時輪の記 第7話 不平等の和平 ― ポーツマスの幻影

@Shinji2025

第7話

――白い光が引き、冷たい潮風が肌を刺した。

赤煉瓦の街並み、教会の尖塔、港を滑る蒸気船。石畳の上では馬車の車輪がごとごと鳴り、英語の叫び声が行き交う。鼻に入るのは海の匂いと石炭の煤、そしてバターで焼いたパンの甘い香り。


胸ポケットの懐中時計が小さく脈打ち、AIスマホの画面が青白く灯る。

《米国ニューハンプシャー州ポーツマス。1905年8月。日露講和会議の開催地》


(ここが、戦争の勝敗が“言葉”で決まる場所か)


僕は深く息を吸い込み、ひとつ覚悟を決めた。

――今回は本気で歴史を変える。変えられなくても、最後まで足掻く。



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一 異国の朝、計画の骨組み


会場のホテルには黒山の記者。閃くマグネシウムの光、鉛筆と紙のざくざくという音。

「日本は賠償金をとるのか?」

「ロシアは譲るのか?」

飛び交う英語に混じって、低いロシア語と、緊張を噛み殺した日本語。


AIがささやく。

《日本は戦場で勝った。ただし国庫は逼迫。長期戦は不可能。ロシアは敗色濃厚だが、賠償金には断固反対》

(じゃあ“世論”と“資金繰り”を梃子にする)


僕は即座に三つの柱を組んだ。


1. 米国世論を日本寄りに強く可視化して交渉の空気を押す。



2. 金融の痛点を突き、ロシア代表ウィッテに“負けた時の損失”を数値で見せる。



3. 小村寿太郎の手元に、瞬時に使える英語資料と“国内説明用の台本”を補給し続ける。




「行くぞ」

懐中時計を叩いて、僕は雑踏へ溶け込んだ。



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二 狐と熊――小村とウィッテ


玄関前、人垣が割れて二人が現れた。

小柄でやせて、眼鏡の奥に鋼の光を宿す男――小村寿太郎。

白髪の大男で、腹の底から声を響かせる男――セルゲイ・ウィッテ。


「賠償金? 断じて不可」

ウィッテの英語は重く低く、周囲の空気を押しつぶすようだった。

小村は淡々と返す。「日本国民は、勝利の対価を求める。何も持ち帰れねば、政は立たぬ」

「政? あなた方の国内事情は、ロシアの知ったことではない」


(正面からぶつかっても、壁だ)

僕は記者群の後ろから身を乗り出し、咄嗟に声を張った。

「民衆は見ています。妥協の理由を、数字で示せば受け止める余地が生まれる!」

一瞬だけ、ふたりの視線が僕に刺さった。次の瞬間、憲兵に肩を押さえ込まれる。

「どこの誰だ」

「臨時補助の北條です。資料を渡すだけ、一分ください」


小村は短く頷いた。「一分」

僕はAIでまとめた紙束を差し出す。


米・英主要紙の論調サマリー(翻訳付)


日本の財政限界の数表(戦費・国債消化・金利推移)


“漁業権料/鉄道運営費”名目の“実質賠償”案



小村の眼鏡の奥がわずかに揺れた。「妙だな。……使える」

(刺さった)



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三 裏口の世論戦


僕はローカル紙の編集部にも飛び込んだ。

「Japan seeks dignity, not gold.(日本が求めるのは“尊厳”であって、金だけじゃない)」

編集長は目を細める。「で、証拠は?」

「ここに。病院での戦傷者写真、沿岸防備の費用内訳、市井の声。あなたの読者が心を動かす材料を全部」

「……お前、何者だ」

「名前はどうでもいいです。記事が出れば、それが答えです」


夕方には、社説の隅に太字の見出しが躍った。


> “Victory’s Price Is Peace”

――勝利の代償は、平和を買うことだ。




(よし、風は少しこちらに払った)



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四 金融の痛点を突け


つぎは金主だ。

僕は電信局でニューヨークの証券会社に電報を打ち、ポーツマスのホテルに来ている銀行家の名刺を拾い集めた。

「ロシアが長引けば債務の再編が必要になる。利回りの悪化、外債評価の下落。――あなたがたの顧客は嫌がる」

「誰だ君は」

「未来のクレームを減らす友人です」

胡散臭さは承知のうえだ。だが、数字は正直だ。利率と償還の表を置いてくる。


夕刻、ロビーでウィッテととある米系銀行家が低い声で話しているのを見た。

「……世論は日本寄りだ。長引けばロシアの信用はさらに悪化する」

ウィッテの眉が、ほんの一ミリ動いた。

(届いた。けど、折れない)



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五 交渉室――壁の高さ


会議室のドアが閉まる瞬間、僕は書記官の後ろに滑り込み、端の椅子を確保した。

小村は機械のように正確で、しかし消耗していた。

ウィッテは老獪。笑いもしない冗談で相手の矛をへし折る。


「賠償金は不可」

「名目を変えるのは?」

「不可」

「沿岸防備費として――」

「不可」

「ならば鉄道の運営費を――」

「不可」


(どこまで不可なんだよ……!)

僕はたまらず手を挙げた。

「漁業権の長期租借料は? 石炭供給契約に“前払い”を上乗せする形なら、実質の補填になります」

室内の視線が刺さる。

小村は一瞬だけ僕を見た。「……検討する」

ウィッテは薄く笑った。「小賢しい。だがそれでも不可だ」


壁は厚い。けれど、押した跡は残る。

(諦めない)



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六 国内への“台本”――大きな怒りを少しでも柔らげるために


夜、僕は小村の部屋に呼ばれた。

机には山のような資料、冷めたコーヒー、疲れ切った背中。

「さっきの案、採られない可能性が高い」

「……はい」

「それでも君の“国内向け台本”は使える。民衆の怒りを和らげる言葉は、国を救う」


僕は用意してきた紙を出した。


**“勝ったのに賠償がない理由”**の三段ロジック


1. 国庫と兵力の限界



2. 南樺太・漁業権・満鉄の価値の“見える化”



3. 将来の国際信用という見えにくい資産




首相演説の雛形


新聞向けQ&A(怒りの矛先を**政府の無能ではなく“大国政治の理不尽さ”**へずらすための言い回し)



小村は静かに頷いた。

「君は不思議な小僧だな。百年先を、よく見ている」

「今を生きる人の心も、同じくらい見なきゃいけないと思います」



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七 少年とスープと、夢の温度


厨房の裏口で、小柄な少年がうずくまっていた。

「大丈夫?」

「……平気っす」息は荒い。手の甲は洗剤で荒れ、制服は背中がつんつるてん。


「名前は?」

「トミー。トマス・オコナー。母ちゃんが洗濯で、ぼくがここで働いて……父ちゃんはいない」

「飯は?」

「残りものを、ちょっと」

(ダメだこりゃ)

僕は鍋を借り、厨房のスープを温め直した。玉ねぎとセロリ、鶏の骨。塩をひとつまみ、胡椒を少々。

「ほら。熱いから気をつけて」

トミーの目が丸くなる。「いいの?」

「代金は“未来の仕事”で払って」

「未来の仕事?」

「君、記者になりたいんだろ」

トミーが驚いて口を開けた。「なんでわかったの?」

「目つき。人を観察して、言葉にしようとしてる目だ」

彼は照れたように笑い、スープをすすった。

頬に色が戻る。

「記者って、どうやったらなれる?」

僕はポケットから鉛筆を渡した。

「五つのWと一つのH。Who、What、When、Where、Why、How。

 そして、自分の心が動いた理由を最後に一行、書き足す。それが君だけの“署名”になる」

トミーは真剣に頷き、鉛筆を胸ポケットに差した。

「いつか、その鉛筆で書いた記事を読ませてよ」

「うん。必ず」


AIが小さく囁く。

《彼は後年、条約の裏側を記す記者になる。市井の証言を粘り強く集め、歴史の足場を作る》

(よし。小さな歴史、ひとつ動いた)



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八 決死の“直訴”


翌日。会議は再開されたが、状況は動かない。

(なら、机の主を揺らすしかない)

僕は仲介役の米側スタッフに当たりをつけ、セオドア・ルーズベルトの側近へメモを託した。


東海岸での日本支持世論


ロシア外債の不安


戦争継続による米国経済への悪影響(海運・保険)



「大統領に届く保証はない」スタッフは肩をすくめる。

「届かなくてもいい。どこかで誰かが読む。それで空気が一割でも変わるなら充分」


さらに、僕は会議場前での“静かな集会”を仕掛けた。

宮崎――条約改正で出会った若い日本人記者に連絡を取り、現地の教会と相談して祈りの会を開く。

怒鳴り合いじゃない。ろうそくと、短いスピーチと、沈黙。

「憎しみの言葉より、静かな光の方が深く刺さることがある」

宮崎は苦笑した。「詩人かよ。やるか」


夜、教会前に人が集まった。

日本人、水兵、アイルランド移民の母親、ユダヤ人の職人。

ろうそくが風に揺れ、誰かが小さく歌い始める。

翌朝、地元紙の片隅に写真が載った。


> “They Prayed for Peace.”

――彼らは平和のために祈った。




(届いてくれ)



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九 最後の押し引き――そして、折れる音


最終盤。

小村は僕の“台本”を隅に置き、淡々とカードを切った。

「南樺太は割譲。沿海州の漁業権。満鉄の運営権」

「賠償金は」

「……求めない」


――沈黙。

ウィッテがはじめて、ほんの少しだけ息を吐いた。

「それならば合意だ」


(終わったのか)

椅子の背に体が沈み、心臓が遅れて痛みだす。

僕は机の下で拳を握りつぶした。

ここまでやったのに、変わらないのか。

資料を配り、世論を動かし、金融を突き、祈りを灯して、それでも。


小村が立ち上がり、ロシア側と握手した。

すれ違いざま、彼は囁いた。

「君の“台本”は、日本で人を救う。――それも、外交だ」

僕は唇を噛んで頷く。

(大きな歴史は動かなかった。 でも、人は救える)



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十 日比谷からの風


調印の翌日、AIが震えた。

《東京:日比谷焼打事件。群衆、官庁や新聞社を襲撃。負傷者多数》

目の前が揺れる。

(間に合わなかったのか)

いや、少しは届いたはずだ。

“台本”は政府に渡り、いくつかの言葉は実際に演説で使われた。

“完全には”抑えられなくても、火の手を小さくする言葉は確かにあったはずだ。


AIが続ける。

《一部地域で暴力の拡大が抑制。

 “説明会”形式での鎮静に成功した県あり》

(……よかった。ゼロと一は違う)



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十一 トミーのノート


ホテルの裏手で、トミーが駆けてきた。

「しんじ!」

「体調は?」

「元気! ねえ見て」

彼は胸ポケットから小さなノートを出した。

表紙には鉛筆で拙い字――“Five W and One H”。

中には、彼が見聞きしたことがびっしり。


> Who:小柄な紳士(小村)/大柄な紳士(ウィッテ)

What:握手。拍手は少し。外では沈黙。

Why:戦争を止めるため。

How:譲ることで止めた。

そして最後の一行。

「ぼくは泣きそうになったけど、スープみたいに胸が温かくなった」




僕は笑って、ぐっときた。

「上手い。署名ができてる」

トミーは照れ笑いし、きゅっと口を結んだ。

「いつか大きな新聞に書く。ぼくはこの日のことを、人の言葉で残す」

「絶対にできる」

握手した彼の掌は、小さいけれど、もう震えていなかった。


AIが囁く。

《彼は十数年後、移民の聞き書きや戦争の記録で知られる記者になる。このノートが第一歩》

(ありがとう、トミー。君の未来は、たぶん世界を少し優しくする)



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十二 もう一つの救い


廊下の隅、短い日本髪の女中が座り込んでいた。

「大丈夫ですか」

「……すみません。字が読めなくて。日本のお客さまの伝言が、伝えられなくて」

僕は紙を受け取り、丁寧に読み上げて書き直し、渡した。

彼女は涙をこぼして頭を下げる。

「これで、家にお金を送れる。首にならずに済む」

(小さな歴史、またひとつ)



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十三 別れの会釈


港へ向かう道、小村一行が馬車に乗り込む。

彼はふと振り返り、僕にだけわかるほど小さく会釈した。

「百年先を見よ」

風に紛れて、その言葉だけが耳に残る。


百年先。

その遥か先にいる僕らに向けた言葉のようにも聞こえた。



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十四 光の前で


夕暮れの港。

波がゆっくり岸を舐め、空は薄紫に沈む。

懐中時計が熱を帯び、針が逆回転を始めた。


(今回は、本気で“大きな歴史”を変えようとした。

――変わらなかった。でも、変えたものはある。)


銀行家の眉を、一ミリ動かした。


地元紙の社説に、ろうそくの写真を載せさせた。


政府の“言葉”に、火を小さくする工夫を忍ばせた。


そして、トミーのノートに、最初の署名を刻ませた。



針がカチ、と深く噛み合う。

世界が光る。

僕は次の時代に滑り出しながら、胸の中で小さくつぶやいた。


大きな歴史は、ひと押しでは動かない。

けれど、小さな歴史は、今日も確かに動いた。


(第七話 了)



---


史実あとがき


ポーツマス条約(1905)は、南樺太割譲・漁業権・満鉄の権益を得た一方で賠償金なしという結果に終わり、日本国内では「不平等講和」と受け止められ、日比谷焼打事件へつながった。

しかし、小国が大国と対等に戦争を終わらせたという事実は国際的信用を高め、のちの経済・外交の足場となった。


教訓は二つ。


1. **戦争の勝敗は戦場だけで決まらない。**会議室での一言一句が未来を左右する。



2. **大きな歴史は重いが、小さな歴史は軽く速い。**人の命、仕事、言葉、記録――それらを守る行為が、長い時間をかけて“地図”を少しずつ変える。




新仁が守ったスープ一杯、鉛筆一本、紙切れ一枚。

それらはいつか“百年先”で重なり、別の誰かの希望になる。


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