第二章:合理主義者のブラフ

 裁判は中盤に差し掛かっていた。私と怜の奇妙な共同作業は続いていた。私たちは互いの能力を認め合いながらも、決してそれを口にはしなかった。ただ法廷での視線とスマートフォンの短いテキストだけが私たちのコミュニケーションの全てだった。


 しかし、私は気づいていた。この共同作業が単なる職務上の協力を超えた何かに変化していることに。怜の送ってくる質問が、事件に関するものから次第に私自身に関するものに変わっていることに。


『先生の研究室はいつも何時まで電気がついているんですか?』


『先生は普段どんな音楽を聴くんですか?』


 そして私もまた、彼の些細な変化に敏感に反応している自分に気づいていた。彼の髪型が少し変わったこと、使っているペンが新しくなったこと、そして何より――彼が私を見る時の瞳の色が日を追うごとに暖かくなっていることに。


 これは危険だった。


 私は自分の感情をコントロールし続けなければならない。なぜなら私が人を好きになるということは、その人の嘘も同時に見えてしまうということを意味するからだ。


 怜の捜査と私の分析によって、一つの仮説が浮かび上がってきた。安達祐子は嘘をついている。だが彼女は犯人ではない。彼女は誰か別の真犯人を庇っているのだ。


 では真犯人は誰なのか。そして彼女はなぜ命の危険を冒してまでその人物を庇うのか。謎は深まるばかりだった。


 そんなある日、怜が私を食事に誘ってきた。もちろん口実は「事件に関する打ち合わせ」だ。私たちは裁判所近くの静かなジャズバーのカウンターに並んで座っていた。


 店内にはマイルス・デイビスの「Kind of Blue」が静かに流れていた。怜は珍しく事件以外の話を切り出した。


「先生はどうしてその能力を身につけたんですか?」


「身につけたのではありません。生まれつきです」


 私は自分の過去を少しだけ話した。


 幼い頃から人の嘘がわかってしまったこと。

 そのせいで友達もできず常に孤独だったこと。

 心理学の道に進んだのは、自分のこの厄介な能力を客観的に理解したかったからだと。


 実際、私の幼少期は地獄だった。


 五歳の時、サンタクロースの存在を信じている私に「サンタさんはいるよ」と微笑む母親の顔に浮かぶ0.2秒の「罪悪感」を見てしまった時から、私の世界は色を失い始めた。


 八歳の時、「お前が一番大事だ」と言う父親の顔に浮かぶ「嫌悪」のマイクロエクスプレッションを見た時、私は完全に心を閉ざした。


「あなたも同じでしょう? 黒澤検事」


「何がです?」


「嘘に傷つけられた。だから二度と騙されないように論理という鎧を身につけた」


 私のその言葉に、怜は何も言い返さなかった。

 図星だったのだ。


 その時、彼の顔に0.2秒だけ浮かんだ表情を私は見逃さなかった。それは「悲しみ」と、そしてほんの少しの「安堵」。初めて自分の本当の心を理解してくれる人間に出会えたという安堵。


 その瞬間、私は気づいてしまった。怜が今仕掛けてきたこの会話そのものが高度な「ブラフかませ」であることに。彼は自分の過去を私に探らせることで私の警戒心を解き、私のパーソナルな情報を引き出そうとしていたのだ。


 さすがはエース検事。

 


「黒澤検事」


「はい」


「今のあなたの顔にもサインが出ていましたよ」


「ほう。どんなサインです?」


「『この女、思ったよりも手強い。だがそこがまた面白い』という明確な挑戦のサインが」


 怜は一瞬虚を突かれた顔をして、そして次の瞬間、初めて楽しそうに声を上げて笑った。私もまたつられて笑っていた。氷の仮面が少しだけ溶けた瞬間だった。


 私たちのゲームはまだ始まったばかりだ。

 しかし同時に、私は恐れていた。


 この男となら、私の三十二年間の孤独を終わらせることができるかもしれない。

 そしてそのことが、私には何よりも恐ろしかった。

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