どうせ誰にも愛されないー喪失令嬢と失恋術師の災婚ー

稲井田そう

第1話

 その日、娘はよく晴れ渡った夏空のもと、街中を駆けていた。


 石造りの溝には昨晩、街を包んだ雨露がたまり、娘の靴を濡らしていく。浅い呼吸を繰り返しながら活気ある市場をすり抜け路地裏に入り込めば、通りには雨上がりの爽やかな香りとは程遠く、湿ってかび臭い、暗く陰気な別世界が広がった。辺りは勤めを終えた娼婦や酒浸りの男たちが煙管をくゆらせ、濁った空気が漂っている。


「待て! 物盗りめ!」


 娘を追う男たちは、娘の手に握られるいくつもの首飾りを求め泳ぎもがくように走っていた。裏通りに入ったとたん足を動かしながらも娘めがけて何度も詠唱を発するが、指先から放たれる閃光は、あと少しのところで当たらず、無造作に置かれた酒の木箱や芋の入った袋に命中し足場を悪くするばかりだ。


 一方商人から貧しい娘に所有者を変えた赤い宝石の首飾りは、かすかに届く日の光をいくつも受け、悠々と反射している。


 この国、和葉わよう国は古から伝わる妖力によって発展してきた国である。国民の誰しもが一定の妖力を有し、それらを用いることで人々は妖魔と呼ばれる人ならざる化け物に打ち勝ち、暮らしを豊かにしてきた。だからといって、貧しさがないわけではない。食うに困らない華族もいる一方で、宝石商から一瞬の隙をついて首飾りを盗み、放たれる妖術をよけながら街を駆けることを日常としなければ、生きていけない娘もいる。


 首飾りを盗んだ娘は、つま先やかかとを泥で汚し、頬をすすだらけにして骨ばった腕を一生懸命動かしながら自分の住処へと急ぐ。


 しかし、懸命に走っていたがとうとう後ろの追手が放った閃光が脛をかすり、裏通りに出るあと一歩のところで倒れてしまった。


「くそ、手間取らせやがって!」

「宝石は無事か? 傷はついてないだろうな?」


 男たちは転がる娘を足で蹴飛ばし、首飾りを確認する。商品に傷がないことに安心して、さらに娘にもう一蹴り浴びせようとした――次の瞬間。娘に商人たちとは別の影がさした。


「なんて無粋な真似をしているのですか」


 凛として、それでいて冷えた声に商人たちの身が一瞬にしてすくむ。自分の周囲の空気が変わったことを感じた娘は、額から流れ出た血で目がかすみながらも自分を抱き起そうとする者を視界に入れた。その人物は、透き通るような空色の瞳をして、丹念に櫛で梳かしたのが分かるほどに光を纏いさらさらと流れる白い髪をした青年だった。白の軍服を纏い、銀縁の眼鏡をかける涼やかなまなざしが野菊を一瞥し、その後、商人に向けられる。


「ま、待ってください白蓮びゃくれん様、その子供は宝石を盗んだ泥棒で」


 商人は娘の罪状を告げる。ああ、今すぐ振り落とされるかもしれない。娘はこのまま固い地面へと叩き付けられることを覚悟したが、白蓮と呼ばれた青年は娘を立たせてやると、商人たちに真っすぐ向き直った。


「だから何だというのです。泥棒というのなら、拘束してそこらの軍人に引き渡すべきでしょう。裏路地に追い詰め、蹴り倒していい道理にはなりません」

「その子供が勝手に逃げたんです」

「では何故衛兵を呼ばないのですか? 妖術をむやみに使用して、火災を起こしたら責任を取れるのでしょうか? 市民が不用意に攻撃妖術を使わぬよう、兵がいるのでは?」


 理路整然とした青年の言葉に商人は口ごもった。間髪入れず、青年は問いかける。


「兵を呼べない理由は、これですか?」


 青年が詠唱を始めると、娘の手に握られた宝石は光を放ち、鳥が卵から孵っていくように 赤の輝きを崩し、澄んだ瑠璃色の結晶へと姿を変えた。


「この国で装飾品としての扱いは禁止されている石ですよね」


 青年は商人たちを拘束する妖術を放つと、一瞬にして男たちは光の輪によって腕を縛られた。呆然とする娘を前に青年は安心させるように笑いかける。


「君を軍人に引き渡すには、腕が足りませんね。僕はあの二人をつれていかなければいけませんから」

「えっ……」

「でも、もう盗みなんてしてはいけませんよ。悪いことをすると、人を傷つける。そして君自身、こうして危険な目に遭ってしまいます」

「……」


 娘は、口ごもり目を逸らす。今日は、失敗した。こうして危険な目に遭ったといえど、明日同じことを繰り返す気だったからだ。青年はそんな彼女の想いを察したように、自分の耳につけた飾りを取り、握らせた。


「どうか売ってください。質のいいものですから、きっと盗みなんてしなくてもよくなるはずです」


 娘は自分の手のひらにのった耳飾りを見て、目を瞬かせる。優雅な金細工で海色の結晶を幾重にも囲い揺れるそれは、彼女の手にはやや大きい。


 青年は少し道化じみた声で呪文を唱えると、縛られた商人たちの足元に妖術陣が浮かび上がった。彼は娘から身体を離し、発光する輪をまたいでいく。すると瞬く間に輪は光度を増し、周囲に向かって風を起こし始めた。


「あの」

「では、僕はこれで」


 青年が手を宙に向かって伸ばし、空へ合図を出すように呪文を唱える。輪は流れるように回転し、小さな粒子を纏って眩むほどの光を放って青年や商人を伴い消えた。


 残された少女は耳飾りを握りしめながら、今まさに青年が足をつけていた場所をじっと眺め、立ち尽くす。「白蓮、さま」 耳飾りを握りしめた娘――野菊が、そっと呟く。箱に大切にしまうように、優しく、きちんと思い出に残せるように。やがて彼女は踵を返し、通りを駆けて行ったのだった。


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