第2話 珈琲で乾杯。そして・・・

 前の車両から、ワゴンを押して若い女性がやってきた。車内販売である。

「それでは、珈琲5つ頂こうか」

 すでに消滅して久しい割には見るからに新しい日本陸軍の軍服を着た男性が、人数分の珈琲を注文する。終戦時には生れていなかったであろう若い女性が、淡々と珈琲を紙コップに注いでは各人の席に渡していく。

「無論、軍票ではなく日本国の通貨でお支払いしますぞ」

「ありがとうございます(汗)」

 目の前にいる謎の軍人さんにどう答えていいものかといささか戸惑いがちな若い女性、何とか自らの仕事を終えて特別室前まで歩きぬき、そこから再び折り返して前のグリーン車に向かって行った。

 列車は吉井川に沿って熊山を過ぎ、さらに片上鉄道との連絡駅である和気をスイスイと通過。県境越えへと、列車は少しずつ勾配を登っていく。しかし、蒸気機関車の時代のような必死さはない。この電車は最新型の交直両用電車に比べると使い古された分見劣りはするが、それでも岡山と兵庫の県境くらいの坂は何ともなく通過できる。さらに勾配をのぼり三石の大カーブを超え、列車はいよいよ船坂峠に挑む。蒸気機関車時代であれば列車によっては補機(峠越えを補助する機関車)を必要とする列車もあったが、この電車には無論そんなものは必要ない。


 珈琲を飲みながら、通路を挟んで5人の男女が談笑している。五反田四郎氏は一昨年前東京の勇者出版から小説を初めて商業出版で世に出した。それが今どきの若者たちに人気が出て、彼は一躍時の人となった。堀田繁太郎教授の専門は物理学であるが、一回り年上の兄英太郎氏が新聞記者であることもあり、また文学についての教養も一定持っている。そんなこともあって彼は大学の新聞部の顧問も助教授時代から務めてきたが、新聞部の企画で昨年の大学祭では五反田四郎氏を招聘して講演会を開いたため、そこで接点ができていた。この講演会には山藤氏も参加しており、堀田教授と山藤氏は五反田氏の来岡時に居酒屋で接待している。もっとも五反田夫人にとって岡山在住の堀田氏や山藤氏は初対面であるが、日独協会広島の秘書を務める金岡佐和氏は夫が広島大学教授で刑事法学者であるため、岡山には何度か来ており、その折に堀田教授と接点があったものの、山藤氏とは初対面である。

「あの、山藤さん、その軍服はしかし、新調されたのですか?」

「ええ、この度のためにね。祝ってくださる方は陸大の先輩ですが、この際陸軍大将に就任したことにしてやって参れとの仰せでしてね」

「陸軍大将ということは、陸軍大臣か参謀総長、もしくは教育総監、そのどれかもしくは複数の役職をという設定、されるのですか?」

 この質問は、作家の五反田氏。呆れるのを通り越してむしろ関心さえ示している様子である。

「そうですな、それでしたら参謀総長くらいを名乗っておこうかな」

「陸軍の役職も、名乗り放題の時代がやってきたようですね」

 堀田教授がいささか呆れがちに面白おかしく述べたところ、新陸軍大将はさらに面白く述べる。

「名乗らせる機関がすでに消滅しておるでしょうが、ならば、名乗ったもの勝ちでよろしいがな。例えば堀田君が文部大臣と名乗るとさすがに世の迷惑になるでしょう、今も文部大臣は制度上ありますから。ですが、陸軍はすでに解体されて久しいので、そこは大丈夫。ただ、陸軍大臣は内閣の組織における機関ですからさすがにちょっとね。防衛庁長官などと名乗るとそれはまずいことであるが」


 列車はすでに峠を越え、兵庫県へと入った。兵庫県入りして最初の駅である上郡を通過し、さらに列車は東へと進む。元赤穂鉄道との接続駅である有年を過ぎる富山側にセメント工場が国道の向うに。そのうち海が見えると、東岡山から分かれて海側を走ってきた赤穂線と合流。列車は相生を軽々と通過。山側には、建設途上の新幹線の高架がそびえている。あと十数分もあれば、姫路に着く。列車はさらに播州平野の穀倉地帯を快走している。竜野を過ぎると電車区をすり抜け、網干通過。ここには京阪神へと向かう電車が停留中。網干を過ぎ、まだ駅のない勝原の地をすり抜けた特急電車は英賀保も通過し、今も物議をかもしているという手柄山へのモノレールを横目に見つつ姫路駅の地上ホームへと入線した。

 姫路到着は定刻10時21分。1分停車の後、電車は定刻で発車。1号車の指定席に乗車してくる客はいない。恐らく前の自由席にはそれなりの客の出入りもあったであろうが、わざわざ指定席を取ってこの車両に乗り込むほどの客はいない模様である。特急電車は海側に建設中の新幹線の高架を横目に、市川をまたいでさらに快走を続ける。大阪までは、あと1時間少々。次の停車駅は、三ノ宮である。あとは大阪と終点の新大阪に停車するのみ。


 元パーラーカーの大窓の普通車指定席に、再び車内販売がやってきた。先ほどの車内販売の女性である。彼女はグリーン車扱の特別室の前で折り返し、五反田氏の坐る位置まで来て突如ワゴンを止めた。

「あの、失礼ですが、五反田四郎先生ですか?」

「はい、そうですが」

「私は日本食堂大阪営業所に勤めております、近本文子と申します。五反田先生の出された「開かれし孤独」、去年読みました」

 ちかもとふみこ・・・。

 その名前、確かに五反田氏には聞き覚えがあった。

 彼のもとには若い人からの手紙がこのところよく来るようになっていたが、その中のひとつが彼女からのものであった。彼女は今年で23歳になる。1歳年下の大学生と交際しており、彼が大学を卒業すると同時に結婚する予定と言っていたな。

「あなたが近本さんね、神戸大学の学生さんと交際されていると書かれていましたね。あなたたちの出しあったお手紙、読みましたよ」

「ありがとうございます。彼、五反田先生にお会いしたいと申しておりまして、この夏休みにも先生の広島のご自宅に伺いたいと」

「それは構いません。彼によろしくお伝えください。何ならあなたも広島への勤務があるときを狙って彼と一緒に来れるようなら、それも良いでしょう」

「わかりました。彼にさっそく今日勤務が終わったら会いますので」

 彼女はそれまで以上に足取り軽く、前の車両へとワゴンを押して去って行った。

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