鹿は独りじゃ朝も見られず

軸の無い 。

第1章

月光を湛えた繭が、微かに軋んだ。

全長は二メートルほど。木の枝と枝に引っかかり、楕円体の腹がとろんと垂れ下がっていた。


丁度それを見た狩人がいた。鋭く上がっていた目元が僅かに撓んで、銃を持つ手がより真下へと降りる。

狩人は黙ったまま近付く。その間合い四歩、木の隙間を縫ってその一帯だけ月が眩しく見えた。晴れた夜半の空、それは十三夜の月影だった。


半歩ずつ近付き、繭の様子を窺う。すると狩人は、白い糸の海の真ん中に針がぽつねんと刺さっていることに気付く。

好奇心がその手を突き動かし、針に触れた瞬間、それは粉々に霧散し、同時に繭が音を立て始めた。


糸がふつふつと千切れ、はらりとはだけていく。


一見嫋やかなな一連の動作も束の間、狩人にはそれを見惚れさす間もなく中身が零れ出た。べしゃ、どさりと鈍く土に落つそれは、月光に深く染まる柔らかな皮膚。狩人は絶句しつつ何故か離れられず、いつの間にかそっと手を添えて、その容貌を確かめた。


それは人間だった。


目を閉じたそれは浅く息をして、人肌の温もりを宿していた。肉体の鍛え上げられた狩人にとって、その体はあまりに矮小で軟だった。

まさに、生まれたばかりの赤子を抱き上げるように、慎重に背を持って起こしてやる。


狩人が軽く肩を揺すってやればすんなり瞼は擡げて、隠されていた玉の目がこちらを見つめ返してきた。

それは何かを喋りかけて、自身が狩人に抱き抱えられていることに気付いた。恥じらった仕草でぱっと腕を離れる。


「え、えっと……貴方は?」


おずおずと狩人に問い掛けた。狩人はただ通りすがっただけだと、身振り手振りを交えて伝える。

加えて、狩人は猟銃の銃床を指差して見せる。


「ユー・オー……これが、貴方の名前?」


狩人は大きく頷いてやる。拙い線で彫られたその文字を、さっと背負い直した。

狩人の応答に、相手の顔が僅かに綻んだ。狩人はそれに気付かないまま、所在を問い返した。


「私?私は……」


言葉に詰まって、少し伏し目になる。

その目線の端、繭から何かが落ちてきたのに気付いた。少し砂の付いた布切れには達筆な字で『スガル』とあった。

はっとして、すぐに口を開いた。


「あっ、そうだ、私、スガルって言うんだ」


咄嗟にその言葉だけが滑り出た。直感的に、それが自分の名前だと思った。

さっとその布切れを腰のポケットに押し込み、それから疑問が沸々と浮き上がってきた。


「けど、不思議……何も思い出せない……」


頬や頭に手を添えて、スガルは記憶を辿ろうと努めるも埒は開かず、先ほどまで自身が眠っていた繭のことですら、その正体が何かは分からなかった。

やがて狩人はスガルの困憊を悟って、語りかけた。


「……えっ、貴方の家に泊めてくれるの?でも私、お金とか持ってないし……」


狩人は小さく頷き、手振りは大きく話す。狩人は、スガルには金銭の代わりに狩人の家業の手伝いをしてほしいと伝えた。

年若く見える人をわざわざ拾い働かせるのは如何かとも思ったが、相手にとってはそうした方が気が楽だろう、と考えてのことだった。

旨は明確に伝わったようで、スガルは、狩人の眼前で微笑んだ。


「ありがとう。……すごく静かなのに、何を言いたいのかちゃんと分かる。不思議だね」


鉄面皮に笑いかけたスガルの円い目は、夜空を進む十三夜。帰り道についてくる影の間合い三歩、狩人にはそれが眩しく見えた。






扉が閉まり、夜の涼しさから切り離された。スガルは狩人の家へ入ってすぐ、どことなく穏和な匂いを吸い込んだ。


スガルがちらりと見た床、天井のタイルには、狩人の生きてきた幾星霜が刻まれたように感じた。奥行きのあるリビングにはいくつかのドアが見え、所々にある得体の知れないスチームパンク的機械が目につく。


狩人は銃を壁に掛け、奥の台所に立った。定型の動作で調理の準備は着々進む。スガルに少し振り返り、手を洗うよう伝える。


「晩ご飯、作るの?私も手伝いたい」


狩人はほんの僅か遅れて、親指を立てて返事をした。


スガルが手を洗っている最中、狩人はどこかから着替えとエプロンとを持ってきていた。確かにスガルの服には煤けた汚れや解れなどがあった。それを見て取ってのことであるようだった。

それを受け取り、すぐに着替えて戻れば、狩人は既にパプリカを切り始めていた。


「ありがとう。この服、サイズぴったりだ」


狩人はそっと作業の場所を空けた。スガルはエプロンの紐を縛りながら並んだ。


「よく丁度いいのがあったね。狩人さん、服屋だったりするの?」


棚にフライパンを漁りながら、狩人はそれに答えた。

この狩人の家は、質屋としての機能を兼ねており、流質となった品物が倉庫に沢山あるそうだ。


「へぇ、質屋か。りゅうしち?ってよく分かんないけど」


話しながら、慣れた手つきで軽やかに刻んでいく。スガルの器用さに狩人は少し驚きつつ、狩人は油を取った。


やがて、まな板の上の細々が、狩人の構えるフライパンへと滑り込む。焼ける音と匂いの中、狩人は手早く調味料を振って話した。


「ふふ、でしょ。こういうの得意なんだ。思い出せないけど、多分、前からやっていた気がするんだ」


前から、という言葉に、狩人はスガルのこと、そして繭のことが一層頭に重く引っ掛かった。どうしてか、スガルを手放しにすることはできなかった。

スガルは狩人の指示を仰ぎ、もう一品の支度に手を動かす。いつの間に回る換気扇の騒々しさが、耳に融けるまま。






次第に立つ香りは二人の腹を空かせる。フライパンいっぱいの料理が、皿に盛られていく。


狩人は食事の時、正面の花瓶や褪せた写真と睨み合っていた。いつ振りだろうか、正面にそれの見えない食卓は不思議と嫌でなかった。

写真の代わりに、今まで見なかった人を見る。操られるカトラリーの音は、自分とは別にもう一つ意思を持って聞こえていた。


「美味しいね。私、これ好きだな。なんていうか家庭的、って感じ」


独りの夜ではもう無かった。つつくフォークは速まり、それが照れ隠しであることは自覚できた。そして、目の前でその様子を観察していた子供が、それを薄っすらと悟っていたことも。


食べ終わって、狩人は残り香だけ盛られた皿を下げていく。

やはりスガルが傍についてきたが、狩人は着替えを見繕ってやり、風呂に入るよう伝えた。そして、一人台所に立った。


ハンドルを捻り、水を出す。洗われるのを待つ皿は、いつもより流しを閉塞的に演出した。

スガルのことが気にかかった。

擦っては泡を流し、籠へ移していた手は、気付けばタオルを手に取っていた。


その存在には謎が多すぎて、何から考えれば良いものかと観照は牛歩であった。ひとまず繭を調べるのも良さそうだ。明日にでも見に行こうか。

既に狩人の手は止まり、皿は綺麗に籠に並べられていた。それらを棚へ押し収めてやり、大きく息を吐いた。


狩人はふと、正面の褪せた写真を手に取った。

そして眼光は何を想ったのか、しばし静止する。静寂の中、写真の埃を払ってやった。狩人は額を伏せて置き、倉庫の整理へと向かった。

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