第6章 公開オーディションの準備
1 新しい目標
公開オーディション――その言葉が出てから、音楽室の空気は一段変わった。
掲示板に貼られたチラシを、早苗は指先でなぞる。
『公開オーディション:動画審査(一次)、ステージ審査(二次)』
紙の端はすでに誰かに触られた跡で少し折れている。
「挑戦したい」
早苗ははっきり言った。
「夢、ちゃんと掴みにいきたい」
黒瀬が頷く。
「録音は任せて。マイクあるし、編集もできる」
「ほんと? 助かる」
会話は流れるように進む。
俺は横で聞きながら、言葉を探した。
「……俺も手伝うよ。伴奏とか」
「ありがとう」
早苗は笑った。その笑顔は、昔の音楽室で「もう一回」と繰り返していたときと同じで、けれど今は少し遠く感じた。
⸻
2 録音の日
土曜日の午後、黒瀬の家に集まった。
彼の部屋は整理されていて、机の上には黒いマイクと小さなオーディオインターフェース。
スマホ用の三脚も用意されていた。
「一発でいける?」
「いける」
早苗は短く答え、姿勢を正す。
俺はピアノの前に座った。電子ピアノの鍵盤は、音楽室の古い木の感触とは違い、つるりと冷たい。
けれど、彼女の呼吸に合わせる役目は同じだった。
最初の子音が空気を切る。
母音が部屋を広げる。
俺の伴奏が声に橋を架け、黒瀬が録音レベルを確認する。
「もう一回」
「もう一回」
それが三回続いた。
四回目のテイクのあと、早苗は小さくうなずいた。
「これでいこう」
黒瀬が画面を確認する。
「いい。最後の伸び、震えた」
「怖かったけど、出すね」
早苗はスマホを胸に抱えて、送信の矢印を押した。
小さな電子音が鳴り、彼女の未来がひとつ進んだ。
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3 川沿いで
録音を終えた帰り道。
夕暮れの川沿いは、紫と橙が混ざっていた。
街灯が灯り始め、川面に細い光の帯が伸びている。
「振り向かせたいんだ」
早苗がぽつりと言った。
「相馬に。だから、夢に向かう。……変かな」
「変じゃない」
即答できた。
「ごめん」じゃなく、初めて素直に出た言葉だった。
彼女は少し笑って、前を向いた。
「じゃあ、見てて。振り向かせるから」
その背中は、小学校の音楽室で「もう一回」と言っていたときより、ずっと遠くに見えた。
未来に向かう背中。
俺はそこに追いつけるのか。
⸻
4 サッカーの重み
同じ頃、サッカー部でも空気が変わっていた。
監督が告げる。
「来月のリーグ戦、メンバーは競わせる。レギュラーに入れるかどうかは、この一か月で決まる」
仲間の目が鋭くなる。
パス練習の一つ一つが重くなり、シュートの一発一発が審判の判定のように感じられる。
俺もボールを追いながら思った。
――音楽室とグラウンド。どちらも俺の本物だ。
けれど、時間はひとつしかない。
夜、帰宅して机を開けると、奥にある紙が目に入った。
〈高校生になったら、ちゃんと気持ちを言う〉
汗で端が丸まり、文字は薄れている。
だけど、その一行だけが、何度も俺を呼び戻す。
⸻
5 三度目の矢
公開オーディション一次審査の結果が出た夜。
早苗からメッセージが届いた。
『通った! 二次、来月。ステージ』
『おめでとう』
返した数秒後、もう一通。
『……やっぱり、好きだよ。何回言っても変わらない』
三度目の矢は、画面越しに真っ直ぐだった。
俺はスマホを握りしめ、指をキーボードの上に置いた。
――俺も。
――けど今は。
――待ってほしい。
どの語尾も、彼女の歌を曇らせる気がして、結局送れなかった。
既読だけが、夜の画面に残る。
その光は、街灯よりも冷たかった。
⸻
6 指切りの更新
週末の夕方、二人で川沿いを歩いた。
沈黙が続いても、呼吸は揃っている。
やがて早苗が立ち止まった。
「ねえ」
「ん?」
「指切り、覚えてる?」
中学の冬、受験の前に交わしたやつ。
「覚えてる」
「更新しよ」
早苗は小指を差し出した。
「わたし、歌手になる。二次も受かる。いつかもっと大きなステージに立つ。……そのたびに、もう一回だけ、相馬に好きって言う。約束」
「それ、俺の約束も必要?」
「うん」
「じゃあ……俺は、逃げないで、ちゃんと聴く。ちゃんと答える。――いつか、遅れずに」
弱い。
遅れずに、がもう遅れている。
けれど、今の俺にはそれしか言えなかった。
ふたりで小指を絡める。
指先は少し汗ばんでいた。
結び目は、ほどけないようにまた形を変えて固くなる。
「振り向かせるから。ちゃんと」
彼女はそう言って笑った。
