公衆電話の横を通る日
篠田あきよ
通知
※この作品には性暴力に関する言及があります。
画面の隅で、白い吹き出しが跳ねた。
その瞬間、胸の奥でスンと音がする。
世界のボリュームが、一段だけ静かになった。
——見つけた。ずっと探していた。
指が止まる。呼吸が、ひとつ空白をつくる。
私は歩いていたはずなのに、足が公衆電話の横で止まっていた。
もうコインは要らないのに、ここだけ時間が昔の色をしている。
ためしに一枚だけコインを入れて、すぐ返却ボタンを押す。
チャリン。戻ってくる確かさが、心臓を撫でた。
「返事、どうしよう」
声に出してみる。笑ってみる。
心の準備は、昔よりゆっくりだ。
目を閉じると、遠い踏切の音が聞こえた気がした。
あの季節の帰り道、同じ速さで歩いた夜。
言葉にする前の静けさを、私はまだ持っている。
通知をもう一度ひらく。
送り主の居場所には、はっきりと地名があった。パリ。
——彼はいま、パリで事業を広げる起業家だ。
夜明けの窓から世界を見て、違う時差で暮らしているのだろう。
私は、ひと呼吸おいて打つ。
——元気。あなたは?
青い線が流れていき、画面が呼吸するみたいに明滅する。
冬の空気が頬に触れて、記憶の端が少しだけ温かくなる。
スンという音は、耳ではなく、胸の内側で鳴る。
その音に合わせて、私は歩き出した。
昔と少し違う速度で。
溺れる前に、息継ぎを覚えた今の速度で。
ポケットの中のコインが軽く鳴った。
返ってくる音がある限り、やり直せる会話も、きっとある。
画面が震え、時差を連れた返事が届くまで、私は交差点をもう一つ渡る。
——
次回「目が合う音」
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