02
翌日。
クレールは孤児院へ向かう前に、城下町の中心部にある王立魔法商へ立ち寄ることにした。
普段から愛用している黒い革張りのアタッシュケースを片手に、王都のど真ん中へと向かう。
王立魔法商。
【魔法商】とは、魔法――つまり魔法書を販売している店や組織、商人のことを指す。
王立魔法商はその名のとおり、ここ王国・ペリドリアルによって設立された魔法商だ。
もちろん運営母体も王国であるため、個人商とは比べものにならない規模と、取り扱っている魔法が豊富にあることが最大の特徴である。
(ここに来るのは一ヶ月ぶりくらいかな)
クレールは、白を基調とした洋館風の外観を見上げた。精巧な造りをしているこの建物こそ、王立魔法商だ。
真っ白な石材で造られた王立魔法商の象徴である紋章が、入り口の上部で、でかでかとその存在を主張していた。盾のような形をした土台に大きく彫り刻まれた花は、ムスカリの花らしい。
紋章と外壁に使われている石材の、ほとんど濁りのない“白”は、魔石の廃材を加工し生み出されていると耳にしたことがある。
中へ一歩足を踏み入れると、毎度のことながら目を奪われるものがある。まずは、見上げ続けるだけで首を痛めそうなほどに高く伸びた天井だ。
そして、まるで城壁のごとく張り巡らせられ、隙間なく並んだ本棚たち。中にはフロアを跨いで一階から天井まで続いているものもある。その様相は、長い年月をかけて地面から伸び続けた大樹を思わせた。
四方八方を取り囲む本棚の中には、気が遠くなりそうな量の魔法書がびっしりと敷き詰められている。
これらを初めて目にしたときは、たいそう圧倒されたのと同時に、心が踊ったものだ。
(本当に、圧巻ですね)
大広間の真上――天井の中央部には、セキュリティのために莫大な予算を割いて取り付けられたという魔石製のシャンデリアがある。これは複雑な魔法式が組み込まれた、巨大型【魔道具】だ。
このシャンデリアがあるおかげで、未精算の魔法書を外へ持ち出そうとする者には、強力な捕縛の魔法が発動するようになっている。
クレールは以前、今日と同じように魔法の納品に来たときに、無謀にも書物の窃盗を図った盗賊団がまとめて捕まっているところに出くわしたことがあった。
よく磨かれた白の大理石の床は、革靴で一歩進むたびにコツコツと心地よい音が鳴った。
広々とした大理石の上、大きな円を描くようにぐるりと設置されたカウンターへ向かう。
その時、不意に視界の端でちらりと深紅の炎が揺らめいた。
「クレールぅぅ!! 覚悟ォッ!!」
館内に響き渡るほどの声量で名を呼ばれ、反射的に声の方向へ目を向ける。
視界に飛び込んできたのは、男がこちらに足を向け、まるで格闘技のそれのように飛びかかってくる光景だった。
クレールはその場でぴたりと歩みを止めると、上半身を軽く反らし、蹴りをかわした。
男の体は何にも阻まれることなく滑らかに空を切り、クレールの前を通り過ぎて、勢いよくその先へと飛んでいった。
先ほど揺らめいて見えた深紅の正体は、炎ではなく、飛び蹴りをかましてきたこの男の頭髪のようだ。
「いってぇ!!」
赤毛の男は、派手な音を立てて本棚に激突した。
建造物が倒壊するかのごとく、収まっていた魔法書たちが崩れ落ちて散る。地べたに転がった男めがけていくつもの本が落下していき、彼は「うわっ」と声を上げた。
散乱した魔法書の下敷きとなったおかげで、普段はさらりとしていて艶のあるはずの男の直毛が、埃にまみれ乱れている。額に巻かれていた、金色の糸を編み込んだロープ型の装飾品も、転んだ衝撃で外れかかってしまっているようだ。
棚にぶつかったのがよほど痛かったのか、涙の滲んだ夕焼け色の彼の目が、うらめしそうにこちらへ向けられていた。
男は王立魔法商の職員の証である、刺繍入りの白いローブを羽織っている。
王立魔法商専属の魔法技師、ルコーだ。
一連のルコーの行動をなおざりにして、クレールは改めてカウンターに歩み寄った。向こう側に立つ受付員へ声をかける。
「こんにちは。魔法の納品に来ました」
「あぁクレールさん、こんにちは。いつもご苦労様です。すみません、うちの若手が毎度絡みにいって」
受付員の男は、にこやかな表情で応えてくれた。彼もまたルコーの奇行に慣れた様子で、その言動を深く問題視するそぶりはない。
