時輪の記 第6話   影の銃声 ― ハルビンの夜明け

@Shinji2025

第6話


――白い光がしぼみ、代わりに煤けた蒸気の匂いと、鋳鉄の冷たさが鼻に刺さった。

石畳、アーチ状の鉄骨、丸みのある屋根。ここはハルビン駅だ。朝霧の粒が光にきらめき、ガス灯の火が揺れている。


胸ポケットの懐中時計が、心臓みたいに小さく脈打った。AIスマホの画面が勝手に点灯する。


> 《現在地:ハルビン駅/1909年10月26日》

《イベント:伊藤博文、銃撃死》


「……止める。」

僕は即答した。

前までの僕は、“大きな歴史は動かない”という前提に逃げた。けど、違う。変えようとして、変わらなくても、誰かの人生は救える。 それがわかってから、僕は行き方を決めた。


一 朝霧の駅で


広場は混成の人波でうねっていた。ロシア人商人が獣皮の束を肩で担ぎ、清国人の労働者が木箱を台車で押す。日本の軍人、車掌、新聞記者。耳に飛び込むのはロシア語、朝鮮語、日本語――世界が縮んだみたいな喧騒だ。


《列車到着まで残り27分》

AIの無機質な声に、僕は顎を引いた。

「安重根(アン・ジュングン)を探す。顔写真、特徴」

《誓約の切断痕、やせ形、コート、帽子。寒冷地対応の手袋可能性高》

「手袋されてたら指の痕は見えない」

《歩容と視線の追跡で代替。候補をARでマーキング》


スマホのカメラ越しに見る世界に、うっすらと枠が踊る。三人、五人……違う。胸の上下、肩の張り、足の運び。決意という名の緊張は、どこか似たリズムでにじみ出る。だけど同時に、恐怖は腰を重くする。

(この混雑で、ひとりを見つけるなんて――)

「やるしかない」


二 最初の警告


僕はまず、最短の頼みの綱に走った。日本の随員詰所。

「暗殺の計画があります。油断しないでください」

詰所の門前で告げると、憲兵が僕を頭から足まで眺め、鼻で笑う。

「証拠は?」

「時間と場所はここ、狙われるのは伊藤博文。犯人は朝鮮人の若い男――」

「君は誰の部下だ」

「……部外者です」

「では下がりたまえ」


(だよな)

それでも引き下がらない。

「警戒線を一段下げて。ホームへ誘導する動線を変えてください。狙撃角を潰せます」

憲兵の目がわずかに細くなる。

「誰に言われた?」

「言わせてください、お願いします。僕を疑ってもいい。でも動線変更はただちに実施してください。何も起きなかったら、それでいい」


沈黙。

別の憲兵が耳打ちする。「動線、少しずらしても損はない」

責任者が短く頷く。「ホーム側の列、右へ寄せ。立入を半歩下げろ」

(よし、一段。小さな変更は通せた)


三 新聞記者と“声”


広場の屋台で見覚えのある横顔が手を振った。

「おい、しんじ!」

宮崎――東京で条約改正を追っていた若い新聞記者だ。彼は各地を飛び回っている。ここにいても不思議じゃない。

「危ない。今日ここで撃たれる」

「本気か」

「伊藤だ。止めるために、世論の目を作ってくれ。カメラ、記者仲間、できるだけ“見られている場所”に引き出すんだ」

宮崎の目が光る。「“目”の圧だな」

「それから、“暴走を抑える声”。混乱が始まったら、言葉で群衆を制御してくれ」

「任せろ。筆の代わりに声を使う」


彼はすぐに仲間の記者を集め、カメラの三脚を高く構えた。人は見られていると、ほんの少しだけ乱暴をやめる。僕はそれに賭けた。


四 影の人を探す


《候補、三》

スマホが振動した。

一人目――痩せた若者、帽子のつばを深く、歩幅は一定、視線は地面。違う。怯えのリズムが違う。

二人目――年配の男、肩が上がりすぎている。違う。

三人目――止まった。

石柱の陰。片手を胸に当て、視線はホームの端へ固定。息を三拍溜め、一拍吐く。撃つ前の呼吸だ。

(君か)

