異世界は突然に ~モノマネは世界を救う?~

よし ひろし

第一話 鳴かず飛ばずの芸人と胡散臭いスカウト

 楽屋に染みついたカビと埃の匂いが、清水しみずマネルの鼻孔をくすぐる。


(嫌な臭いだ、いつ嗅いでも……)


 壁のシミをぼんやりと眺めながら、彼は深く、長い溜め息をついた。三十二歳、芸歴十年。鳴かず飛ばずのモノマネ芸人。

 先程まで立っていたステージでは、客はわずか七人。披露したのは、十八番である往年の大物俳優のモノマネだったが、返ってきたのは乾いた拍手と、どこか同情するような視線だけ。才能がないことなど、とうの昔に気づいている。それでも辞められないのは、惰性と、そして万に一つ、億に一つの奇跡を信じてしまう愚かさのせいか……


「さて、帰ってコンビニ弁当でも食うか」


 パイプ椅子から重い腰を上げた、その時だった――


「いやぁ、素晴らしいステージでしたよ、清水先生」


 声のした方に目を向けると、いつからそこにいたのか、部屋の隅に置かれた年代物のソファに、ぴっちりした黒いスーツを着た男が深く腰掛けていた。年は四十代半ばだろうか。やけに整えられた七三分けの髪と、顔に貼り付けたような営業スマイルが、得体の知れない胡散臭さを醸し出している。


「……あんた、誰だ? ここは、関係者以外立ち入り禁止だぞ」

「これは失礼。私は、しがないスカウトマンのようなもの、とでも申しましょうか」


 男は立ち上がると、一枚の名刺を差し出してきた。そこには、『神の使者』という、ふざけているとしか思えない肩書きだけが金色に輝く文字で印字されていた。


「はぁ? 神の使者? 宗教の勧誘なら間に合ってるんで、お引き取り願えますか」


 マネルは吐き捨てるように言い、楽屋のドアを指さした。この手の勧誘は、売れない芸人の楽屋には時折紛れ込んでくる。心の隙間に付け込もうという魂胆が透けて見えて、反吐が出そうだった。


「まあまあ、そう邪険になさらず。我々は、あなた様の稀有な才能に惚れ込みまして、是非ともご協力いただきたいと参ったのです」

「才能ね……客が七人の芸人のどこに才能があるってんだ?」

「世間が気づかぬ才能を見出すのが、我々の仕事ですから」


 男はにこやかに言うと、ふと、マネルの正面に置かれた鏡に目をやった。


「清水先生の十八番、俳優の郷田剛ごうだ つよしのモノマネ。実に素晴らしい。ただ、少しだけ詰めが甘い」

「……何が言いたい?」

「まあ、ご覧ください」


 男がパチン、と軽快に指を鳴らした。その瞬間、信じられないことが起こる。

 鏡に映っていたパッとしない自分の顔が、まるで特殊メイクでも施されたかのように、みるみるうちに郷田剛その人の顔へと変わっていったのだ。深く刻まれた皺、鋭いながらも優しさを湛えた眼光、わずかに上がった口角。それは、マネルが来る日も来る日も研究し続けてきた、憧れの俳優の顔そのものだった。


「な…んだ、これ――」


 声を出そうとして、さらに驚愕する。喉から発せられたのは、自分の甲高い声ではなく、郷田剛独特の、低く、そしてよく響くバリトンボイスだった。マネルは呆然と鏡の中の自分――いや、郷田剛を見つめた。


「これが我々の力の一端です。――これで、少しは話を聞く気になっていただけましたかな?」


 胡散臭い男は、したり顔で微笑んでいる。マネルは、まだ夢を見ているかのような感覚のまま、こくこくと頷くことしかできなかった。

 男は改めてソファに座り直し、単刀直入に本題を切り出した。


「率直に申し上げますと、我々の世界――まあ、私の仕える神の治める世界、とでも言いましょうか、そこで少々、厄介な問題が起きておりまして……その解決のために、あなたのお力をお借りしたい」

「俺の力?」


 まだ郷田剛の声のままだ。マネルは慌てて喉をさするが、声は戻らない。男がもう一度指を鳴らすと、鏡の中の姿も、そして声も、ようやく元のさえない自分へと戻った。


「ええ、あなたのその『物真似』の才能が必要なのです。もちろん、タダでとは申しません」


 男はそう言うと、アタッシュケースから一枚の羊皮紙のようなものを取り出した。そこには、報酬額として信じられないほどのゼロが並んだ数字が書かれている。コンビニの深夜バイトで稼ぐ金額の十年分を優に超えていた。


「……なんで、俺なんだ。神なら自分でどうにかできるだろ?」

「いえいえ。神というのは、基本見守るのが役目。直接関与することはできないのですよ、自分の世界でも。そこで、裏技的に他の世界から力あるものを呼び寄せて、どうにかしてもらうのです」

「ふーん、そんなものか……」


 確かにこの世界でも神頼みはまあ役立たずだ。賽銭をいくら奮発しても、俺の願いは叶ったことがない――そうマネルは納得する。


「どうでしょうか、清水様?」

「そうだな……」

「あなたがいいのです。あなたのその、諦めきれない魂に我々は可能性を感じたのですよ」


(嘘つけ。どうせ誰でもいいんだろう……)


 心の中で毒づきながらも、マネルの視線は報酬額の数字に釘付けになっていた。これさえあれば、しばらくは寒い楽屋でため息をつかなくてもいい。嫌いなバイトも辞められる。芸人を辞めて、何か新しい商売を始めてもいい。そうすれば、客の同情するような視線に傷つくことも、もうなくなる。


「……わかった、契約するよ」


 ほとんど無意識に、言葉が口からこぼれていた。


 男は満足そうに頷き、羽根ペンを差し出す。「ここにサインを」と示された場所に、マネルは震える手で『清水』と書いたところで、手を止めた。


「本名の方がいいのか?」


 マネルは当然芸名だ。本名はまさるという。


「いいえ、構いませんよ、『マネル』で。私はモノマネ芸人のあなたと契約したいのですから」

「そうか、わかった」


 そこで、『マネル』とサインする。と――


「な、なんだ!?」


 サインした羊皮紙が目も眩むほどの白い光を放ち出した。そして、驚くマネルの意識を飲み込んでいく。


「では、よろしくお願い致しますよ、清水マネル様」


 神の使者を名乗る男の声が、遠くで聞こえたような気がしたが、すぐに世界は白い光に包まれ、何もわからなくなった――


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