屋上で待ってます

中村ハル

奈落に向かって

 時間ならば無限にあると思っていた。

 いや、少なくとも、あいつが消えてなくなるまでには長い時間がかかるだろうと、覚悟していた。

 俺はあいつの耳元で、聞こえぬ恨みつらみをぶつぶつと呟き、あいつが消耗し摩耗して、俺がそうしたように裏ぶれたビルの屋上から薄暗い路地向けて飛び降り、無様に外壁にあちこちをぶつけて折れ曲がり、地べたに叩きつけられて汚く死ぬのを嗤って見届けてやるはずだった。あいつが一番の幸せの絶頂にある時に。

 だから、俺は時間をかけて、あいつの周りから災難や不幸を招くものを遠去け、あいつに害なす輩を呪って弱らせ、ここぞという時に必要な情報を耳に流し込み、あいつが死ぬ時により惨めな気持ちになれるように、段取りを整えた。あいつは見る間に出世し、人望も厚く、運が良く、魅力的な伴侶も得た。当たり前だ。俺がそう仕向けたのだから。

 それなのに、あいつは。

 際限なくより良い幸福を求め、さらなる地位を目指し、貪欲なまでに世のため人のためになろうと努力も希望も願望も、ひとつの高みに辿り着いてはまた上を見上げた。

 さあ、ここらで恨み言を、と俺が息を吸い込むと、あいつは家族の団欒中に笑顔で部屋に引っ込み、不意に暗い顔をして「まだ、まだだ」と悲痛な声でひとり呟く。俺の恨みなど、何ひとつ聞こえぬような苦悶の顔は、磔にされたメサイアのようで、この世の人々の苦しみをその背中に負ったかのようだ。数多の人々の不幸を取り除こうとする者に、俺一人の個人的な恨みなど届くはずがない。

 俺はすっかり摩耗していた。

 こいつ、いつになったら満足するのだ。

 頭を掻きむしって横目で睨めば、あいつはこの世の終わりのような眼差しで頭を抱えて項垂れている。

 それでは駄目だ。あいつ自身の苦悩で死なれては、俺が死んだ意味もなければ、俺がこうしてあいつのために苦心した意味がない。時間と感情の無駄遣いだ。絶望させるために、もっともっと、幸せにしてやらなくては。

 そう思っていたのに。

 ある日あいつはあっけなく、ふらりと踊るように足がもつれて車道に飛び出し、車に撥ねられて死んだ。

 のんびりゆっくり時間をかけて、あいつを苦しめ全てを奪い、失意のどん底の最中で殺してやろうと思ったのに、幸福でも不幸でもない何でもない日に、死んだ。

 ぽっかりと、空白が生まれた。

 俺は、何のために死んだのだ。

 あいつを呪うことだけを考えてビルから飛び降り、あいつを幸福にするために死んでからの全てを費やし、あいつを不幸にするためにありとあらゆる方法を考えて今日までやってきたというのに。

 もう、何処にも行けない。これから、未来永劫、何も無いこの空間に、何の目的もなく、摩耗するまでたったひとりで永久に終わらぬ時間を過ごさねばならない。いや、死んでいる俺に、時間などは無い。あるのは限りのない無だ。

 どうすればいい。また、あの薄汚くて寂しいビルに登って、あの日のように惨めな気持ちで飛び降り、無様に身体をぶつけながら地面で潰れればいいのか。あいつを罵り、恨みながら。

 重くも軽くない身体を、これ以上ない重苦しい気持ちで引きずって階段を登る。一段、また一段。途中ですれ違った野良猫が背中の毛を逆立てて威嚇するのをやり過ごし、屋上の扉に手をかける。ぎい、と扉が軋んで誰もいない屋上に風に押し出された。

 ふらふらと灰色の床を進む。

 ぽっかりと口を開けた奈落が見える。俺が落ちて腐り始めるまで、5日も見つからなかったあの隙間。

 傾きかけた肩を、誰かが掴んだ。

「久しぶり」

「は?」

 斜めに傾いたまま振り返ると、あいつが撥ねられた時のままらしい血まみれの顔で笑った。

「何してんの、お前」

「何って、君がこの世の終わりみたいな顔してビルを登っていくから。エレベータ使えばいいじゃん」

「いや、だって」

 狼狽えた俺を、にやにやしながらあいつが屋上に引き戻す。

「寂しかった?」

「は?」

「僕は寂しかったよ。君はいつもそばにいるのに、辛気臭い顔して何も言ってくれないし」

「ちょっと待て。気づいてたのか」

 あいつは驚いたように目を丸くする。なぜだ。それは俺のすべき表情だろう。

「気づいてないと思ってたの? あれやこれやと僕のために色々してくれたのも君だろ。まいっちゃうな」

 照れたような顔で笑うが、血まみれなのでただ壮絶なだけだ。血で濡れた長いまつ毛の目が、俺を捉えて細められる。あいつの折れた指が、俺の手をそっと取って握りしめる。

「嬉しいよ。君は僕のことで頭がいっぱいだし、もうどこにもいけないし。さっき、もうここしかないって思っただろう。君はもう、ここから動けない。さあ、僕と一緒に何度でもこの階段を登って屋上に来よう」

 うっとりと手を頬に擦り付ける。

「君が僕で満たされるのを、ずっとずっと待っていたんだ」

 後退る俺の手を、あいつは容易くひらりと離す。

 俺の足が空を踏む。

 身体が奈落に落ちていく。

「大丈夫だよ、時間はいくらでもあるからさ。ずっと一緒だ」

 にっこりと、天使のような至福の笑顔が俺を見送る。

 俺の口から悲鳴が迸る。

 暗い奈落に落ちていく。

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屋上で待ってます 中村ハル @halnakamura

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