人波を抜け、僕はそっと距離を詰めた。


五 対話


「待って」

僕が韓国語に自動翻訳をかけたスマホを掲げると、彼の肩がぴくりと跳ねる。

「あなたの行為は、併合を早める」

彼は目をすがめ、僕を上から下まで見た。

「どこの誰だ」

「通りすがりの臆病者。けど、未来を少しだけ知っている」

彼の目が、かすかに笑った。

「未来を?」

「あなたの名は、後に英雄と呼ばれる。けど、その死は加速装置になる。強硬派を後押しし、朝鮮の声はしばらく、もっと小さくなる」

彼は短く息を吐いた。「ならば、世界に声を届かせる」

「届くよ。けど、届いた結果が逆方向に動くこともある」

沈黙。彼は視線を落とし、コートの内ポケットを探った。

「俺は――祈った。別の道があるなら、と。だが、俺の歩幅で届く道は、これしか見えない」

「別の道を、今ここで作る手伝いをさせてほしい」

僕は懐から小さな紙片を出した。駅構内の図、動線、遮蔽物。AIが起こした簡易図面だ。

「列車が着いたら、伊藤はこの角度で見える。ここであなたを遮る。別室で話そう」

「それは“止める”ではない。“遅らせる”だ」

「遅らせた分だけ、誰かが生き残る。小さな歴史は変えられる。あなたの弾が一人を殺すなら、僕は別の誰かの死をゼロにする」

彼は、目を伏せた。

そして、ありえない言葉を吐いた。

「……名前は」

「北條、新仁」

「覚えておく。もし出来るなら――俺の母に、俺は『争いたくなかった』と伝えてくれ」

「伝える」

(約束だ。小さな約束は、必ず守る)


六 防ぎ続ける


汽笛。時間だ。

《到着、T-02:00》

僕は走った。まずは広場の露店へ。店主の兄ちゃんに短く頭を下げる。

「ごめん、この箱を今すぐ倒して。派手に」

「は?」

「人を傷つけずに、でかい音だけ出す。頼む」

「……面白ぇ」

彼はにやりと笑い、空の木箱を高く積み上げ、わざと崩した。

ガラガラガラ――!

視線が一瞬、そっちへ流れる。駅の警備導線がほんの少し変わる。角度が変わる。


次に、ホームへ走る。

憲兵が僕を見て顔をしかめたが、さっきの責任者が手を上げた。「通せ!」

(ありがとう)

ホームの柱の陰に立ち、伊藤が降りるであろう位置と、安の射線を結ぶ。僕の体をその線に置く。

手が震えている。怖い。

けど、怖いから立てると、僕はもう知っている。


七 銃声の前


列車が滑り込み、蒸気が白い幕を張る。

ドアが開き、随員が列を作る。

伊藤が白い手袋で手すりを持ち、静かに一歩、ホームへ――。


「今だ」

僕は射線に一歩踏み込み、安の前に出た。

彼の目と合う。彼は微かに頷いた。

(ごめん――でも、やる)

安の肩が沈み、上がる。呼吸。

僕は右手をのばし、彼の手首を掴んだ。


パン――ッ!

衝撃。腕に火が走る。耳の奥がきしむ。

銃口はわずかに外れ、最初の弾は柱を穿った。

周囲の空気が、一瞬だけ止まる。


二発目。

僕はさらに身をねじり、彼の二の腕に体重をかける。

パン!

弾は伊藤の脇をかすめ、後方の壁に当たった。

(いける――)


三発目。

安は体重の軸を切り替えた。僕の力が空を掴む。

パン!!

白い手袋が赤く染まる。

伊藤が、ゆっくりと崩れた。


世界が音を取り戻す。悲鳴、怒号、足音。

安に憲兵が飛びかかる。僕も巻き込まれ、床に叩きつけられた。


八 混乱の渦


「スパイだ!」「撃て!」

誰かが叫び、別の誰かが殴られる。

僕は無我夢中で、子どもを抱えて柱の影へ押し込んだ。母親の腕が震え、涙で濡れた顔で何度も頭を下げる。

「ありがとう、ありがとう……!」

(一人分は変えた。)