クレールは微笑を携えたまま、普段どおりの穏やかな口調で言った。
「はい、特に気に留めていませんので大丈夫です」
「あ!? なんでだよ! 少しは気に留めろコラ!」
突っかかるようなルコーの発言は、クレールも受付員も、互いに取り合わなかった。
受付員がやれやれと首を振る。
「クレールさんのような優秀な魔法技師に、同じ魔法技師としてライバル心を燃やしているようでして」
「いえいえ、そんな。“魔法技師として”ライバル視していただいているわりには、会うたび物理技を仕掛けてくるので、むしろ感心しています」
「このフロアは魔法使用禁止なんだから仕方ねーだろうが!」
鼻息荒くルコーが言い放った。
現時点までルコーの暴挙を相手にしていなかった受付員だったが、彼はついに眉をひそめると、「そういう問題じゃないでしょう」と
若いながらも十分エリートであるはずなのに、不思議と彼はクレールに会うたび噛みついてくる。あるいは、何かしらにかこつけて張り合おうとしてくる。理由はよく分からない。
受付員は「むだに運動神経の冴えている魔法技師で、すみません」ともう一度謝った。彼が謝罪するような事柄でないことは確かである。
あはは、とクレールが乾いた笑みを返すと、その直後、二人の取り交わしなどお構いなしといったふうにルコーが声を張り上げた。
「それで、クレール! おまえ今日はなんの魔法を持ってきたんだよ?」
「えーとですね。今日は
ルコーの問いに答えるというより、受付員への伝達がてら、依頼の内容を述べる。
埃まみれの男が「それくらい訳もない」と言わんばかりの顔をしていることは目を向けずとも想像に容易かったが、クレールはあえて見ないことにした。
「はっ、なんだよ。館主様もその程度のオーダーなら、この俺に任せてくれたっていいのに。よし! 俺が書いた構造式とおまえが書いた構造式、どっちが美しいか勝負を――」
勢い込んだルコーが人差し指を向けたところで、受付員のトーンを落とした冷ややかな声が、その言葉を遮った。
「ルコー。今すぐその本棚を元通りにしないと、館主様の“おつかい係”をしばらくの間、担当させますよ」
途端、ルコーの表情が一変する。
どうやら受付員は、ルコーの先輩にあたるようだ。
ルコーの顔はみるみるうちに青ざめ、頬は大げさにも思えるほど引きつっていく。
やがて苦虫を噛み潰したような顔となったルコーは、周りに散らばった魔法書をぐるりと見回すと、慌てた手つきで片付けを始めた。
散乱した魔法書をせかせかと拾い集める後ろ姿を横目に、クレールは改めて受付員のほうへ向き直った。
カウンターの上に置いたアタッシュケースの中から、魔法書と館主からの手紙を取り出す。納品物に間違いがないか、いくつかのページをめくって中を確認してから、クレールは魔法書のみを差し出した。
「改めて、こちらがご依頼の魔法書です」
「はい、確かに受け取りました。制作費の内訳は館主より事前に共有がありましたので、この場でお支払いさせていただきますね」
「ありがとうございます。……それで本日、館主様はいらっしゃいますか?」
報酬の入った小封筒を受け取りつつ尋ねると、受付員はすまなそうに眉尻を下げた。
「あいにく、終日不在にしておりまして……申し訳ありません」
なるほど、納品希望日を本日にしておきながら、当の依頼主は不在……。無茶な納品期日を指定した自覚があって、直接小言を言われるのを避けたのではないか――そのように勘繰ってしまう。
そこまで考えて、クレールは頭を左右に振った。当て推量で物事を決めつけるのはやめにしておこう。
しかし、これから会いに行こうとしている孤児院の青年のことを、少しでも聞いておこうと思ったのだが……。不在なら仕方がない。
ひとまず王立魔法商を辞去して次の目的地に向かおうと、荷物をまとめようとしたときだった。
「あ。なんだおまえ、もしかしてミツレんとこに行くのか」
いつの間にか魔法書の片付けを終わらせていたルコーが、カウンターの前に立っている。彼は横からクレールの手元を覗き込み、思い出したかのようにそう言った。
館主からの手紙の外装を見て、何かを察したのだろうか。
「ミツレ?」
「え? 違うのか? その手紙、館主様からの“お願い事”じゃねえの」
「ええ、そうです」
「だよな。孤児院にいる魔法士の件だろ? そいつ、ミツレっていうんだよ」
