第三話
翌日の教室には、昨日の一件が残した気まずい空気が澱のように沈んでいた。佐藤さんは学校を休んでいる。陽太は、自分の机に座ったまま窓の外を眺めていたが、その背中はいつもより小さく見えた。クラスの誰もが、太陽の元気がないことに気づいている。
僕はカバンの中から、布にくるんだ小さな塊を取り出した。それは、古いポータブル天体望遠鏡の対物レンズだった。幼い頃、父に連れられて見た星空の美しさが忘れられなくて、何度もねだって買ってもらったものだ。陽太と二人で、夏の大三角を探した夜もあった。僕の数少ない、本物の「宝物」だったかもしれない。
放課後、誰もいなくなった理科準備室で、僕はそのレンズの端を机の角に強く打ち付けた。パキリ、と乾いた音がして、ガラスの表面に蜘蛛の巣のような亀裂が走った。胸の奥が小さく痛んだが、すぐにそれを振り払う。
帰りのホームルームが終わった直後だった。僕はおもむろに立ち上がり、教壇の前にいる先生の元へ向かった。クラス全員の視線が、何事かと僕に突き刺さる。
「先生、話があります」
教室のざわめきがぴたりと止んだ。僕は一度、陽太の方を見た。彼は驚いた顔で僕を見ている。僕はゆっくりとクラスの皆に向き直り、深く、深く頭を下げた。
「昨日の万年筆のこと、実は……僕のせいなんです」
しんと静まり返った教室に、僕の声だけが響く。
「僕が掃除の時、陽太の机の横を通って……。その時、間違って腕をぶつけて、万年筆を床に落としてしまいました。すぐに拾ったけど、その時に壊れてしまったんだと思います。怖くて言い出せなくて……。本当に、ごめんなさい」
淀みなく言葉を紡ぎながら、僕は布にくるんだレンズを取り出した。
「これ、僕の大切なものなんですけど……。お詫びになるか分からないけど、佐藤さんに渡してください」
ひび割れたレンズを先生に手渡す。その瞬間、教室の空気が変わった。誰かが息を呑むのが聞こえた。
「和真……お前……」
呆然と僕を見ていた陽太が、椅子を鳴らして立ち上がった。彼の瞳が、尊敬と感謝で潤んでいる。
「月島君、正直に言ってくれてありがとう」
「自分の宝物を犠牲にするなんて……」
クラスメイトたちが、今度は僕に称賛の視線を向け始めた。昨日まで陽太が浴びていた光が、今は全て僕に注がれている。僕はただの「陽太の親友」ではなく、彼を救ったヒーローになったのだ。
「ありがとう、和真……」
駆け寄ってきた陽太が、僕の両肩を強く掴んで言った。
その言葉を聞いた瞬間、僕の心臓は氷水に浸されたように冷えていった。
期待していた達成感はどこにもなかった。代わりに胸を満たしたのは、どうしようもないほどの虚しさと、深い絶望だった。陽太は、僕が作り上げた「美談」に感動しているだけだ。僕の痛みも、罪悪感も、黒い喜びも、何一つ気づいていない。
ああ、やっぱりそうだ……。こいつには、僕の心の中なんて、永遠に見えやしないんだ。
賞賛と感謝の渦の中心で、僕は一人、底なしの孤独に沈んでいくのを感じていた。
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