距離――嘘の別れ
その夜は、いつもの順番で歩き、いつもの角で立ち止まった。
門灯の光が二人の影を重ねて、ほどく。
私は手袋を外して、指先を息で温める。
言葉を出す順番を、何度も練習した。
「……話がある」
私の声が、冬の空気で小さく固まる。
彼は頷く。
「うん」
台詞は、短く。
約束どおり、10語以内×2往復。
「自分に集中したい。少し、会わないでいたい」
「わかった。勉強に集中する。……終わったら」
「そのとき、また話そう。今は、ここまで」
「うん。君のこと、覚えておく」
言い終えると、世界のボリュームがさらに下がった。
静かすぎて、心臓の音が聞こえる。
スン、そして、コト。
彼がポケットの中で何かを握りしめる小さな音。
笑う練習をしてきたのに、笑えなかった。
彼は、笑った。
「大丈夫。受験が終わったら」
「うん」
それは約束の形をしていた。
けれど、私の胸の奥では、細い氷が長く鳴っていた。
別れたあとの帰り道は、足音がひとつだけになる。
公衆電話の前を通り過ぎると、受話器の影が床に長く伸びている。
私はまたコインを一枚入れて、押し戻す。
チャリン。
戻ってくる音で、泣かない自分を確かめる。
部屋に戻ると、ケトルがいつもより大きな音で沸いた。
湯気が窓に白い花を描いて、すぐに消える。
机の上には、彼が忘れていった0.5ミリの替芯。
指で転がすと、かすかな音がする。
覚える、忘れない。
どちらも、今夜は痛みの形をしていた。
翌日から、帰り道は習慣を失った。
バイトの裏口を出ると、空気は同じように冷たいのに、風の向きだけが違う気がする。
川沿いの水面が硬く見える。
私は歩幅を速めたり、遅めたりして、自分だけの速さを探した。
見つからない。
彼と覚えた速度は、二人でないと起動しないらしい。
夜、布団の中で目を閉じると、耳の奥に空白が広がる。
スンと静まるはずのところで、音が戻らない。
代わりに、遠い踏切が永遠に手前で鳴り続ける。
私は枕元にメモ帳を置いて、短い文をいくつか書いた。
——会わない日の数え方
——覚えることと、忘れないことのちがい
——終わったら、の先に何を置くか
ペン先が止まる。
窓の外で、誰かの足音が遠ざかる。
ひとりでいる部屋の温度に、私の体がようやく馴染み始める。
息継ぎは、まだ下手だ。
でも、今はそれでいい。
そう言い聞かせる言葉が、今夜だけは、嘘でない気がした。
——
次回 冬の受験
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