どうやらこの件について、何か知っている様子だ。
手紙には青年の名の記載が無かったことを伝えると、ルコーは「ああ、まぁ、そんなのいつものことだろ」と真顔で頷いた。
もっともである。さすが館主の“おつかい係”とやらを経験しているだけある。
「そのミツレさんという方は、ルコーさんのお知り合いなんですか?」
クレールが聞くと、彼はばつが悪そうに顔をしかめた。
「いや……べつに、知り合いってほどじゃねーよ。ただ、この間ちょっと、なんていうか、揉めたというか」
「えぇ? また喧嘩したんですか」
「喧嘩なんかしてねーわ!」威勢よくルコーが言い返す。
彼が人と言い争っている場面は、これまでに何度か見たことがある。
言い争いの相手は日によってさまざまで、王立魔法商を訪れた人に限らず、上長である館主が相手のときもあれば、王国の官僚が相手のときもあった。
公然の場で官僚相手にたんかを切っていたときは、さすがにクレールも見て見ぬふりをできず、彼の同僚たちとともに止めに入ったのを覚えている。一応それなりに付き合いのある男が、目の前で捕縛されてしまうさまなど見たくなかった。
「あいつが最初ここに来たとき、俺が応対したんだよ。上級魔法が欲しい、見繕ってほしいって言うから、これまでどんな魔法を使ってきたのか聞いたんだ。そしたらあいつ、上級どころか中級魔法もほとんど使ったことないって言うもんだから……つい」
「……。つい、なんて返したんですか」
「おまえに上級魔法は百年はえーよ、って言った」
「なんでまたそんな極端な言い方を……」
クレールは語調を強めることなく「そういうところですよ」と指摘したが、ルコーはふん、と鼻を鳴らしただけだった。
話を聞くと、どうやらルコーの
ところが、後日ミツレは再びここを訪れた。それもあまり日を置くことなく現れた。
当惑する職員たちをよそに、ミツレはきまりの悪さを感じさせるどころか臆することなく、今度はオーダーメイドの創作魔法について尋ねてきたという。それらの言動の端々には、どこか焦燥を感じさせるものがあったようだ。
その日もルコーは応対しようとしたそうだが、先輩に釘を刺され、また前回のミツレに対する粗雑な扱いを叱られたばかりだったこともあり、出しゃばることを控えたらしい。
その代わりに、居合わせた館主が応対したということだ。
ルコーは少しの間考えるようなそぶりを見せて、おもむろに口を開いた。
「館主様、やっぱりおまえに任せることにしたんだな」
「? どういうことですか?」
やっぱりと言われても、何の話か見当もつかない。
もう少し詳しい情報を知りたい。ミツレという青年について、ルコーが何かしら情報を持っているのであれば、館主の部下である彼からなら共有してもらっても問題ないだろう。
しかし、さらに詳しいことを尋ねようとしたところで、それを制止するかのように拳で胸元を軽くどつかれる。
「ま、確かにおまえなら適任かもな。ちょっと難しいところがありそうなやつだけどさ、ミツレの話、よく聞いてやってくれ」
含みがあるような言い方だった。意図して判然としない物言いをされた気がして、クレールは小首をかしげる。
彼は「じゃあな」とだけ言うと、片手をひらひらと揺らしながら行ってしまった。
その背中を見つめながら、クレールはもう一度、まだ見ぬ孤児の青年の姿を思い描いていた。
疑問はいくつも残ったままだが、ミツレという青年本人に会わないことには、どちらにせよ繋がらないものも多そうである。
そう、まずはミツレに会わなければ。
「あっ。そうだ、クレールさん。館主は不在ですが、伝言を預かっております」
出口に向かおうと踵を返したところで受付員に呼び止められ、クレールは足を止めた。
「伝言ですか。なんでしょう?」
「“魔法製作の過程で西の森へ行く機会があれば、ついでに薬の素材をとってきて。よろしく☆”とのことでした」
「…………」
館主の人真似のつもりだろうか。ウインクをして見せた受付員に、思わず貼り付けたような笑みになる。
受付員から、小さなメモ用紙を手渡される。流れるような美しい字で箇条書きされたメモを
“おつかい係”のひとことに表情を歪めたルコーの気持ちが、分かったような気がした。
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