最後の勝負
敷知遠江守
負けられない一戦
ポーンの駒を一つ前のマスに進ませる。
ある刑事ドラマを二人で見ていて、思わず衝動買いしたクリスタルのチェス。
あれから何度勝負を挑んだか知らないが、ここまで数えるくらいしか目の前の女性には勝てていない。
目の前の女性もポーンの駒を前に動かす。
「コーヒー淹れて来るけど、飲む?」
駒を動かしてすぐに彼女がたずねた。その顔に笑みは無い。
スリッパをパタパタと音をさせて台所に向かう彼女。
とにかく彼女は頭の回転が早い。俺は駒を動かすためにじっと考え込むのに、彼女は自分の番が来たらすぐに駒を動かしてくる。そして、細い腕を組み、細くて長い脚を組み、無言で急かして来る。
彼女がコーヒーを二杯持ってやって来る間、結局俺はずっと考えたままであった。
”もう、あなたといる事に疲れちゃった”
彼女が席に着いたのを見て、ナイトの駒を動かす。するとすぐに彼女はポーンの駒を動かした。
恐らく彼女が友人の女性たちと先月ハワイに行って買ってきたコーヒーだろう。カップからほんのりとバニラの甘い香りが漂ってくる。
”結婚がこんなにつまらない事だなんて思わなかった”
コーヒーに口を付けた彼女が、無言でこちらを観察している。早く打てという無言のプレッシャーが肌に突き刺さる。
「俺は楽しかったよ。一緒に過ごした日々。どんなゲームをしても全然勝てなかったけど、だけど一緒に遊んでいるって時間が楽しかった」
そう言ってポーンの駒を動かすろと、すぐさま彼女はビショップの駒を動かした。
静寂がリビングを包み込み、ただただ時計の針の音だけが無機質な音楽を奏でる。
”独身の友達は、皆楽しそうなのよね。ほんとハズレ。無駄な時間だった”
彼女がコーヒーを飲むたびにバニラの甘い香りが漂ってくる。
俺がポーンを動かすと、彼女はビショップの駒を動かして来た。すかさずナイトでビショップの駒を取る。
してやったりの顔をして彼女を見ると、口をへの字にして呆れ顔であった。
あっさりと俺のナイトは彼女のナイトに取られてしまったのだった。
”頼む。最後に一回だけ、俺とチェスをやってくれよ。俺が勝ったら、もう一度考え直してくれないか?”
そこからも俺がじっくり考えて駒を動かし、その後彼女がすぐに駒を動かすという状況を繰り返した。その間彼女は無言。
頭の悪い俺でも一手毎に盤上の劣勢が感じ取れる。
「ありがとうな。ご飯いつも美味しかったよ。ハンバーグが美味しくって、俺いつも楽しみにしてたよ。ビーフシチューで煮込んだハンバーグは絶品だった。もう一度食べたかったな」
彼女との残り時間が一手毎に少なくなっていく。その寂寥感が思わず口を突いて出てきてしまう。
彼女は変わらず俺に興味は無いとでも言わんばかりの態度でコーヒーを飲んでいる。
「トイレ掃除サボって、ごめん。月に一回はお出かけするって約束、守れなくて、ごめん」
若干震える指が動かすルークの駒を彼女がじっと見つめる。ここまでポンポンとテンポ良く駒を動かしていた彼女が、少しだけ悩んでから駒を動かした。
「昔見に行った足利の藤棚、覚えてる? あれ、綺麗だったよな。確か、夜にドライブついでに行ったんだよな。そしたらさ、ライトアップされててさ。また行こうって言ってて、そのままになっちまってたな」
絶望的な顔でナイトの駒を動かすと、彼女は一端ナイトの駒を手にし、少し迷ってからクイーンの駒を動かした。
結婚する前から二人の給料には格差があった。
彼女は大企業勤務。俺はといえば、決して小さい会社なわけではないが業績が芳しくない。
彼女は残業はあるものの、土曜、日曜、祝日はしっかりと休みが貰える。俺はといえば祝日なんてものは無く、土曜も日曜も出勤の事が多い。
順調に給料が上がる彼女、ほぼ据え置きの俺。
いつの頃からか二人の間にはすれ違いが生まれていた。
そしていつの頃からか二人の間に隙間風が吹き抜けていた。
お互い無言。コトコトと駒を動かす音だけが二人の間でこだまする。
先ほどから駒を置くたびに、彼女が小さくため息を付いている。仮にも一度は愛し合った仲なのだから、そんなに嫌う事無いだろうに。
コーヒーを飲み、バニラの香りを鼻腔に取り入れる。少し頭がすっきりとするのを感じる。
すっきりした頭で盤上を見ていると、ふいに気付いてしまった。後一手、クイーンを動かすだけでチェックメイトだという事に。
彼女の表情を確認しながらクイーンの駒を動かす。
「チェックメイトだよ」
観念したのか、彼女は特大のため息をついた。
「……あのね、もうずいぶん前からあなたは後一手の状態だったのよ。いつになったら気付くんだろうって思ってたの。ほんとにもう」
最後の勝負 敷知遠江守 @Fuchi_Ensyu
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