溺愛の水位

冬が深くなるのに合わせて、私たちの習慣も少しずつ増えた。

帰り道のあとに、寮の部屋で温かい飲みものを分ける。

マグカップは二つ。片方は取っ手に小さな欠け。

彼は必ず欠けたほうを選んだ。

「持ちにくくない?」

「覚えやすいから」

小さな不便を、印として手の中に残したがる人だった。


机の上には、彼の参考書と、私のノート。

ページが進む音と、湯気が消える速度。

勉強の合間に、彼は床の上で伸びをして、窓の外を見た。

「君の部屋、静かでいいね」

「うるさい日もあるよ。洗濯機が暴れる日とか」

「じゃあ、それも覚えておく」

覚える、が彼の口癖になっていた。

私はその言葉に、胸の水位を上げられる。


ある晩、彼は参考書の余白に小さく「君」と書いた。

「なにそれ」

「目標」

「やめてよ」

笑いながら言って、写真みたいにそのページを目に焼き付ける。

私の名前は書かれなかった。

それが良かった。

秘密は言葉にならないほうが、長く続く。


夜が深くなると、外の階段が冷えて、金属の音が少し高くなる。

隣の部屋の笑い声が止み、廊下の灯りがひとつずつ落ちる。

それでも、私たちは話し続けた。

「将来どうしたい?」

「まだ決められない。でも、あなたに“おかえり”って言える人になりたい」

「じゃあ、帰ってくる」

さらりとした約束が、部屋の空気を柔らかくする。


彼はよく笑った。よく褒めた。

「その髪留め、似合う」

「今日の君は、言葉の選び方がうまい」

私はそのたびに、ゆっくり沈む。

うれしさの重みで、深いところへ。

そこは温かいのに、息継ぎの仕方だけが分からない場所だった。


気づけば、会わない日は数えられるほどになっていた。

彼は勉強を終えるたびに来て、私はバイトのたびに会った。

予定は互いに合わせて、生活は二人用に折りたたまれていく。

それを“溺愛”と呼ぶことを、まだ知らなかっただけだ。


週末の帰り道、川沿いの風が強かった。

彼は私のマフラーを指先で整えて、ほどけないように結び直す。

結び目が喉の手前で軽く触れて、息の道が細くなる。

この感じ。

私は胸の中で言葉を探した。

「幸せ」

「うん」

彼は迷わずうなずき、空をひとつ見上げる。

星は見えなかったけれど、見えるみたいな顔だった。


その夜、廊下の先で小さな足音が止まった。

ノックはしない。けれど、誰かがそこにいる気配。

ドアの向こうでささやく声がして、すぐに遠ざかる。

私はカップを持ったまま、彼を見た。

彼は笑って首を傾ける。

「気にしない」

「うん」

気にしない、は便利な魔法だ。

けれど、魔法はいつか解ける。


別の日、彼の友人とすれ違った。

商店街の角、灯りが薄くなった時間。

「勉強、どう?」と私が言う前に、友人は冗談のような顔で彼の肩を叩いた。

「天才は恋してても受かるんだっけ?」

笑っている。けれど、少しだけ硬い笑い方だった。

彼は笑い返す。

「覚えるの、得意だから」

私も笑った。

笑いながら、胸の中で水位が一段上がる。

重さが増すたび、呼吸の形を確かめる。


夜、部屋で湯気が立つ。

ケトルの音が、初めて少しだけうるさく感じた。

「大丈夫?」

彼が覗き込む。

「うん」

大丈夫、の中に、言えないことが少し混ざる。

これ以上深く潜る前に、どこかに梯子が欲しい。

そんな考えが、湯気に紛れて天井へ消えていく。


帰り道の終わり、門灯の下で手を振る。

「また明日」

「また明日」

二人の影が重なって、ほどける。

その瞬間、遠くで踏切が鳴った。

信号の赤が、私の喉の奥にやわらかく映る。

水位は胸まで。

息継ぎの仕方を、まだ知らないまま、夜が更けていく。


——


次回 忠告の夜

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