【法廷恋愛短編小説】その嘘を、見抜かないで ~0.2秒の恋人は真実を語るか~(約9,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
序章:氷の仮面(ポーカーフェイス)
嘘は、顔に出る。
正確に言えば、0.2秒以下のごく僅かな時間だけ、筋肉の無意識な収縮として顔面に表出する。心理学者ポール・エクマンが提唱した
私、
東都大学の大講義室。
私は壇上から百人以上の学生たちの顔を見渡していた。
熱心に頷いているようで、瞳孔が拡散し思考が完全に停止している学生。
退屈そうな表情を浮かべながらも、私の言葉の矛盾点を探そうと口元が微かに引きつっている優秀な学生。
スマートフォンを見ているのを注意されまいと、必死に真面目な表情を作る学生の顔に浮かぶ0.04秒の「恐怖」のマイクロエクスプレッション。
彼らの心の声は、私には手に取るようにわかった。
「このように、非言語コミュニケーションは時に言葉以上に雄弁にその人の真意を物語ります。特に法廷のような極限の緊張状態においては――」
認知心理学准教授。
それが私の表の顔。
そしてもう一つの顔――検察庁からの極秘依頼を受け、被告人や証人の嘘を見抜く法廷心理学者。それが私の裏の顔だった。
講義を終え研究室に戻ると、予想通り一本の電話がかかってきた。東京地方検察庁刑事部の管理官からだった。
「氷室先生、また、お願いしたい案件が」
私は深い溜息をついた。
また人間の醜い嘘のシンフォニーを聴かされるのか。
この能力は私から「人間を信じる」というささやかな幸福を奪い去った。特に恋愛において。甘い愛の言葉を囁きながら、その瞳の奥に0.2秒だけ浮かぶ下心や欺瞞のサイン。私はそれに耐えられなかった。
恋愛とは最も高度で複雑な欺瞞の応酬。
進化心理学的に言えば、配偶者獲得のための戦略的な自己提示の連続だ。私にとってはそれは最も非合理で忌むべき感情のバグでしかなかった。だからこそ私は、これまで誰とも深い関係を築くことなく、孤独の城に身を潜めてきたのだ。
数日後、私は東京地裁の一室にいた。そこで今回の事件の担当検事と初めて顔を合わせた。
彼の名前は噂では聞いていた。
論理と証拠だけを武器に数々の難事件を解決してきた東京地検の若きエース。
法科大学院を首席で卒業し、司法試験も一発合格。
感情を排した冷徹な捜査手法で九割を超える有罪率を誇る男だった。
彼は私を一瞥すると、露骨な嫌悪感を浮かべて言った。
「あなたが氷室先生ですか。僕は心理学という非科学的なものを法廷に持ち込むことには反対です」
「そうでしょうね、黒澤検事」
私は冷静に返した。
「あなたの顔にも書いてありますから。『統計的有意差の認められないオカルトには興味がない』と」
彼の眉がぴくりと動いた。
驚きのサイン。
私の分析はすでに始まっていた。
左眼窩上隆起の微細な収縮、口輪筋の一瞬の弛緩――典型的な「予想外の情報に遭遇した」際の表情だった。
事件は世間を騒がせていた。新進気鋭のIT企業「ネクサス・テクノロジー」の若手社長、田中慎也(三十四歳)が、自宅の高級マンションで殺害された。状況証拠は彼の第一秘書であった若い女性、山田美香(二十八歳)を犯人だと示していた。だが彼女は完璧なアリバイを主張し、犯行を全面的に否認。
そして裁判の鍵を握るのが、被害者の親友であり事件の第一発見者でもある安達祐子(三十一歳)という女性の証言だった。
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