その笑顔は、夕焼けの川面に映って、未来を指していた。
俺はその背中を見て、自分が置いていかれつつある速度をはっきりと知った。
追いつくには、走るだけじゃ足りない。
――言葉で、追いつかなきゃいけない。
でもその夜も、俺はまだ、言葉の結び方を思い出せずにいた。
譜面台の傷は、暗い音楽室の中で、たぶんいつも通りそこにあって、
待ちきれない誰かの爪痕の上に、俺の指の跡を重ねる日を、静かに待っていた。
1 公開オーディションの通知
六月の初め、掲示板に新しい紙が貼り出された。
『公開オーディション二次審査 会場:市民ホール 集合13:00 本番14:15』
その文字を見た瞬間、音楽室の空気が一段張りつめた。
「来た……」
早苗の声は緊張と興奮で混ざっていた。
指先が少し震えているのを、俺は見逃さなかった。
黒瀬がスケジュールを確認する。
「リハーサルは12:30。ピアノはスタインウェイだって」
「すご……」
早苗は息をのんだ。
俺は掲示を見たまま、胸の奥がざわめいた。
――同じ日、サッカー部のリーグ戦の予定があった。
監督が「ここで勝てば、レギュラーは固まる」と言っていた試合だ。
カレンダーを重ねると、時間がぴたりとぶつかる。
「蒼太?」
早苗が顔をのぞき込む。
「……なんでもない」
言えなかった。言ったら、彼女の目が揺れる気がした。
⸻
2 練習の濃度
二次に向けての練習は、これまでとは濃度が違った。
黒瀬はメトロノームを少し遅めに設定し、「残響を生かす練習」を提案した。
「ホールは広い。音を押し出しすぎない方が響く」
早苗は何度も歌詞の子音を調整し、俺は和音の隙間を探した。
「今の、いい」
「ありがとう。……蒼太が支えてくれると、最後、怖くない」
その一言で、心臓が跳ねる。
けれど同時に思う。
――俺は本当に支えられているのか。
試合と時間がぶつかっていることを、まだ言えていないのに。
⸻
3 グラウンドの影
サッカー部の練習試合。
監督は声を張り上げる。
「この一か月で決まるぞ! 気を抜くな!」
ボールを蹴る足は重くない。
仲間のパスも見えている。
だけど、視界の端には常に「14:15」という数字がちらついた。
休憩中、先輩が肩を叩いた。
「相馬、お前、次のリーグ戦はスタメン候補だ。逃すなよ」
「はい」
答えながら、胸の奥で別の声が囁いた。
――でもその日は、早苗がステージに立つ日だ。
二つの声が、同じ心臓を引っ張り合った。
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4 夜のメッセージ
練習後、スマホを開くと早苗からメッセージがあった。
『今日、黒瀬くんのピアノで通してみた。響きが広がって、怖いけど楽しい』
『すごいな。俺も合わせたかった』
そう打ったあと、指が止まる。
――本当は「試合で行けないかもしれない」と打つべきだ。
けれど、送信ボタンを押したのは違う文だった。
『次は必ず行く』
「必ず」という言葉が、胸で重く沈む。
俺はまだ、約束の結び方を覚えていない。
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5 川沿いの誓い
週末、川沿いを歩いた。
夕焼けが欄干を橙に染め、川面が細かく光っていた。
「ステージ、緊張する?」
俺が聞くと、早苗はうなずいた。
「するよ。でも楽しみ。歌ってるときは、全部忘れられるから」
「……そうか」
立ち止まった彼女が、小指を差し出す。
「もう一回、約束しよ。ステージ、見に来て」
指先は少し冷たかった。
俺はその小指を握り返した。
「行く。……絶対に」
結び目は強く結ばれた。
けれど、頭の隅で試合の時間が赤字で点滅していた。
二つの約束は、同じ時計の上に重なっている。
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6 当日の朝
当日の朝、空はどこまでも青かった。
緊張で胃が重く、パンは半分しか食べられなかった。
「相馬、準備できてるか」
監督の声が響く。
「はい」
答えた声は震えていた。
仲間の背中を見ながら、心は別の場所にいた。
ポケットの中でスマホが震える。
『もうすぐ会場入る。リハ頑張る!』
早苗からのメッセージ。
俺は返事を打った。
『頑張れ。信じてる』
――けれど、自分自身を信じきれてはいなかった。
試合とステージ、どちらを選ぶのか。
その答えはまだ、胸の奥でほどけたままだった。
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