト」

 葵はクッキーを配り終えた。

 しっとりとしたソフトクッキーにしたのは、バニラの香りを十二分に活かすためだった。


【バニラ】

 魔術的な文脈では、バニラの甘く、温かく、心地よい香りは気分を落ち着かせ、幸福感を高める効果があるとされる。


 甘い匂いに誘われて、生徒たちは葵のクッキーを口にする。

「わ、美味しい……」

「なんだか、ホッとするね」

 生徒たちから、自然と笑顔がこぼれ、和やかな会話が生まれる。

 それは美玲も同じだった。

 美玲の周りにいた子たちは、彼女を過剰に甘やかすのではなく、

「美玲も、このお皿運ぶの手伝って」

 と、対等な友人としての言葉をかけ始めた。

「うん。私やる」

 美玲は消極的だった自分を変えようと、クラスに加わり始めた。

 それを見た葵は安心したように笑う。

 淀んだ空気を浄化し、健全な関係を取り戻すきっかけを作る。

 それこそが、葵が仕掛けたチェックメイトだった。

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