宮崎の声が頭上を飛んだ。

「落ち着け! 手を出すな! 記者だ、カメラが回っているぞ!」

彼の仲間が三脚を上げ下げし、レンズを群衆へ向ける。視られる自覚が、人の手を一瞬止める。

「医者! 止血を!」

僕は伊藤の元へ膝で進んだ。

白い手袋の下、血が脈打つように滲み出ている。

「……天皇陛下に……申し訳ない」

彼の声は糸のように細く、でも澄んでいた。

「失礼します」

僕は携帯していた清潔布を押し当て、圧迫する。方法は知っている。助からないことも知っている。

AIが静かに囁く。《致命傷。救命確率、極小》

「黙っててくれ」

僕は布をさらに押さえ、伊藤の目の前で、ほんのわずかに笑った。

「あなたの“器”は、たくさんの人が使い続けます」

彼の目が、ほんの一瞬、僕を見た気がした。やがて、まぶたが下りていく。


九 取り押さえと対話、もう一度


安は床に押さえつけられていた。顔に血が流れ、それでも視線は澄んでいる。

「……俺は争いたくなかった」

韓国語で言った彼の言葉を、僕のスマホが小さく通訳する。

憲兵が怒鳴る。「黙れ!」

「待って」僕は憲兵の腕を握った。「言わせてください」

憲兵は一拍のちに手を緩めた。宮崎が背後でカメラを構え、無言でうなずく。


安が僕に言う。

「二発、逸れた。お前のせいだ」

「おかげで二人が生きた」

「そうだろうな。……名を」

「北條、新仁」

「北條。母に伝えてくれ。俺は“平和”を求めた。やり方は、間違っていたのかもしれんが」

「伝える。必ず」

憲兵が彼を引き起こし、連行しようとする。

そのとき、暴徒が突っ込んできた。

宮崎が叫ぶ。「手を出すな! ここは記録される!」

僕は体を盾にして一歩前に出る。拳が飛ぶ、肩で受ける。痛い。でも、ここで止める。

憲兵が状況を見て叫ぶ。「後退! 人垣を作れ!」

カメラのレンズがこちらを見ている。

人の手が、わずかに下がる。


十 小さな歴史


混乱の中、僕は三つをやり遂げた。

一つ目――動線変更で、最初の射線を潰し、一発を外させた。

二つ目――子どもを救い、母の人生の分岐を変えた。

三つ目――宮崎の“声”とカメラで、二次被害を抑えた。


伊藤は、助けられなかった。

大きな歴史は動かなかった。

でも、小さな歴史はたしかに変わった。

僕の肩は軋み、指は痺れている。けど、その痺れは、無力じゃない証拠だ。


十一 世界が固まる


AIが、冷静に結果を告げる。

《主要イベント:不変(伊藤博文死亡/事件は国際的波紋)》

《副次的イベント:変化(群衆暴力縮小、付近での死傷者数の減少、某少年の生存)》

《“小さな歴史”の変化を検出》

「それでいい」

僕は返した。「それを積み上げる」


十二 遠ざかる汽笛


駅の外れで、僕は壁に背を当て、肩で息をした。

宮崎が横に滑り込み、肩を小突く。

「お前、命の使い方が雑だな」

「褒めてる?」

「半分はな。……記事にする。“暴力を抑えた声があった”って。名前は出さない」

「助かる」

宮崎がふいに笑う。「助け合いってやつさ」


僕は頷き、懐から小さな紙片を取り出した。

さっき安から預かった、母への伝言。

(届ける。約束は、守る)


十三 もう一つの“救い”


駅の端でうずくまっていた露店の少年が、震える指で帽子を握っていた。

「お兄ちゃん……さっき助けてくれて、ありがとう」

僕はしゃがみ、彼の目線に合わせる。

「名前は?」

「ユーリ」

「ユーリ、家は近い?」

「うん」

「じゃあ、今日は店じまい。家へ帰ろう」

少年は首を振った。「父さんの分まで働くって約束したから」

僕は一瞬迷ったあと、自分の上着の内ポケットから、小銭入れを出した。

「これは投資。明日も店を出すための資本。返したかったら、いつか僕にパンを一つ奢って」

少年は目を丸くし、やがて笑った。「わかった!」


(小さな経済も、歴史だ)


十四 光の前に


夕刻が近づく。駅前の空は薄い青から紫へ。

事件の号外が街にばらまかれ、人々の顔つきは硬くなった。

「やっぱり併合だ」「報復だ」「戦争だ」――そんな文字が踊る。

AIがささやく。《この出来事は、併合を加速させる方向に働く確率が高い》

「知ってる」

喉の奥が苦くなる。

(それでも、今日救えた人がいる。僕が動いたことで、誰かの夜は穏やかになった)


ふと、背後で足音。

安ではない。誰でもない。けれど、あの時空の“密使”と似た、風だけが通り抜けた気がした。

「進め」

誰かが言った気がして、僕は胸ポケットの懐中時計に触れる。


秒針が一拍、深く刻む。

世界が光に滲み、輪郭がやわらぐ。


> 《任務ログ:

・主要歴史:維持

・小さな歴史:複数変化(生存/負傷減/伝言の委任)》

《次の目的地:1904→(補正)1905 樺太・終戦交渉周辺》




「……補正?」

AIが珍しく言いよどむ。

《君の“介入”が、次の観測点をずらした。小さな歴史の重なりが、地図の端を折った》

(そうか。変わらないようで、変わるんだ)


光が胸の奥から広がる。

僕は目を閉じ、深く息を吸った。


――大きな歴史は、簡単には変わらない。

でも、小さな歴史は変えられる。

小さな歴史の積み木が重なれば、いつか地図の線だって揺らぐかもしれない。


針の音が合図になり、僕は次の時代へ滑り出した。


(第六話 了)



📖 章末あとがき


伊藤博文が暗殺された1909年のハルビン事件は、日本と朝鮮の運命を大きく揺さぶった出来事でした。

伊藤は韓国併合に慎重だったとも言われ、その死はむしろ強硬派を後押しし、日韓併合を加速させたのです。


物語の中で新仁は必死に伊藤の命を救おうとし、群衆の暴力や二次被害を抑え、小さな命を守ることに成功しました。

しかし、歴史の大きな流れは変わらず、伊藤は倒れる。


それでも、小さな歴史は確かに変えられる。

一人の子ども、一人の母親、そして誰かの未来。

その積み重ねこそが、やがて大きな歴史の流れを揺るがすかもしれません。


私たちも同じです。変えられない大きな状況の中でも、身近な人を守り、小さな行動を積み重ねることで、未来を少しずつ良い方向に動かすことができる。

歴史小説を通して、そんな希望を読者の皆さんと共有できればと思います。




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