第一章:0.2秒の不協和音(ディソナンス)

 私たちはその安達祐子の事情聴取の録画映像を共に見ることから始めた。怜は彼女の証言の論理的な矛盾点を次々と指摘していく。さすがはエース検事。その尋問は鋭く的確だった。


 だが私は全く別の場所を見ていた。

 モニターの中の彼女の顔。

 その0.2秒の世界を。


「黒澤検事」


 私は映像を止めた。


「あなたが彼女のアリバイの核心部分を追及したこの15分03秒の瞬間。彼女の口元が左側だけ微かに吊り上がっています」


「それが何か?」


「軽蔑の表情です。彼女は心の底からあなたの尋問を見下し嘲笑っている」


 怜の顔が不快感で歪んだ。


「僕の捜査にあなたの非科学的な主観を持ち込むのはやめていただきたい。僕は証拠しか信じない」


 その時、私は彼の瞳の奥にあるものを見た。0.2秒よりも短い、0.04秒のマイクロエクスプレッション。


 それは「恐怖」だった。


 正確には「再び騙されることへの恐怖」。

 この男には何か深いトラウマがある。


 水と油。

 ロジックと直感。

 真実を追求する男と嘘を見抜く女。

 私たちの静かで熾烈な戦いはここから始まった。


 しかし、戦いの最中で私は気づいてしまった。


 黒澤怜という男の持つある種の美しさに。彼の論理への純粋なまでの信頼、真実への一途な追求心――それは私のような人間が失ってしまった、人を信じることの美しさそのものだった。


 そして私は恐れた。

 この男になら、私の氷の仮面を溶かされてしまうかもしれないと。


 裁判が始まった。


 法廷は異様な緊張感に包まれていた。怜は検事として安達祐子を証言台に立たせた。彼の尋問は完璧だった。緻密に積み上げられた状況証拠、矛盾点を巧みに突く反対尋問。


 だが安達祐子は少しも動じなかった。彼女は悲劇のヒロインを見事に演じきっていた。時折涙を浮かべながら亡き親友への想いを語り、陪審員の同情を誘う。完璧なポーカーフェイス――私以外の誰にも見破れないレベルの。


 私は傍聴席の一番後ろでその攻防を冷静に観察していた。そしてリアルタイムで怜のスマートフォンに短いメッセージを送り続ける。


『今、彼女は両手を固く握りしめました。強いストレスと何かを隠蔽しようとする防御姿勢のサイン』


『10分21秒。あなたの質問の直後、0.2秒だけ瞳孔が収縮。彼女は嘘をついています』


『注意。彼女の悲しみの表情は左右非対称。つまり、作られた感情の可能性が大』


 最初は怜は私のメッセージを無視していた。だが彼は気づき始めていた。私が指摘したタイミングで安達祐子の証言が僅かに揺らぐことに。そして私が「嘘だ」と指摘した部分がことごとく後の捜査で客観的な事実と矛盾していくことに。


 法廷心理学において、人間の嘘を見抜く精度は通常五十パーセント程度??つまりコイン投げと変わらない。しかし訓練された専門家でも七十パーセントが限界とされている。だが私の精度は九十五パーセントを超えていた。これは学術的にも異常な数値だった。


 怜は苛立ちながらも、私の異常なまでの観察眼を認めざるを得なくなっていた。閉廷後、裁判所の廊下で彼は私に話しかけてきた。


「どうして、わかるんですか」


「言ったはずです、黒澤検事。嘘は、顔に出ると」


「僕には見えない。僕の目には彼女はただ悲しんでいる友人にしか見えない」


 彼のその言葉に、私は彼の心の奥にある一つの深い傷の存在を感じ取っていた。


 その夜、私は彼の過去をデータベースで調べ上げた。そしてたどり着いた。彼が新人検事時代に担当したある冤罪事件。五年前、彼は当時、殺人事件の容疑者とされた男の「涙の自白」を信じてしまったのだ。だがその自白は真犯人である恋人を庇うための真っ赤な嘘だった。


 彼は人の感情に騙された。


 その過去の失敗が彼を感情という「ノイズ」を信じない冷徹な合理主義者に変えてしまったのだ。


 怜もまた私と同じだった。彼は嘘に傷つけられ心を閉ざした。私は嘘を見抜きすぎて心を閉ざした。私たちは鏡の両面に立つ似た者同士だったのだ。


 そして怜もまた気づいてしまっていた。

 私の秘密に。


 裁判中、怜が鋭い質問を投げかけ安達祐子を追い詰めるその瞬間、被告人ではなく検事である自分自身を観察している私の表情にほんの一瞬だけ現れては消える微細なサインがあることに。


「口角が上がり、頬がわずかに紅潮する」


 それは「喜び」と「賞賛」のサイン。

 氷の仮面をつけた彼女が自分にだけ見せる0.2秒の本当の顔。


 その事実に、怜の完璧なロジックで構築された思考回路は初めて嬉しいノイズにかき乱され始めていた。

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