同じ帰り道
商店街のシャッターが半分降りて、魚屋のホースから細い水が流れていた。
バイトの名札を外してポケットにしまうと、彼が少しだけ誇らしげに手を上げる。
「終わった?」
「うん」
それだけで一日分の雑音が薄くなる。
私たちはいつも同じ順番で歩いた。
商店街を抜ける。乾いた段ボールの匂い。
横断歩道で二度だけ立ち止まる。信号待ちの間、彼はその日覚えた英単語をつぶやく。
「obvious」「recover」
私は復唱して、笑う。
「覚えるって、こうやって口に出すのがいちばんだって先生が」
「うん。君の声で覚えるの、ずるいくらい効く」
川沿いに入ると、風が少し冷たくなる。
柵の錆びた色、アパートの灯り、遠い踏切。
彼はときどき、歩幅をわざと合わせてくる。私が早足になれば、彼は靴ひもを結び直すふりで速度を落とす。
何も言わなくても、同じ速さの仕方を少しずつ覚えていく。
「今日、何食べた?」
「まかないの焼きそば」
「君の部屋の電気、オレンジっぽいよね」
「寮の備えつけがこれしかないの」
話題は軽い。軽いけれど、胸の中では水位がすこしずつ上がっていく。
喜びの重みで息が深くなる。息継ぎの仕方を、まだ知らない。
学生寮が近づく角で、いつも一度だけ立ち止まる。
公衆電話の箱が街灯の下で光っている。
私は指でコインを回して、硬貨口の縁に押し当てる。
鳴らない音を確かめるみたいに。
「今日も?」
「ううん。今日は、覚えておくだけ」
覚える。忘れない。その二つのあいだに、私たちの一日が収まっていく。
寮の門灯の下で、彼は手を振る。
「また明日」
「また明日」
それだけで十分なのに、十分じゃない気もする。
部屋に戻ると、ケトルが小さく唸り、湯気がカーテンに触れて揺れた。
窓を少しだけ開けると、外の空気にさっきの帰り道が混ざって入ってくる。
世界の音量は、今夜も少し低めに固定されたままだ。
ベッドに横になると、思い出が時系列を変えて並び直す。
文具店の鈴の音。0.5ミリの芯。英単語の反復。
そして、視線が重なった瞬間の静けさ。
胸のどこかが、また小さく沈む。
スン。
眠りの手前で、その音をもう一度聞く。
ーーー
次回 溺愛の水位
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