#4〖幸せ〗

 桜庭さくらばさんは「ごちそうさま」と言って席を立って、鞄を肩にかけた。

「じゃあ、私帰るわね。私がいたら邪魔だろうから」

「え、ちょっと待ってくださいよ……」

「お見送りはいいから、じゃあね」

「ちょっと……!」

 相変わらず勝手な人だ。自分がこうだと思ったら行動に移すまでがあまりにも速い。


 静かなリビングに一人と一匹。得体の知れない緊張感からダラダラと冷や汗が流れる。椅子を引くと、ヒスイがももに飛び込んできて座った。撫でようとすると、顔を上げたヒスイと視線が交錯した。その目は、僕が家事をサボっていた時に向けられるものと全く同じものだった。「何でやらないんだ、早くしろよ」とでも言いたげな冷たい視線。


「……分かったよ」


 ヒスイを床に座らせて、その正面に僕は正座する。

「今から僕はお前を汐香と思って話す」

 ヒスイは相変わらず冷たい視線のまま、先を促すように大きなあくびをした。僕は深く息を吐いてから、おもむろに言葉を紡ぐ。

「……まずは、本当にごめん。僕が汐香から借りた小説を二ヶ月も返さなかったこと、あの時汐香だけが悪いみたいな言い方して、本当にごめん」

 床に手をついてヒスイに深く深く頭を下げる。でも。

「……でもさ、汐香は知ってただろ……。僕が本読むの遅いこと。なのにあんな言い方することなかったでしょ。あんな言い方されたら誰だって腹立つよ……」

 僕の話を聞いて、ヒスイは分かりやすく不機嫌な顔をした。

「……何だよその目。自分は謝ったとか言うつもりか?汐香は僕が謝る度、何を悪いと思ってるのって訊いてきたけどさ。汐香は謝る時に何を悪いと思ってるか言った?言ってないじゃん……。人に言う前に自分が出来ないとだろ」

 あまりに稚拙ちせつな言い分だ。分かってる。分かってるけど、もう言葉は止まらない。今まで溜め込んできた言葉は、もう。

「お前、何で勝手にいなくなるんだよ……。僕、汐香のことが本当に好きだよ……。帰ってきてよ、そんな簡単に死ぬような人間じゃないでしょ汐香は。本当は死んでないんでしょ……?」


 もっと優しい言い方をしろよ。何でこんな、乱暴な言い方しかできないんだよ。また後悔するのか?また、同じことを繰り返すのか?

 涙が抑えられなくて僕は俯いた。掃除をしたばかりの綺麗な床に雫が落ちて、弾ける。目の前にいるのは一匹のネコのはずなのに、僕は顔を上げられない。おぼろげな視界の中で、見慣れた床をただ見つめていた。


「……ごめんね」


 その声が誰のものか瞬時に理解して、息が詰まって、上手く声が出せなかった。

「汐香……?」

 涙を掌で拭って顔を上げると、そこには艶のある長い黒髪と、夜のように真っ黒な瞳を持つ少女がいた。

「何で……」

 少女は泣いていた。僕に負けないぐらいの泣きっぷりだった。

「……ごめん」

「『ごめん』じゃ分からないって……。何が悪いと思ってそんなに謝るんだよ……」

「全部だよ、全部。迷惑しかかけてないもん私、本当にごめんね……」

 涙に濡れた声で搾り出すように彼女は言った。

「あなたを一人にしたくなかった、ずっとそばにいたかった。……織都くんの奥さんになりたかった。ごめんね、本当に、ごめんね……」

「僕だって、ずっと一緒にいたかった……。汐香は悪くない、謝ることなんてないよ」

「ありがとう……」

 汐香はそう言って、見惚れてしまうほど美しい泣き笑いを浮かべた。


「ねぇ織都くん」

「ん?」

「好きだよ、ずっと大好き」

「僕も、大好きだよ。汐香以外を好きになるなんてあり得ない」

 彼女は涙を流しながら、目を糸のように細めてだらしない笑みを浮かべた。

「ええ嬉しいけど困るなあ。私、織都くんには幸せになって欲しいよ」

「大丈夫、幸せになるよ」

「信用できないなあ、織都くん口ばっかだから」

「喧嘩するか?」

「もう喧嘩はこりごりだよ」

 汐香はそう言って笑った。

「久々にどう?」

 そう言って自分の膝を指差す彼女。

「……それじゃお言葉に甘えて」

 彼女の膝に頭をのせて横になった瞬間、急に眠くなってきた。ぼんやりとした意識の中で汐香の優しい声だけが聞こえた。

「また会えたらいいな。……またね、織都くん」

 その声を最後に、僕の意識は微睡まどろみに落ちていった。


 ようやく目覚めた時にはすでに十八時だった。貴重な日曜日の午後を僕は睡眠で消費してしまったらしい。

「……あれ」

 ヒスイが見当たらない。机には翡翠のネックレスだけが残されていた。

「そっか……」

 何となく察した。きっと、この家にもうヒスイはいない。ヒスイが汐香その人だったのか、汐香の代わりにヒスイが来たのかは分からないけど。


「ありがとう、頑張るよ」

 幸せになってみせる。彼女への想いはもう実ることはないのだとしても。何年経っても、何十年経っても、僕は変わらず君に恋してる。

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翡翠のエレジー 雨乃りと @r0000

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