第10章 ぶつかる時刻
1 八月の朝
蝉の声がまだ薄暗い空を震わせていた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、白くて鋭い。
その光を受けながら、机の上のカレンダーを見つめる。
〈8月12日(土)〉
赤い丸印が二つ、同じ日に重なっていた。
一つは「サッカー部 全国予選 集合10:00」。
もう一つは「公開ステージ 本番14:00」。
二つの丸が、互いに潰し合うように重なっている。
胸の奥が苦しくなった。
どちらも「人生の岐路」みたいな顔をして、俺の前に立っている。
――決めなければならない。
⸻
2 サッカー部の決起
集合時間。
グラウンドは朝から熱を帯びていた。
芝の匂い、スパイクの摩擦音、汗を拭うタオルの塩辛い匂い。
すべてが「勝利」を求めて震えている。
監督が声を張る。
「今日勝てば、全国大会への切符だ! 一点を取りにいけ、守り抜け! 心をひとつに!」
仲間たちが「おお!」と声を合わせる。
円陣の中、キャプテンが俺の肩を叩いた。
「相馬、頼むぞ。お前の走りがチームを変える」
胸の奥が熱くなる。
けれど、同時に別の声が蘇る。
――「来てね。振り向かせるから」
――「絶対来て」
早苗の声だ。
その響きが、監督の檄と同じ強さで俺を引っ張る。
⸻
3 楽屋の準備
同じ時刻、市民ホールの楽屋。
早苗はワンピースの裾を整え、鏡の前で発声を繰り返していた。
「い・え・あ・お・う」
口の形を丁寧に整え、子音を立てる。
黒瀬がピアノの鍵盤を軽く叩き、調律を確かめている。
「響きは大丈夫。あとは気持ちだけ」
「……うん」
彼女は鏡越しに自分の目を見つめた。
その奥に、昨日も一昨日も現れなかった蒼太の影を探していた。
「来てくれるかな」
小さな声が、鏡の中で消えた。
⸻
4 前半のピッチ
ホイッスルが鳴る。
前半開始。
相手の動きは速い。
俺は必死に走り、ボールを追った。
ドリブルで抜け、クロスを上げる。
味方が合わせてゴール。
歓声がグラウンドを揺らす。
「相馬! ナイスだ!」
喜びが体を駆け抜ける。
だが同時に時計を見る。
〈11:15〉
時間は無情に進んでいく。
このまま後半まで出れば、ステージに間に合わない。
⸻
5 袖の緊張
会場の袖。
時計は〈13:30〉を指していた。
リハーサルは黒瀬と終えた。
けれど、早苗の心は落ち着かなかった。
「蒼太……」
名前を呼ぶ唇が震える。
黒瀬が隣で声を落とした。
「もし相馬が来なくても、俺が最後まで支える」
「……ありがとう」
「でも、俺は知ってる。早苗が一番信じてるのは相馬だ」
その言葉に、胸が刺された。
信じたいのに、不安が勝ってしまう自分が情けなかった。
⸻
6 後半の決断
後半開始。
相手の攻めが激しくなる。
監督が叫ぶ。
「集中しろ! 守り切れ!」
俺は走りながら時計を見た。
〈13:40〉
――もう無理だ。
ここで最後まで出れば、絶対に間に合わない。
ボールが自陣に転がってくる。
俺はそれを蹴り出しながら、監督の元へ走った。
「すみません! 交代してください!」
「は? 何を言ってる!」
「大事な……約束があるんです!」
監督の顔が怒りに赤く染まる。
「馬鹿言うな! ここは全国予選だぞ!」
「分かってます! でも、俺は――行かなきゃいけないんです!」
監督の目が一瞬揺れた。
だが、俺の顔を見て、笛を吹いた。
「交代!」
ベンチに戻ると、仲間の視線が突き刺さった。
「相馬、どうしたんだよ!」
「勝負どころだろ!」
それでも俺は言った。
「ごめん。……でも、行く」
スパイクを脱ぎ、バッグを背負い、グラウンドを飛び出した。
⸻
7 ステージの直前
〈13:55〉
袖に戻ると、司会の声が響いていた。
「次はエントリーナンバー二十三番――」
早苗がマイクを握りしめ、深呼吸を繰り返していた。
黒瀬が隣で支えている。
俺は走り込んで、声をかけた。
「早苗!」
振り向いた彼女の目が、大きく見開かれる。
「……来た」
「遅れてごめん。でも、間に合った」
黒瀬が椅子から立ち上がり、譜面を俺に渡す。
「頼んだ」
その声は穏やかだった。
早苗は涙を浮かべて笑った。
「一緒に、歌おう」
「もちろん」
⸻
8 光の中へ
名前が呼ばれる。
ライトがステージを白く染める。
俺たちはその光に向かって歩き出した。
鍵盤に指を置き、深く息を吸う。
「大丈夫?」
小声で問うと、彼女は頷いた。
「蒼太がいるから」
最初の和音。
最初の子音。
声と音が重なり、ホールの空気が一変する。
客席は静まり返り、光は白く、俺たちの影を濃く落とした。
時間が止まったみたいだった。
⸻
9 終わりの静寂
最後のフレーズ。
早苗は半拍長く伸ばした。
その声はホールの天井に届き、やわらかく戻ってきた。
静寂。
一瞬の無音。
そして拍手。
歓声が押し寄せ、俺と早苗は頭を下げた。
彼女の横顔は涙で濡れ、笑顔で輝いていた。
袖に戻った瞬間、彼女は小さな声で言った。
「ありがとう。……やっと、言えるよ」
俺は答えを探した。
――「好きだ」
その言葉が、喉の奥で熱く震えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます