どうして
おへやぐらし
心から愛している
壱
「助けてください」
頬が痩せこけ、目の下に黒い
男の名前は
目の前に座る老僧は、シンの顔をじっと見つめ、それから彼の背後に視線を移す。
そこには長い黒髪で顔を隠した女が、シンの肩にしがみつきながら、ボソボソと何か呟いていた。
『どうして……どうして……どうして……』
単調なリズムで繰り返される言葉は、まるで壊れたレコードのよう。女から発せられる負のオーラが、寺の空気を重く淀ませ、息苦しさすら覚える。怨嗟と哀しみに満ちた女の姿に、老僧は深い諦念を抱いた。
「この怨念は、既にあなたと一体化している。切り離すことは不可能だ」
老僧の静かな声が、絶望を突きつける。
シンは唇を戦慄かせ、彼の法衣に縋りついた。
「そんな……あなた僧侶でしょ?お願いですから、何とかしてくださいよ」
老僧は首を振る。
「帰りなさい。そして……覚悟を決めなさい」
シンは呆然とした表情で立ち上がり、よろめきながら寺を後にした。背中の女——張り付いた怨念を背負ったまま重い足取りで去っていくシンを、老僧は後ろから見つめながら手を合わせ、お経を唱えた。
――
弍
深夜。ベッドに横たわっていたシンは、胸の圧迫感で目を覚ました。
時刻は午前2時22分。
毎晩、決まってこの時間にアイツが現れる。
長い黒髪がシンの顔の上に垂れ下がり、隙間からのぞくのは、目が血走り口元がひどく歪んだ、おぞましい女の形相。
『どうして……どうして……』
冷たい指が首に絡みつき、ぎりぎりと締め上げ、爪がシンの皮膚にゆっくりと食い込んでいく。
「やめろ……やめてくれっ………!」
シンは額から脂汗を流しながら、必死にもがく。だが、女の力は異様に強く、抵抗すればするほど締めつけが増す。
「お、俺が悪かった……許してくれ……」
シンは窒息で顔を真っ赤にし、涙を滲ませながら謝り続ける。だが力は緩まない。そんな口先だけの謝罪など何の意味もなさなかった。
やがて息も絶え絶えになったその時、締めつけがふっと緩んだ。胸元の圧迫感は消え去り、気がつくと、部屋には誰もいない。
毎晩続くこの悪夢のような出来事。
翌朝、鏡を覗き込むと、首元にはっきりと赤黒い指の跡が残されていた。
――
参
「彼女、まだ見つからないのか?」
会社の飲み会の席で、ビールジョッキを片手に尋ねてくる同僚・山田に、シンは乾いた笑みを向けた。
「……ああ。まあ、正直ほっとしてるけどな」
「ほっとしてるって……酷いこと言うな、お前」
山田が苦笑いする。
「だってアイツ、マジでストーカーみたいで気持ち悪かったんだよ。毎日何十回も電話してきて、会社まで押しかけてきてさ……」
(そうだ、俺は被害者だ。あいつが束縛しすぎたからいけないんだ。俺は何も悪くない……)
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
ピコン
突然スマホが通知音を鳴らした。
(あれ?通知は切ってたはずだが……)
画面を開くと、一件のメッセージが届いていた。
『どうして』
(は?誰だ?)
胸に嫌な冷たさが広がる。メッセージは、失踪した元カノ、
(ありえない。死んだはずだ……)
シンの手が震えだす。あの夜の記憶が脳裏に蘇ってくる。削除しようとすると、次から次へと新しいメッセージがやってきた。
『どうして私を殺したの』
『どうして嘘をつくの』
『どうして忘れようとするの』
『どうして他の女と』
メッセージが止まらない。シンは慌てて心愛のアカウントを長押しでブロックする。だが何故かスマホが反応せず、画面には絶えず文字が流れ続けていた。
「おい、新田?どうした?」
田中が心配そうに覗き込む。
「な、何でもない……」
シンはそう言って誤魔化したが、動悸が止まらない。
(なぜこんなことが……あれは事故だったんだ。俺のせいじゃない……)
心の中で必死に自分を正当化しようとするが、恐怖は増すばかりだった。
その夜、シンのスマホには計147通におよぶメッセージが届いていた。
全て同じ文言——『どうして』。
電源を切り布団に潜り込んだが、どうしてという囁きが頭からこびりついて離れず、眠れなかった。
――
肆
「ねえ、どうして?」
スマホを握りしめた心愛が、震えた声でシンに問い詰める。画面には、シンが他の女――会社の後輩・美咲と親しげに交わすLINEのやりとりが映し出されていた。
『今度の土曜、空いてる?』
『はい♡先輩とならいつでも♪』
『じゃあホテル予約しとくね(^^)』
『楽しみです♡♡♡』
それだけではない。シンが美咲とホテルに入る決定的な写真もあった。心愛の雇った探偵が撮影したものだ。
「……おい、勝手にスマホ見るなよ」
「だって……」
シンが動揺を隠そうと低い声を出しながら逆ギレすると、心愛はビクッと体を震わせ、涙をこらえながら懸命に訴えた。腰まで伸びた長い黒髪のひと房が、涙で濡れた頬に張り付いている。
「どうして?好きって言ったじゃん……。心から愛してるって……ねえ、どうして?」
ぽた……ぽた……
彼女の涙がポタリと落ち、カーペットに染みを作る。
確かに心愛は良い女だ。愛していた。艶やかな長い黒髪に色白の目立たない美人。料理上手で、面倒見がよく、一途でいつも自分のことを考えてくれて……。
だが、いざ付き合ってみると、彼女の束縛的でメンヘラ気質なところにシンは内心うんざりしていた。毎日のようにかかってくる電話、膨大なLINEのメッセージ、詮索するような質問、会社への突然の訪問……。
「……はあ、うぜぇ。いつもいつも、そうやって被害者ヅラすんなよ、まじきめえ」
「シンくん……」
「お前みたいに重くて面倒臭い女より、いい女なんてこの世にたくさんいるだよ。自惚れんな」
シンの放つ言葉一つ一つが、心愛の心臓にまるでナイフで抉り取るような痛みを与えた。
「そんな……三年も付き合ってたのに……」
「三年?だから何だよ。時間の無駄だった。いい機会だし、もういっそ別れるか」
別れる――それを聞いた瞬間、心愛はシンにしがみついた。
「お願い……別れたくない……謝るから……私が悪かったから……」
泣きながら離れたくないと懇願してくる心愛に、シンの中で何かがぷつりと切れた。
「うるせえんだよ!離れろっ!」
縋り付いてくる腕を、シンは乱暴に振り払う。その瞬間、時間が止まったかのような感覚を覚えた。心愛は体勢を崩し、リビングテーブルの角に頭を強く打ちつけた。
ゴッ……
鈍い音が部屋に響く。
「……心愛?」
返事はない。心愛は床に倒れたまま、微動だにしなかった。
(嘘だろ……まさか……)
震える手で彼女の後頭部を触ると、ぬるりとした感触がした。指先に付着した赤い血が、じわりと手の平に広がっていく。
「……まずい」
(俺が殺したのか?……心愛を、殺してしまった……)
(違う、これは事故だ。俺のせいじゃない。心愛が勝手に転んだんだ)
(どうする?救急車?いや、警察が来る。事故とは言え、俺が疑われる)
(いや、待て。祖父母が残した家にある古い農具小屋、あそこなら……)
頭の中で、何かが冷静に動き出す。シンが心愛の脈を確認すると、既に止まっていた。
(完全に死んでる。なら……)
シンはすぐに実行に移した。心愛の体をスーツケースに押し込み、車で農具小屋まで運び、小屋の奥のドラム缶の中に彼女の遺体を隠した。
作業中、心愛の携帯が何度か鳴った。確認すると、彼女の母親からの着信だった。シンは躊躇なく電源を切り、SIMカードを抜いて川に投げ捨てた。
――
伍
「でさ、彼女が超メンヘラでさ~」
会社の飲み会で、シンは後輩の美咲に心愛への愚痴を語っていた。
「えー、先輩かわいそうw」
「だろ?束縛激しいわ、嫉妬深いわ、ちょっと女と話したくらいですぐピリピリしだしてマジで面倒臭い」
恋人のメンヘラっぷりを大袈裟な身振り手振りで語るシンに、美咲は同情と面白さからくすくすと笑みを浮かべている。やがてアルコールが回り、いい気分になったシンは、美咲の肩にふざけて頭を乗せた。
「ちょっと先輩、やめてくださいよ~」
「いいじゃん、ちょっとくらい」
口では否定しつつも、美咲はまんざらでもなさそうだ。そんな美咲の態度を見たシンは調子に乗り、このまま二人で抜け出さないかと耳元で提案する。すると美咲は頬を染めて、いいですよと囁く。それから彼らは二次会には行かず、ホテルへ直行した。
――
陸
クリスマスの夜
公園の広場にはイルミネーションが輝き、カップルたちが手を繋ぎ、笑い合いながら歩いている。その中に、一組の男女が大きなクリスマスツリーの前に立っていた。
「寒くない?」
シンが心愛の肩を抱き寄せる。
「全然。シンくんといると、心が温かいから」
心愛の頬は寒さで林檎のように赤く染まり、吐く息は白い。それでも彼女は幸せそうに微笑んでいる。
「俺、お前のこと本気で好きかも」
シンが心愛の頬に手を添え、そっと彼女の長い黒髪を耳にかける。
「本当……?」
「本当だよ。絶対お前を幸せにする」
心愛の目元の浮かんだ雫がイルミネーションの光に反射して煌めいた。
「心から愛してる。心愛」
「……私も、心から愛しているよ。シン」
――
零
シンは自宅のアパートで、変死体として発見された。首元には何者かに絞められたような赤黒い跡、目と口はは恐怖で開いたまま、壁には血でかきむしった跡。
シンの隣の部屋に暮らす住民が語る。
「毎晩、あの部屋から女の泣き声が聞こえてきた」
「『どうして』って何度も何度も……」
「それから男の人の『許してくれ』って叫ぶ声も」
その後、シンが所有する田舎の家屋の農具小屋にあるドラム缶の中から、腐敗の進んだ心愛の遺体が見つかった。警察はシンによる殺人事件として捜査を開始したが、被疑者は既に死亡している。恐らく痴情のもつれによるものだろう。
しかし、これで終わりではなかった。
シンと関係を持っていた後輩の美咲が、原因不明の病に苦しみ、衰弱死したという。最期まで何かに「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続けていたとか。
そして今も、シンが住んでいたアパートの一室からは、女の泣き声が聞こえ続けている。
『どうして……どうして……』
どうして おへやぐらし @Oheyakurashi3
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