忠告の夜

魚屋のシャッターが降りきる前、商店街の端にある自販機の前で、彼の友人に呼び止められた。

缶のプルタブを引く音が、夜の最初の合図みたいに乾いて響く。


「ちょっとだけ、いい?」

彼はいない。予備校帰りらしい友人は、私に缶を差し出して、言葉を探してから続けた。

「本人は言わないと思うから、俺が言う。……少し距離を置いてほしい」

缶の口から白い息が立つ。

「受験、本番が近い。あいつ、君が好きで、全部そっちへ行く。

 でも、今は、勉強へまっすぐ行かせてやってほしい」


私は缶を受け取るふりをして、受け取らなかった。

胸の中の水位が音もなく上がる。

「わたしが、邪魔?」

「違う。君は光だよ。ただ、眩しすぎると見えなくなる文字がある」


商店街の外れを風が抜ける。

遠い踏切が鳴って、世界の音が一瞬だけいつもより低くなる。

スン。

静けさはやさしいのに、今夜の静けさは、どこか冷たかった。


「……わかった」

それしか言えなかった。

彼の友人は小さくうなずいて、缶をゴミ箱に入れる。

「ごめん。俺からはこれだけ」


一人で川沿いを歩く。

手袋の中の指先が乾いて、コインを触る癖が戻ってくる。

公衆電話の箱が街灯の下で四角く光り、硬貨口の金属が薄く冷たい。

私は一枚だけコインを入れて、受話器を持ち上げる。

誰の番号も押さないまま、しばらく耳に当てて、返却ボタンを押す。

チャリン。

戻ってくる確かさだけが、今夜の私を支えてくれた。


寮の門灯の下、見上げた空は乾いている。

「距離」

声にすると、言葉はやさしく聞こえる。

でもそれは、梯子ではなく、薄い刃だった。

息継ぎの方法を探す前に、私はひとつの決心をする。

——私から、嘘をつこう。

彼の勉強のため、と言えば、たぶん傷は浅い。

浅くて、長く残る種類の傷だとしても。


――


次回 距離――嘘の別れ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る