エピローグ もう一つの特典
店の前に立てかけてある、自分と同じくらいの背丈もある木の看板。
そして、その裏を見た。
そこには真新しいマジックのインクで今日の日付が添えられて、こう書かれている。
令和7年 7月5日 彦星カレー 完食! 健司
令和7年 7月5日 織姫カレー 幻を食べたぜ! 慎太郎
今日食べた人の名前が書いてあった。
寄せ書きのように、それぞれがおもうがままの場所に、いろんな角度で、いろんな年に食べた人の名前が、その裏には書いてあった。
「七夕の季節だね―」
あの時気づかなかった、静まり返った店内の意味が20年以上の年月を経てやっとわかった。
そう思いながら、看板の裏に書かれた名前を次々と目で追っていく。
そして…
平成12年 7月9日 彦星カレー。満腹にはキツイ 優斗
我ながら汚い字で、でも少し控えめな大きさで、その文字は薄くなりながらも、ちゃんと名前は刻まれていた。そう遺跡のごとく。
その裏の歴史に驚愕しながら、しばらく看板の裏を見つめていた。
青春という言葉は、おじさんが使う言葉だと思うが、立派なおじさんだから遠慮無く使うことにしよう。
20年以上前に書いた、なんてことのない自分の名前を見ただけだ。だけど目をつぶれば、学生だった青春時代というものが確かにフラッシュバックした。
不思議と、つらかったことは思い出せない。楽しかったことだけが音を立てながら頭を駆け回った。人間は便利にできている。
「はぁ。さて、帰るか」
憂鬱な気持ちをリセットするように、息を吐いて早足で家路へと向かった。
そして、家のドアノブを開こうとした時…
さっきの出来事の興奮で、また連絡を忘れていたことに、今気づいた…。…まぁいい。時間は前にしか向いていない。
「ただいま!」
逃げも隠れもしない。堂々と玄関に入った。
「また食べてきたんでしょ! もうっ!れ・ん・ら・く・は!?」
用意していただろう強い口調のセリフと、すごい形相で妻は向かってきた。
今日は、そんな妻の感情を無視して、ギュッとそのまま抱きしめた。
「ちょっと!いきなりなんなのよっ!ダメなものはダメ!」
どんなに怒られようと、きっと妻が大好きなんだろうなぁ。
そして…1杯2000円は勉強代なんかじゃ無かったよ。
―翌日―
今日も暑くてセミの鳴き声がうるさい。
定食屋の店主は、朝、例の看板を片付けようとしていた。
その看板の裏の自分の名前の横には、もう一つ名前が刻んであった。
平成12年 7月9日 織姫カレー 優斗残り食べてくれてありがとう! 美紀
END
七夕カレー ~2000円の記憶~ Y to HebrewZ @ytoz
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